坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年4月8日  主日礼拝説教「命のパンをください」

聖書 ヨハネによる福音書6章22〜35節
説教者 山岡 創牧師 


6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。
6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。



           「命のパンをください」
 今日読んだ聖書箇所を黙想していて、“あれっ?変だぞ”と思った御(み)言葉があります。それは26節です。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」という御言葉です。どこが変だと思ったかと言えば、「しるし」と「パンを食べて満腹」することは同じことではないのか?違うことなのか?という点でした。私は今まで同じだと思っていました。ところが、26節の主イエスの御言葉によれば、どうやら同じではない、違うことだと気づいたのです。
 ちなみに、「しるし」というのは、「奇跡」や「不思議な業」と同じ意味だと、聖書巻末の用語解説に書かれています。けれども、私は微妙なニュアンスの違いを感じます。「しるし」という言葉は、英語で言えば“サイン”です。つまり、隠された意味を示すものです。何を示しているのかと言えば、そこに神の力が働いて、その場を神さまが愛で満たしておられる恵みを示している、それが「しるし」です。しかし、パンを食べて満腹したことは、群衆にとって奇跡ではあっても、「しるし」とはならなかったのです。
 6章の初めに、群衆がパンを食べて満腹した話があります。群衆は、湖の向こう岸まで主イエスを追いかけました。主イエスが病人を癒す「しるし」(2節)を見たからです。そして、五つのパンと二匹の魚を主イエスが分け与えたことによって、男だけで5千人もの群衆が食べて満腹するという奇跡が起こりました。
 けれども、その出来事は、群衆にとって奇跡ではあっても、「しるし」にはならなかったようです。神の力と神の支配を示されたのではなかったようです。神さまが、目には見えないけれど自分と共にいてくださる恵みを感じるものにはならなかったようです。
 同じ出来事を味わったとしても、そこに神の恵みを感じる人とそうでない人がいます。どんなに小さな出来事にも、ごく平凡な日常生活の1コマにも、神の恵みを感じ、感謝し、神さまを信じる人がいます。それが信仰です。信仰とは、神の恵みを感じる心のセンサーです。恵みを感じて受け取れば、小さな出来事も、平凡な日常生活の1コマも、その人にとって、それは「しるし」になります。
 そういう意味で、「しるし」を捜し当てる生活、神の恵みを感じて感謝する生活が、信仰生活というものです。だから、私たちは、神の恵みを捜し求めていくのです。満腹を捜し求めるのではありません。今日の聖書箇所にも、群衆は「イエスを捜し求めて」(24節)、湖のこちら側、カファルナウムまで来たとありますが、彼らは満腹を捜し求めていました。それは、信仰生活ではないのです。本当の意味での求道ではないのです。
 主イエスを捜し求めることにも2種類あります。自分に都合のよい満腹を捜し求めることと、神の恵みを捜し求めることです。そして、自分に都合のよいものばかりを求めていたら、人生はそうそう都合の良いことばかり起こりませんから、信じることはできないのです。そうではなくて、神の恵みを捜し求めていく。どんな出来事の中にも、都合の良いことにも、悪いことにも、神の恵みがあると信じて捜し当てていく。それが、信仰生活です。そういう心のセンスを求め、磨いていくのが本当の意味での求道でしょう。

 残念ながら、群衆は、パンの奇跡の出来事に、神の恵みを感じ取ることができませんでした。「しるし」として受け取ることができませんでした。ただ、満腹した事実だけを受け止め、満腹の力を求めて主イエスのもとに再びやって来たのです。
 そのような群衆に、主イエスはズバリと、「あなたがたがわたしを求めているのは‥‥満腹したからだ」と指摘し、続けて「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(27節)と言われました。
 「朽ちる食べ物」とは、いわゆる肉体を養うための食べ物です。それが象徴しているものは、表面的な満腹です。物質的な満足です。けれども、それは長続きしません。得られないこともあるし、得たとしても失われることもあります。一つの満腹(満足)感を得ても、それに慣れれば、もう一段上の刺激を求め、さらに上の刺激を続けていくことになります。それでは、私たちは満たされないのです。
 そのように永遠に満たされない満足を求めていくのではなく、朽ちることのない永遠の命に至る食べ物を求めなさい。すなわち、神の恵みを求めて働きなさい、と主イエスは教えているのです。
 それを聞いた群衆は、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28節)と問い返しました。主イエスから「働きなさい」と言われたことで、何か“行い”が必要だと思ったのでしょう。永遠の命に至る食べ物を得るためには、何をしたらよいのですか?という問いかけです。その問いに、主イエスは、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29節)とお答えになりました。必要なのは“行い”ではなく、“信仰”です。

 ふと、金持ちの議員の話を思い起こしました。ルカによる福音書18章18節以下で、主イエスのもとに来て、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた議員の話です。主イエスは、神の掟である十戒を守りなさい、と言われました。すると彼は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えます。子供の時から守り行なって来たのに、彼には確信がなかった。神の恵みを受け取ることはできなかった。神さまが共にいてくださる平安と感謝を心に抱くことができなかったのです。
 そんな議員に主イエスは、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。‥‥それから、わたしに従いなさい」(22節)と言われました。それを聞いた議員は悲しみながら立ち去っていきます。大変な金持だったからである、とその理由が書かれています。物質的な満足を手放すことができなかったのです。
 物質的な満足をいちばんにしている限り、私たちは、永遠の命を、永遠の命に至る神の恵みを、神が共にいてくださる喜びを、平安を、感謝を得ることはできません。
 もちろん、私たちがこの世で生きていくためには、物やお金は必要です。食べ物が必要です。けれども、それを人生の第一としない。こだわらず、欲望の虜(とりこ)にならないようにする。物質的な自分の価値観を売り払い、主イエスに従って行くことを第一とする。主イエスに従って生きていくその先に、永遠の命に至る食べ物がある。神の恵みがある。それを得ることで、喜び、平安、感謝の生活を送ることができると信じて従って行くのです。それが、「神がお遣わしになった者を信じる」ということです。

 主イエス・キリストこそ、「神がお遣わしになった者」であると信じる。そのように信頼することで、主イエスに従って行くことができます。信頼していない人に、私たちは従うことはできません。信じているからこそ、従って行ける。そして、主イエスに従うことは、主イエスの御言葉に従って生きていくこととイコールです。
 主イエスの時代から2千年後の現代社会を生きている私たちの目の前に、主イエスはおられません。そして、目の前にいない、目に見えない主イエスに従って行くということは、聖書に書き残された主イエスの御言葉に従って生きていくことにほかなりません。
だから、先週もお話しましたが、主イエスの御言葉に“でも”と言わないようにしましょう。“主イエスはこう言われる。でも‥‥”、自分の価値観からすれば、“でも”と言いたくなる。あの議員のように、主イエスのもとを立ち去りたくなる。しかし、それをしたら、朽ちる食べ物の満腹は得られても、神の恵みは、永遠の命に続く喜び、平安、感謝は得られません。だから、“でも”と言わない。100%、ストレートに従えなくても、50%でも、10%でも、1%でも御言葉を自分の生活に反映し、生かす具体的な生き方を模索していく。それが、主イエスの御言葉に従うということです。
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4章4節)。主イエスが、荒れ野で悪魔から、石をパンに変えてみろ、と誘惑された時に言われた言葉です。当時のユダヤ人はローマ帝国に支配され、絞り上げられ、貧困と空腹に苦しんでいました。主イエスご自身、その苦労を味わわれたのです。けれども、そのような生活の中で、主イエスご自身が聖書の言葉に従っています。先の言葉は、旧約聖書・申命記8章3節の言葉です。空腹の苦しみの中で、主イエスご自身が、“聖書にはこう書いてある。でも‥‥”と言わずに、永遠の命に至る魂の糧(かて)を見定めて、御言葉に従い、誘惑を退けられたのです。
 群衆は、主イエスのことを「神がお遣(つか)わしになった者」と信じられるように、「しるし」を求めました。けれども、どんなに奇跡を行ったとしても、人は、そこに神の恵みを見いだせるとは限りません。反対に、どんなに小さな出来事、平凡な日常の1コマであろうと、信じる人は、神が共にいてくださる恵みを見出します。神の愛を見出します。この神の恵みこそが、私たちの内に信仰を養い、平安と感謝を育て、満たしていくのです。

 既に天に召されましたが、カトリックのシスターで渡辺和子さんという方が『愛と祈りで子どもは育つ』という著書を書かれました。その中に、次のような文章があります。
いくら経済的に、また物質的に満たされていても、心の中が平和で満たされているかどうか、喜びで満たされているかどうか、実はそれがとても大事なのです。「満腹人間が今の世の中多すぎて、満足人間が少なくなった。そして、このことが、今の青少年の非行の原因となっている」という言葉に、本当のそうかも知れないと思ったことがあります。つまり、おなかが空いてミルクを泣き求める乳児に哺乳ビンをくわえさせておけば、満腹するだろう。しかし、母親の胸に抱かれて、母乳をもらったり、抱いた手からミルクを飲ませてもらう乳児は、満腹と同時に満足するだろうということなのです。「人はパンのみで生きるのではない」のです。母親の愛情、人の温もりなしに育つ時、ロボットのような血も情けもない子どもが育つことが考えられます。
私たち人間は、満たされないと、どうしても満たしてくれる人を求めがちです。私は今も若い女子学生たちに接する機会がありますが、彼女たちが、ボーイフレンドから自分を価値あるものと見てほしいために、お化粧をしたり、お金を貢(みつ)いだり、体を安易に委ねてしまったりするのを見ると、本当に悲しくなります。‥‥‥ボーイフレンドに価値あるものと見てもらうためなら何でもする。それは自分を大切にしているのではなく、自分を粗末にしていることなのです。自分を大切にするということは、かけがえのない自分の価値に目覚めることであり、そのためには、他人にありのままの自分で大切にされることが必須条件です。大切にされて初めて、人は自分の「大切さ」に気づくのですから。(『愛と祈りで子どもは育つ』25〜26頁)
 主イエスを「命のパン」(35節)と信じるということは、主イエスの御言葉を通して、神がありのままの自分を大切にしてくださっている恵みを信じることです。信仰によって、人の愛情、人の温もりの中に、社会の中に自分の人生を抱いてくださっている神の恵みを見つけ、信じることです。たとえ不都合な環境や愛が感じられないような時でも、神さまは自分を見守り、変わらずに愛してくださっている。そう信じて、恵みを見つけるのです。感謝を見つけるのです。それによって、私たちは満たされ、自分のかけがえのない価値に気づき、永遠の命に至る喜びと感謝の生活を歩んで行くのです。喜びに飢えることなく、愛に渇くことのない人生を歩んで行くのです。



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