坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年7月1日 聖餐式礼拝説教「うわべだけで裁くな」

聖書  ヨハネによる福音書7章10〜24節
説教者 山岡 創牧師 


7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。
7:11 祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。
7:12 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。
7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。
7:14 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。
7:15 ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、
7:16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。
7:17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
7:18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。
7:19 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」
7:20 群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」
7:21 イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。
7:22 しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。
7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。
7:24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」



          「うわべだけで裁くな」
 先週の日曜日、鈴木崇巨牧師を私たちの教会にお迎えし、礼拝(れいはい)の説教と、午後の研修会のお話をしていただきました。今年度の坂戸いずみ教会の課題・目標は「祈りあわせる教会をつくろう」ということで、鈴木先生にこの目標に沿って説教と研修をお願いしました。すると先生は、説教のタイトルを「ハレルヤは聖書の祈り」、また研修会のテーマを「聖書が教える祈りの基本」としてお話してくださいました。
 説教と講演の中で、鈴木先生がお話になったことの中心は、ハレルヤ(主を賛美せよ)の祈りを、神を賛美する祈りをしましょう、ということでした。私たちのお祈りはお願い事が多すぎる。願いに始まり、願いに終わると言っても過言ではないぐらいです。それが悪いと言うのではないが、聖書の中の祈りを考えると、主の祈りでも詩編でも、まずハレルヤと神さまへの賛美が献げられている。自分を主とするのではなく、神さまを主とする祈りが献げられている。私たちも、“神が讃(たた)えられますように”“神を賛美します”という祈りをしましょう。そういう祈りを意識すれば、私たちの信仰そのものの意識が神と主イエスを中心とした信仰に変えられる、ということでした。
 そのお話を聞いて、今までほとんど意識していなかった祈りの視点を与えられた思いです。神さまを賛美することを意識して祈るようにしようと思います。でも、慣れていません。ぎこちないです。だから、せめて最初の神さまへの呼び掛けの前に“ハレルヤ”と賛美するようにしよう、“ハレルヤ、主イエス・キリストの父なる神さま‥‥”と祈り始めるようにしようと考えています。けれども、つい忘れます。忘れることがあってもいい。‥‥ねばならない、と律法主義的にならないようにしよう、そのうちだんだん賛美の祈りが自然になって来るだろう、と思っています。

 さて、鈴木先生の説教の中で、こんな話がありました。あるとき、他の教会の牧師を招いて礼拝説教をお願いした。すると、礼拝が終わってから、その先生から“鈴木先生の教会は少し変わっていますね。礼拝の司会者がお祈りの中で『ハレルヤ』というものだからびっくりしました”と言われた。それを聞いて、逆に鈴木先生の方が驚いたということです。と言うのも、お祈りの中でハレルヤと言うのはクリスチャンにとっての日常語ではないか、と鈴木先生は考えておられたからです。
 でも、私も、その招かれた先生のびっくり、分かる気がします。私がある教会の礼拝に伺った時、礼拝の後の連絡報告の時間に、報告者が最初に“ハレルヤ!”と叫びました。すると、会衆が“ハレルヤ!”と叫んで、それに応えました。私は、何だか気恥しくなりました。“少し変わっていますね”と口に出しては言いませんでしたけれども、とても違和感を感じました。
 けれども、そのように感じるのは、もしかしたら、うわべだけで見ている、ということかも知れません。私たちは、自分が慣れ親しんでいないことには、とても違和感を感じます。何かに違和感を感じること自体は、だれにでもあることです。けれども、違和感を感じるものに対して、私たちはともすれば非難し、レッテルを貼り、否定することがあります。その態度は、主イエスが警告された、うわべだけで人を裁くということにつながるのではないか。そんなことを思いました。

「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」(24節)。
 主イエスは、ユダヤ人たちにこう言われました。と言うのも、主イエスの行動に対して、そのうわべだけを見ての非難が、ユダヤ人たちの間に強くあったからです。群衆の間では、主イエスの言動、活動を見て、聞いて、「『良い人だ』と言う人もいれば、『いや、群衆を惑(まど)わしている』と言う者もいた」(12節)と書かれているように、評価が分かれていました。けれども、主だったユダヤ人の間では、主イエスの行動は非難され、否定され、律法違反の罪で殺さなければ(処刑)と考えられていたのです。
 その理由は、主イエスが「安息日(あんそくび)に全身をいやした」(23節)という行動でした。ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)を5章に遡(さかのぼ)りますと、主イエスが、過越(すぎこし)の祭りの期間にエルサレムに上った際に、ベトザタの池のほとりで、38年間病気で苦しんでいた人を癒(いや)したという話が出て来ます。癒しの行為自体は、賞賛されるべきカリスマ的な力、奇跡の業です。けれども、問題はその行為が安息日になされたことにありました。
 ユダヤ人は、モーセを通して与えられた律法と呼ばれる神の掟を重んじます。その中に、安息日の掟がありました。十戒の一つです。簡単に言えば、信仰的な理由から、その日(土曜日)には働いてはならない、という掟でした。ユダヤ人は、安息日の掟を重んじました。特に、ファリサイ派と呼ばれる人々は、具体的に、火を使って料理をしてはならないとか、何歩までしか歩いてはならない、というような規定を定めて、生活に適用しました。そこまで厳格に、安息日の掟を守ろうとしたのです。もちろん医療行為も、緊急性のあるもの以外は禁じられていました。
 主イエスは安息日に、38年間病気で苦しんでいた人を癒されました。その行為は緊急性のない医療行為として、律法違反、安息日違反と判断されたのです。
 それで主イエスが謝っていれば、問題は大きくならなかったかも知れません。けれども、主イエスは、そのようなユダヤ人の考え方、彼らの判断に異議を唱えました。あなたたちだって、安息日に働いているではないか、と。それは、安息日に割礼(かつれい)の儀式を行うことでした。
 ユダヤ人は、安息日の掟と並んで、割礼の掟を重んじました。割礼とは、ユダヤ人男子が、生後8日目に受ける儀式です。男性器の包皮(ほうひ)を切り取ることで、ユダヤ人の一員、神に選ばれた民族の一員であることの証明としました。
 生後8日目と定められていますから、その日が安息日と重なることが当然あるわけです。けれども、安息日であっても、割礼という儀式行為を行うことは認められました。どうしてでしょうか?それは、割礼が彼らにとって、“人を救う”行為だと考えられたからではないでしょうか。
 先ほど割礼は、神の民に属していることの証明だとお話しました。神の民に属していることは、神に愛されているという保証です。受け入れられているという保証です。永遠の命と呼ばれる命を、神さまから約束されている、という保証です。そのように人間と神さまとの関係が回復し、良好に保たれ、安心と希望が与えられていることが“人の救い”なのです。
人を救いの中に入れることが、何にも増して優先事項である。だから、割礼は、安息日であっても許されていたのではないでしょうか。

 人を神の救いの中に入れることが、何にも増して優先事項である。確かに、それが神さまの御心(みこころ)でしょう。主イエスは何よりも、誰よりも、人を神の救いの中に入れることが神の御心であると律法から汲み取って、律法の優先事項として行動しているのです。
 律法の中に、聖書の中に示されている神の御心とは何でしょうか?一言で言えば、それは“愛”です。神が私たち人間を愛しておられる、ということです。ヨハネによる福音書は、この神の御心を、3章16節において端的に語っています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
 神さまは、独り子イエス・キリストを通して、ご自分が人を、分け隔(へだ)てなく、ありのままに愛していることを示そうとされました。永遠の命を約束して、安心と希望を示そうとされました。主イエスは、その父なる神の御心に従って行動しようとしています。人を愛することによって、神の御心を、神の愛を伝えようとしておられます。人を救おうとしています。それが、律法の真髄、聖書の真髄だと考えておられるのです。
 そのような主イエスの行為に腹を立て、認めようとしないのはどうしてか?どうして、主イエスの教えと行動が「神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか」(17節)が分からないのか?「自分勝手」(18節)だからです。自己中心だからです。
確かに、ユダヤ人は律法に従おうとしている。神の御心も考えてはいる。けれども、自分たちが考えていること、具体的に行っていることが、彼らにとっては神の御心であり、正しいことなのです。安息日の掟を彼らが定めているように守ることが絶対なのです。そのように彼らが考え、具体的に定めたことと少しでも違っていたら、彼らは違和感を感じ、違反だと非難し、裁くのです。その行動が自分たちと違う、といううわべだけを見て裁くのです。中味を見て、神の御心が、神の愛が行われているかを判断しようとはしない。そして、うわべだけで裁く自分の間違いに気づかないのです。
 他人事ではありません。私たちもともすれば、うわべだけで人を裁くことが少なからずあるのではないでしょうか。信仰の点で言えば、人の教会生活のうわべだけを見て、その人を裁いてしまうことがあります。どれだけ礼拝に出席しているか、奉仕しているか、献金しているか‥‥そういったことで、その人の信仰に優劣を付け、勝手に決めつけたりします。それは、父なる神の愛の御心に、主イエスの道に適いません。
 また、どんなに熱心に礼拝に出席し、奉仕し、献金しても、自分の信仰はうわべだけだ、何も神の恵みを分かっていない、感じていないと自分を裁く人がいるかも知れません。けれども、うわべだけかどうかは、聖書の内容、神の恵みが分かっているかどうか、感じているかどうかで決まるのではありません。今、何も分からなくても、何も感じなくても、神の救いを本気で求めようとする思いがあるならば、その信仰生活は決してうわべだけではありません。求める気持ちがあるならば、いつかあなたの内に聖霊が働いて、神の愛を感じ、神の救いの恵みを分からせてくださる時がきっと来ます。

 キリストの愛とともに歩もう。坂戸いずみ教会は、このことを教会の永遠の願いとして、目標として掲げています。それは、父なる神さまが、主イエスを通して、私たち一人ひとりを、分け隔てなく、ありのままに愛してくださっていると信じているからです。
そのように愛されている者として、私たちも、主イエスに倣い、隣人を愛そう、互いに愛し合おうと願っているからです。
 自分も愛されている。相手も愛されている。だから、神に愛されている人として見る。自分勝手な目で見て、うわべだけで判断し、裁かない。それが愛するということです。そのように人を愛して生きることで、主イエスの愛の真髄が分かります。自分も神さまに愛されていることが実感として分かるようになります。主イエスこそ、神の御心を行う神の子、救い主であると信じられるようになります。
  私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように、地面を早く走れない。
  私が体をゆすっても、きれいな音は出ないけど、
  あのなる鈴は私のように、たくさんな唄は知らないよ。
  鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。
 金子みすず、という人の詩です。違いを認め、その人の内にある良さ、内にある愛を見るようにしていきたいものです。主イエスに従い、一人ひとりを愛する心で歩みたいと願います。



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