坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

  2021年6月27日 主日礼拝説教  「天使、見たことある?」

聖 書 使徒言行録10章1~8節

説教者 山岡 創牧師

コルネリウス、カイサリアで幻を見る

10:1 さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、
10:2 信仰心あつく、一家そろって神を畏(おそ)れ、民に多くの施(ほどこ)しをし、絶えず神に祈っていた。
10:3 ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻(まぼろし)ではっきりと見た。
10:4 彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。
10:5 今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。
10:6 その人は、皮なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」
10:7 天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、
10:8 すべてのことを話してヤッファに送った。

 

「天使、見たことある?」
 コルネリウス。彼は天使を見ました。信仰の篤(あつ)い人だったからです。彼はユダヤ人ではありません。カイサリアに駐屯するローマ帝国部隊の百人隊長でした。当時、ユダヤ人も含め、地中海沿岸に住む諸民族はローマ帝国に支配されていました。それで帝国は治安維持のために、各地に駐屯(ちゅうとん)部隊を置いていました。当時のローマ兵と言えば、現地人に対してかなり横暴な態度を取り、時には酷(むご)い仕打ちを行っていたと思われます。
 そのような兵士たちの中に時々、例外的な人物がいます。コルネリウスもその一人でした。彼は、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(2節)と記されています。敬虔(けいけん)なユダヤ教の信仰者です。
 とは言え、コルネリウスは、ユダヤ教徒のしるしである割礼を受け、改宗していたわけではなかったようです。当時、ユダヤ教に改宗してはいないけれど、ユダヤ教の教えに惹(ひ)かれ、その神を信じる外国人が少なからずいました。そのような外国人は、律法を守り、神殿の異邦人の庭で礼拝し、定められた時間に祈りをささげていたのです。
 「午後三時」(3節)というのは、まさにユダヤ教で定められた祈りの時間でした。祈っていた時、コルネリウスは、「神の天使」(3節)の幻を見ます。そして、自分の祈りと施しが神の前に届き、覚えられていることが告げられ、またヤッファに滞在しているペトロという人物を家に招きなさい、と命じられるのです。
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 天使を見る。聖書には、天使が現れた、天使に語りかけられた、という物語が何箇所かあります。当たり前のように書かれていますが、当時、天使と遭遇(そうぐう)し、その姿を見るというのは、比較的、人々に起こる出来事だったのでしょうか?翻(ひるがえ)って現代のクリスチャンとして、皆さんは天使を見たことがありますか?
 実は私、天使を見たことがあります。えーっ!嘘(うそ)!?と驚かれるかも知れません。見たんです。とは言っても、白い服を着て、頭の上にリングがあり、背中に羽根が生えている天使を見たわけではありません。その天使は、小さな子どもの姿をしていました。
 以前にもお話したことがありますが、私は、高校卒業後の進路に悩んでいました。自分が何をしたいのか分からなかったのです。大学受験に失敗して一浪することになった私は、母親の誘いで、子どもの教会学校の奉仕をすることになりました。嫌々(いやいや)始めた奉仕でしたが、子どもたちがかわいくて、やがてその奉仕は、私の心の癒(いや)しになりました。
 しかし、依然として自分の進路は見つからず、一浪後も受験に失敗。悶々(もんもん)とした日々を過ごしている中で、サウロではありませんが、この世的に価値のない者が愛され、生かされる主イエスの救いと出会います。そして、喜びにあふれて教会学校の奉仕をしていた時、一人の子どもが、“創先生、牧師になったらいい”と促してくれました。その一言は、私が牧師として献身する進路を決めるきっかけとなりました。その子は私にとって、間違いなく“天使”だったのです。
 使徒言行録9章で、目が見えなくなったサウロは、アナニアというクリスチャンから、異邦人伝道をするようにと主イエスの御心(みこころ)を告げられました。天使とは、神の御心を告げる者のことです。その意味で、サウロにとってアナニアは“天使”でした。“創先生、牧師になったらいい”、そう言ってくれた子どもの一言に、私は神の御心を感じました。だから、その子は私にとって天使でした。
 もちろん、夢の中で天使を見、夢の中でお告げを受けることはあるかも知れません。コルネリウスも夢幻(ゆめまぼろし)の中で天使を見、お告げを受けたのかも知れません。けれども、今日の聖書箇所に、「神の天使が入って来て」(3節)とありました。天使が目の前にパッと“現れた”と言うのなら天使っぽいのですが、「入って来て」というのは、部屋にドアから入って来た、ということでしょうから、なんか人間ぽい感じがします。祈っていたコルネリウスに神の御心を告げたのは、人間だったのかも知れません。何かを悩んでいたコルネリウスの部屋に入って来て、その悩みを聞き、“そうだ、今ヤッファにペトロという人が来ていると噂で聞いた。彼の話を聞いたら、悩みが解決するかも知れない”とアドバイスをした人がいたのかも知れません。
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 神の御心を示すもの、受け取った人がそれを神の御心だと信じるならば、それが人であろうと、物であろうと、何かの出来事であろうと、それは“天使”だと言うことができます。9節以下で、ペトロが見た「大きな布のような入れ物」(11節)も、神の御心を示しているという意味で、天使だと言うことができます。
 私はふと、ロシアの文豪トルストイの『愛のあるところに神あり』という作品を思い起こしました。絵本や童話では『靴屋のマルチン』というタイトルで親しまれています。マルチンという靴屋がいました。妻と子どもに先立たれ、生きる希望を失い、酒ばかり飲んでいました。そんなある日、友人から聖書を読むようにと勧(すす)められ、マルチンは聖書を読み始めます。よく分からないところもあるけれど、聖書を読んで祈ることで、マルチンは自分の心が穏(おだ)やかになることを感じていました。
 ある夜、いつものように聖書を読んでいると、主イエスの声が聞こえました。“明日、あなたのところに行く”。翌朝、マルチンは家の中を整えて、主イエスがおいでになるのを待ちます。仕事をしながら窓の外を気にしていたマルチンは、その日、色んな人と出会います。雪かきをしていた老人を労り、赤ちゃんを抱えて行き倒れになりそうな母親にスープを御馳走(ごちそう)し、自分のオーバーを与え、りんご泥棒の少年とりんご売りの老婆の仲を仲裁します。そうしているうちに日は暮れ、マルチンは夕食を済まし、聖書を読み始めます。“とうとうイエス様はおいでにならなかった”、そうつぶやいた時、マルチンは主イエスの声を聞きます。“マルチン、わたしはあなたのところに行ったよ。あれは私だったのだ”。その声と共に、マルチンは、その日出会った老人、母親と赤ちゃん、そして少年と老婆の姿を幻で見るのです。そして、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたし(=イエス)にしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)と主の御心が示されるのです。マルチンが出会った人々は主イエスの写し身であり、神の御心を示すという意味では天使でした。
                  
 私たちの周りにもきっと、神さまがその御心を示すために遣わしてくださった天使がいます。信仰によって、出会う人から、与えられる物から、起こる出来事から、主の御心を汲み取り、主の恵みを信じて歩むことができたら幸いです。

 

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