坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年4月1日 復活祭イースター礼拝説教 「復活」

聖書 ルカによる福音書24章1~12節
説教者 山岡 創 

24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。



           「復  活」
 本日は、イエス・キリストの復活祭イースターを迎えました。皆さん、イエス・キリストの復活、おめでとうございます。
 ところで、私はベルクというスーパーマーケットによく買い物に行きます。そのベルクで3月中、こんなコマーシャルが放送されていました。ベルクに買い物に行かれる方は耳にしたことがおありだと思います。“イースターって、どんな日?”初めて聞いた時、私はハッとして、どんなことを言うのだろう?と耳を傾けました。
 イースターは復活祭。春分の日の後の最初の満月の次の日曜日。復活祭と言えばイースターエッグ、卵でお祝いをします。キッシュ、オムレツ、皆さんも卵料理でイースターをお過ごしください。
不正確ですが、だいたいこんな感じの放送が流れました。春分の日の後の最初の満月の次の日曜日なんて、クリスチャンでもなかなか知らないぞ、と関心もしました。
けれども、やっぱり肝心なことが抜けているなぁ‥‥と思いました。いったいだれの復活祭なのか?それを言わなければ‥‥とクリスチャンとしては思います。イエス・キリストが復活した。それを祝う祭りがイースターです。
 日本でも以前からマクドナルドやディズニーランドがイースターのイベントを開催するなど、イースターという言葉がだいぶ認知されるようになってきました。けれども、イースターはキリスト教の祝祭日であり、キリストの復活を祝う記念の日だということを知っている人がどれぐらいいるでしょうか。やはり、これは私たち教会が宣伝しなければならないところです。
 けれども、そんなことを考えながら、私はふと、“イエス・キリストの”を取って“復活祭”とだけ言うのも、あながち意味のないことではないかも知れない、と思いました。と言うのは、いったいだれの復活祭か?と深く考えさせられたからです。もちろんイエス・キリストの復活祭です。けれども、同時に“私(たち)の”復活祭だと言うことができるのです。キリストの復活を喜び祝う日は、私たち自身の復活を喜び祝う時になってこそ、信仰の意味があるのです。キリストの復活を信じることが、私たち自身の復活と結び付いてこそ、生きる力になります。
 最初に、キリストの復活おめでとうございます、と言いました。いったい何がどうしておめでたいの?と感じた方もおられたでしょう。キリストの復活を信じて喜び祝うことが、自分自身の復活を信じる希望となり、勇気となり、感謝となる時こそ、私たちは心から、おめでとう!と言えるようになるのではないでしょうか。

 さて、今日読んだ聖書箇所は、イエス・キリストの復活を伝える箇所の一つです。十字架刑で処刑された主イエスの体に香料を塗るために、女たちは日曜日の早朝、墓へ出かけました。主イエスの遺体は洞穴型の墓に安置されていました。ところが、墓に着いてみると、もぬけの空で主イエスの体は見当たりません。途方に暮れていると、二人の天使が現れて、主イエスが復活されたことを告げました。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5〜6節)。
 私は、この御(み)言葉を黙想しながら、ふと、どうして復活したイエス様はここにおられなかったのだろうか?と思いました。復活して、しばらくお墓の中にいてくださったら良かったのに。そうすれば、婦人たちも復活したイエス様を見て、簡単に信じることができたのに。どうしてイエス様はどこかに行ってしまわれたのだろうか?
 教会の集会で、皆さんと聖書をめぐって分かち合いをしていると、時々同じような話になることがあります。イエス様が目の前に現われてくださったら、直接言葉をかけてくださったら、何かしるしや奇跡を行ってくださったら、分かりやすいのに‥‥。確かにそうです。それならば、私たちはいともた易く信じることができるでしょう。
 男の弟子たちも、同じように思ったことでしょう。婦人たちからこの話を聞いた時、「使徒たちには、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(11節)とあります。復活したイエス様が、弟子(使徒)たちの前に現れたら、そして何か確たるものを示してくださったら、彼らは、たわ言などとは思わず、信じることができたでしょう。しかし、復活した主イエスは墓にはいない、目の前にはいないのです。
 けれども、復活した主イエスが、婦人たちの目の前にはいない、そして私たちの目の前にはいないということには、私たちの信仰にとって大切な意味があると思うのです。勘違いをしてはならないのは、復活とは“生き返る”ことではない、ということです。一度死んだ人間が生き返る。それは全能の神の力からすれば、できないことではありません。けれども、一歩間違えたら、私たちにとってそれはオカルトになってしまいます。そういうオカルト的な、ご利益的なものを望む信仰になってしまいます。
 けれども、復活とは生き返ることではありません。だからこそ、主イエスは目の前にいないのです。目に見えるものによって、私たちが信じることはできないのです。
 「見ないのに信じる人は、幸いです」(ヨハネ20章29節)。弟子のトマスが復活したイエス・キリストと出会い、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と告白した時、主イエスはこう言われました。ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)20章の話です。この言葉は、実はトマスに言われた言葉ではありません。後に福音書を読む読者のために、2千年後の読者である私たちのために書き残されている言葉です。後の読者の目の前に、復活した主イエスが見える姿で現れるわけではありません。だからこそ、見ないで信じる以外に、信仰の道はないのだよ、ということを、この言葉は私たちに示しているのです。
 見ないのに信じる幸い。榎本保郎牧師という方が、『一日一章』という黙想集をお書きになりましたが、その本の中に、ルカ24章について、次のように書いておられます。
どの福音書にも、どのようにしてイエスが復活されたかについては、何も書かれていない。それは人間には全然わからないことである。わからないからその当時の人も書いていないし、もちろん2千年後の私たちにもわかるはずがない。私たちに言い得るのは、この人たちと同じように、墓が空(から)であること、昔天使が告げたことが今、聖書を通して告げられているということ、そして私たちが今も復活のキリストに出会うことができるということである。‥‥
 ティーリケは「神を知る方法は神の御言葉に従っていく以外にない。人生論の分析や歴史の解決によって、神の存在を証明することはできない」と書いている。生きた方を死人の中にということは、思想や論理の世界の中に神を尋ねていってもわかるものではなく、信じない者にはわからないということである。イエスの復活を知った女たちから使徒たちが復活の話を聞いても、愚かな話のように思って、それを信じなかった。まして2千年たった今、復活なんてと笑われても当然である。しかし、それを信じていくことによって、はじめて復活の主に出会えるのである。
 榎本先生は、ティーリケという神学者の言葉を引用しながら、神を信じる、キリストの復活を信じるには、今、聖書を通して告げられている神の御言葉に従っていく以外にない、と言われます。それは、今日の聖書箇所に登場する婦人たちが感じたことです。「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(6〜7節)と天使たちから言われて、婦人たちは主イエスの言葉を思い出し、その言葉を信じて、使徒たちのもとに走ったのです。
 復活なんて信じられないのが普通でしょう。けれども、聖書の御言葉を信じて、従って生きていくとき、私たちは復活した主イエスと出会うのです。その姿を見るのではありません。見ることと出会うことは違います。「生きておられる方」、生きて働く主イエスと、魂において、生き方において出会うのです。
 だから、聖書の御言葉に“でも”と言わないようにしましょう。“聖書にはこう書かれている。でも‥‥”と言わない。それでは、信じて従うことになりません。社会の常識や自分の経験や価値観から“でも”と言いたくなる気持が分からないわけではありません。けれども、それは神の言葉を聞くのではなく、神さまに自分の考えを聞かせ、従わせようとしていることになります。それは信仰ではないのです。もちろん、聖書の言葉を自分の生活や生き方に100%、ストレートに反映させることは難しいかも知れません。けれども、そこで“でも”と言わない。聖書の言葉と自分の生活をすり合わせて、自分の生活に聖書の言葉を半分でも、10%でも、1%でも反映させる生き方を捜す、生かしていく具体的な方法を捜すのです。それが信じるということです。そして、それがまさに、自分の人生の中に「生きている方」を捜す、復活した主イエスを捜し当てることです。それができたら、それは私たち自身の復活になります。私たちの生きる力に、希望に、勇気に、感謝に、愛になります。

 御言葉を自分の生活に生かし、反映させる。例えば先週の説教でもお話しましたが、3月18日の聖書黙想の会で、ルカ福音書12章の〈愚かな金持ちのたとえ〉を読み、考え、分かち合いました。私は、もし自分が「今夜、お前の命は取り上げられる」(12章20節)と言われたら、受け入れられるか?悔いなく死ねるか?悔いなく死を迎えるためにはどう生きればいいか?と考えさせられました。そして、最期に“ありがとう”と感謝して死ねたら、悔いがないのではないかと思いました。そこで、私は、一日一つ、感謝を見つけることに決めて、それを紙に書いて壁に貼り、一日を終える時に、今日の感謝を数えることにしています。もちろん、一日の途中で考えることもありますし、1つではなく、2つ、3つになることもあります。そのようにして、私は御言葉に生かされているのです。気づかなかったこと、見失っていたことを示されて、神さまが喜んでくださる人生に復活するのです。
 ともすれば、私たちは、自分の人生に不満や愚痴ばかりを感じることがあるでしょう。あきらめや不信感、絶望ばかりを募らせることがあるでしょう。けれども、それでは“生ける屍(しかばね)”のようになってしまいます。“死者の生き方”です。
 けれども、そんな私たちを、復活した主イエスの御言葉は励まします。慰めます。大切なことを示します。希望と勇気、感謝と愛を与えます。私たちを“生きている者”に復活させます。自分の人生に喜びと意味を発見させるのです。
 “29年の獄中生活も含めて、人生無駄なことは何もない”。冤罪(えんざい)被害者であった桜井昌司さんという方の言葉です。数日前の朝日新聞の[人]の欄で、この方のことを知りました。1967年に茨城県で起きた強盗殺人事件で自白を強要され、20歳で無期懲役を言い渡されました。“泣いても叫んでもどうにもならない。ならば、今なすべきことをなすしかない”と、ひたすら前を向き、苦しみの中で幸せを見いだそうとして生きて来たといいます。49歳で仮釈放、64歳で再審無罪を勝ち取ります。体がスッと軽くなったそうです。その後、桜井さんは全国各地の冤罪被害者を支援し、友情を育(はぐく)んでおられます。その姿が[獄友]という映画にもなりました。そんな桜井さんが言われた言葉です。
 その言葉に感動しました。この方はクリスチャンではないと思います。でも、過酷な苦しみを経て、“人生無駄なことは何もない”と言われる。生きている、生かされている、復活している人だなぁ、と感じます。
 私たちは何からその思いを得るか?主イエスの御言葉からです。御言葉に助けられて、信じて従って、生かされて、私たちの命に無駄なことは何もないと、感謝して生きていきたいと願います。イースターおめでとう!キリスト復活の真理を、御言葉の力を信じて、今日も明日も歩みましょう。


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