坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年7月8日 主日礼拝説教「わたしを捜しても」

聖書  ヨハネによる福音書7章25〜36節
説教者 山岡 創牧師 


◆この人はメシアか
7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。
7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。
7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。
7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。
7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
◆下役たち、イエスの逮捕に向かう
7:32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。
7:33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。
7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
7:35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。
7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」



          「わたしを捜しても」
 ヨハネによる福音書の内容から考えると、主イエスは、公の人として、つまり公然と父なる神の教えを語る人として、3年間、活動されたようです。そして、主イエスが覚悟を決めて、最後にエルサレムの過越(すぎこし)の祭りに上られた時、主イエスは、ある動物にお乗りになってエルサレムの城壁内にお入りになりました。出迎えた人々は棕櫚(しゅろ)の葉を打ち降り、“ホサナ(万歳)!”と叫びながら主イエスを迎えました。まるで、敵軍との戦いに勝利した英雄を迎えるような光景でした。主イエスはこの時、戦いで活躍するような馬に乗っていたのではありません。小さなろばに乗っていました。力ではなく、愛によって平和をもたらす。そんな無言のメッセージがあったのかも知れません。
 主イエスがお乗りになった小さなろばに憧れた牧師がいました。戦後、キリスト教伝道に尽した榎本保郎という牧師です。先生はご自分のことを、主イエスのために働く小さなろば、“ちいろば”にたとえて生涯を歩まれました。皆さんの中にも、『ちいろば』や『一日一章』等、先生の著書を読まれた方もおられるでしょう。
 榎本先生は、実に破天荒な牧師だったようです。まだ同志社の神学生だった時に、京都に240坪の良い土地が見つかったと言って、駆け回ってお金を集め、その土地を買い、京都世光教会と世光寮という保育園を始めました。まだ牧師にもなっていない、いや牧師どころか洗礼も受けていない時でした。自分は牧師ではない、洗礼さえ受けていないのに、教会ではどんどん受洗者を生み出しました。(洗礼式は宣教師のマックナイトという方がされたようですが)
 その状況に、周りの人々の方が気を揉んだようです。何とか榎本先生を説得し、後から洗礼を受けさせ、牧師の資格を取らせた。良く言えば、そんな豪快な牧師でした。

 エルサレムの人々も、神殿で公然と語る主イエスとは、いったい何者なのか、気を揉んだようです。「これは、人々が殺そうと狙っている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」(25〜26節)。イエスとはいったい何者なのか?何の権威で、何の資格があって、こんなに公然と語っているのか?人々は、どう判断したら良いのか、皆目見当が付きませんでした。
 エルサレムの人々をはじめ、ユダヤ人は、「メシア」がやって来ることを願い求めていました。メシアとは簡単に言えば、彼らの言葉(ヘブライ語)で“救世主”という意味です。彼らは、自分たちを救う英雄を求めていたのです。
 当時、ユダヤ人はローマ帝国に支配され、自分たちの国を失っていました。屈辱と苦しみに耐えて生活する中で、ユダヤ人は、ローマの支配を打ち破り、自分たちに独立国家をもたらす救世主メシアを、神が遣わしてくださることを待ち望んでいました。
そのようなユダヤ人の期待、悲願の中で、少なからず、自分はメシアだと自称する者が現れ、人々を率い、しかし滅んでいきました。だから、ローマ帝国から取りあえず自治権を与えられている議員たち、祭司長やファリサイ派の人々など議員に名を連ねる人々は慎重でした。ローマ帝国の支配を脱したいという願いはある。けれども、メシアと自称する者を支持し、下手に片棒担いで事を起こせば、ローマに対する反逆罪で、今与えられている自治権や既得権益を失ってしまう。下手をすればユダヤ民族そのものが滅ぼされてしまう。それだけは避けなければならない。だから、主イエスに対する議員たちの判断と態度も慎重でした。
いや、祭司長たちやファリサイ派の人々は、主イエスによって神殿の運営を非難されたことを恨み、安息日の掟を破って病人を癒(いや)し、徴税人(ちょうぜいにん)や罪人たちと付き合う主イエスを否定し、自分たちの立場と権益を守るためにも、下手に事を起こされてユダヤ人が滅びないようにするためにも、主イエスを殺して取り除こうと考えていたのです。けれども、「群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて」(31節)、下手に主イエスに手を出せば暴動が起こるかも知れず、彼らはなかなか主イエスを捕らえることができなかったのです。そのような議員、祭司長、ファリサイ派の態度のために、主イエスはいったい何者なのか、気を揉む人、迷う人が多かったのです。
しかし、中には、「わたしたちは、この人がどこの出身か知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」(27節)と言って、主イエスの教えを聞こうとしない、主イエスを認めようとしない人々も少なからずいました。

 そのように、気を揉み、迷い、あるいは否定する人々に向かって、主イエスは語りかけています。確かに、あなたがたは私がガリラヤのナザレの出身であることを知っている。議員でも祭司でも律法学者でもなく、社会的なステイタスのない、一般人に過ぎないことを知っている。しかし、「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」(28〜29節)。
 主イエスには、ご自分は父なる神のもとから、神によって遣わされた者であるという思いがありました。それは、自分は“神”であるという思い上がりからではなく、神の真の御(み)心を伝えなければならない、伝えずにはいられないという使命感から生まれた自覚であったと思われます。
 直前の17節で、主イエスは「この方の御心を行おうとする者は」と語っています。そして、主イエスご自身がだれよりも、「御心を行おうとする者」でした。主イエスは、公に伝道を始める前に、神の言葉である律法の中に、神の御心を捜し求められたはずです。それは、ファリサイ派やその派の律法学者たちの教えに納得がいかなかったからに違いありません。
 彼らの教えは、律法を守る者は神に救われる、守らない者は神に見捨てられる、というもので、その見方で人を二つにより分け、差別するものになっていました。それによって、軽蔑され、疎外され、自分は神に見捨てられたと苦しみ悩む者が生まれました。彼らの教えからは“裁きの神”しか見えて来ませんでした。
 果たして、神とはそのような方なのか?主イエスご自身、悩み苦しまれたに違いありません。そして、神の御心を捜し求めた末に、遂に主イエスは、神の御心は、律法の真髄は“神の愛”であるということを捜し当てたのではないでしょうか。主イエスは、マタイによる福音書22章34節以下で、律法の中で最も重要な掟は、すべてを尽して神を愛することと、隣人を自分のように愛することだ、この二つに律法全体は基づいている、と言われています。神を愛し、人を愛することこそ、最優先事項だ。なぜなら、この命令の根底には、神が私たちを愛しているという「真実」があるからだ。律法を守ったからという条件付きではなく、律法を守れなくても、ありのままに私たちを愛してくださる神の愛があるからだ。主イエスは、律法の中に、“愛の神”を、“父なる神”を捜し当てたのです。そういう神の啓示(けいじ)を受けたのです。
 神の御心は“愛”である。神は私たちを愛しておられる。だから、あなたも愛する人になりなさいと願っておられる。主イエスは、この神の御心を行おうとしておられます。そして、伝えようとしておられます。そういう意味で、「わたしはその方(神)のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」と自覚しておられます。そして、あなたがたが神の御心を行おうとするなら、つまり“愛”に生きようとするなら、私が(イエスが)、たとえどこの出身であろうと、社会的なステイタスや資格がなかろうと、何者であるか分かるはずだと言われるのです。うわべではなく、「真実」を見よ、と言われるのです。

 先ほど、榎本保郎牧師のことをお話しました。小さなろばが、「主がお入用なのです」(マルコ11章3節)と言われて、主イエスの御用に用いられたように、榎本先生も、「主がお入用なのです」との言葉を聞いて、京都に土地を買い、まだ牧師でもなく、洗礼も受けていないのに、教会を建て、保育園を作って伝道を始めました。けれども、それに当たって、自分一人ではできない、自分を支え、助けてくれと、婚約していた野村和子さんに手紙を書き、すぐに結婚してほしいと求めました。当時、野村和子さんは大学生でした。まさに晴天の霹靂(へきれき)、思いがけない手紙に、和子さんは、両親に相談します。すると、父親は、その申し出を受けるべきではないかと答えました。
和子さんは反論しました。
けどなお父さん、あの人まだ高校三年の身よ。伝道は大学を出てからでええのと違う?
父:身分は確かに高校三年生や。けどな和子、伝道いうもんは、キリストさえ共にいてくださるなら、できるもんや。
和:そんな無茶な。保郎さん、牧師の資格もないんよ。
父:和子、伝道の資格はな、神がくださるもんじょ。大学を出て、試験を受けて、それで信仰は太鼓判やと、和子は思っとるのか。まちごうてはいかん。学校は要らん言うわけやない。けどな、神が共にいて働いてくださる信仰、その信仰がなければ、伝道者にはなれへん。伝道者の資格は、神から与えられるもんや。ここんとこをまちごうてはならん。        (三浦綾子著『ちいろば先生物語』210頁)
 様々な困難の中で、神の御心を確信して伝道しようとする榎本保郎先生の真実な姿を、野村和子さんの父親は見抜いておられたのでしょう。主イエスの御心が、榎本先生の中で生きて働いていることを見抜いておられたのでしょう。

 私たちも、聖書を通して、主イエスの中に「真実」を、すなわち「神の御心」を捜す者として歩みたいと願います。人生の真理は“愛”にあると捜し当てる者でありたいと思います。
 私たちは、自分勝手な思いを持っていたら、主イエスがだれなのか、つまり主イエスを通して示された真実なる愛を捜し当てることはできません。祭司長たちやファリサイ派のように、自分は正しいと思い込んでいたら、信仰の真理はこれだと決めつけていたら、「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない」(34節)と主イエスから言われてしまうでしょう。
 主イエスがだれかを捜し当てようとする者は、真理の道を捜し当てようとする者は、人生の大切なものを見つけようとする者は、独善的にならず、謙虚でなければなりません。フランスの文学者アンドレイ・ジイドは言いました。
  真実を探している者を信じよ。真実を見つけた者は疑え。
 神の御心である愛の道は、人生の終わりまで続く遥(はる)かな道程(みちのり)です。私たちは、まだそこに踏み入ったばかりでしょう。見えていないもの、分かっていないことが、たくさんあるに違いありません。その時その時に、具体的に愛を考え、実践すべきことが、たくさんあるでしょう。決して、もう既に捜し当てたとは言えません。
 自分はもう真実を見つけた、聖書の真理を見つけた、主イエスの御心を見つけたと思い上がらずに、 自分を正当化して人を裁かずに、謙虚に捜し求める一人のクリスチャンとして歩んでいきましょう。



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