坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年11月28日 アドヴェント第1主日礼拝説教  

       「まっすぐにせよ」       
聖 書 マルコによる福音書1章1~8節
説教者 山岡 創牧師

1神の子イエス・キリストの福音(ふくいん)の初め。
2預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
3荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、 4洗礼者(せんれいしゃ)ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣(の)べ伝えた。 5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊(せいれい)で洗礼をお授けになる。」


「まっすぐにせよ」
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣(つか)わし、あなたの道を準備させよう」(2節)。
 これは、旧約聖書の最後にあるマラキ書3章1節で、預言者マラキが語った言葉です。天地の造り主である神さまが、その独り子・救い主イエス・キリストが通る「道」を準備させる。そのためにキリストより先に、その道を準備する「使者」を遣わす、という預言です。この使者とは「洗礼者ヨハネ(4節)のことだと教会は受け止めました。
 洗礼者ヨハネ。彼は、ユダヤの荒れ野に現れて、ヨルダン川「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(4節)人物です。罪を悔い改め、そのしるしとして洗礼を受け、神の裁きを免(まぬが)れるように、と説いたのです。神さまに選ばれたユダヤ人だからだいじょうぶと高(たか)をくくってはいけない。常に悔い改めを意識して過ごすように、とヨハネは伝えたのです。
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 今日から待降節(たいこうせつ)アドヴェントが始まりました。クリスマスを間近に控えて、何人かの方に“洗礼をお受けになりませんか?”とお勧(すす)めしました。教会もユダヤ教から、洗礼者ヨハネから、この洗礼という儀式を受け継ぎ、2千年間続けて来ました。
 「洗礼」とは何でしょうか?今日の聖書の御(み)言葉から言えば、それは“道を準備する”ことだと考えられます。救い主イエス・キリストが“私”のところにおいでになる道を準備する、ということです。道がなければ、向うからこちらへ来ることはできません。洗礼を受ける。それは、イエス・キリストが“私”の心においでになる道をつくる、キリストとつながる道を、まずは準備するということでしょう。それがスタートです。
 別の言い方をすれば、道を新たに開拓する、と言うよりも、キリストとつながる道を“歩き始める”ことだと言うことができます。その道はもう既にあったのです。数え切れない人々が既に歩き、その道でキリストと出会ったのです。でも、その道があることを知らなかった。その道があることを知って、自分もその道を歩き始めようと決心する。そのように生き方を変える“心のけじめ”が洗礼だと言っても良いでしょう。
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 その道を整え、まっすぐにせよ。マルコによる福音書はもう一つ、旧約聖書の預言を引用します。それはイザヤ書40章3節、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(3節)という言葉です。最初のステップは、道を準備するということ。そして、準備ができたら次のステップは、道を整え、まっすぐにするということです。確かに、整えられた、まっすぐな道の方が、イエス様も来やすいし、私たちも歩きやすいでしょう。
 けれども、私はこの御言葉を黙想して、こう思ってしまいました。まっすぐな道なんて、まずないでしょう!?道を整えて、まっすぐにするなんて無理でしょう!?
 私は川越市で育ちました。川越市は城下町です。城下町は、敵が城下に攻め込んで来た時に、簡単には本丸にたどり着けないように道をまっすぐに作らず、曲がりくねらせるのです。川越市の道は、まっすぐに進んでいると思っても実は曲っています。
 道は通常、地形に沿って造られます。だから、坂道だったり、曲がりくねった、でこぼこ道だったりします。まっすぐに、碁盤(ごばん)の目のように道をつくれるのは、平坦で広い場所に街が造られているからでしょう。私たちがイエス様のために準備する道も、私たちの人生の“地形”に沿って造られると思うのです。人それぞれ人生の地形は違いますが、山あり谷あり、でこぼこもあって、とてもまっすぐで平坦な道なんて準備できないのではないでしょうか。そういう道を、がんばって整え、まっすぐにしないといけないのでしょうか?努力して善い業(わざ)を行い、成果を上げて、神さまに評価されるような生き方をしないと救われないのでしょうか?そうではないと思うのです。
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 高校の部活指導中に、空中回転の着地に失敗して首の骨を折り、首から下の全身が動かなくなってしまった星野富弘さん。その後、星野さんはキリストと出会い、救われます。そして、口に絵筆を加えて、草木の絵を添(そ)えた詩画集を描くようになりました。『鈴の鳴る道』(偕成社)という詩画集の中で、星野さんはこんなことを書かれています。


 車椅子に乗るようになってから12年が過ぎた。その間、道のでこぼこが良いと思ったことは一度もない。‥‥脳味噌までひっくりかえるような振動にはお手あげである。
 ‥‥ところが、この間からそういった道のでこぼこを通る時に、一つの楽しみができた。ある人から、小さな鈴をもらい、私はそれを車椅子にぶら下げた。‥‥
 道路を走っていたら、小さなでこぼこがあり、私は電動車椅子のレバーを慎重に動かしながら、そこを通り抜けようとした。その時、車椅子につけた鈴が「チリン」と鳴った。心に染みるような澄んだ音色(ねいろ)だった。「いい音だなあ」。‥‥
その日から、道のでこぼこを通るのが楽しみとなったのである。‥‥
 長い間、私は道のでこぼこや小石を、なるべく避けて通ってきた。そしていつの間にか、道にそういったものがあると思っただけで、暗い気持を持つようになっていた。しかし、小さな鈴が「チリーン」と鳴る、たったそれだけのことが、私の気持を、とても和(なご)やかにしてくれるようになったのである。
 人も皆、この鈴のようなものを、心の中に授かっているのではないだろうか。その鈴は、整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることがなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時、揺れて鳴る鈴である。‥‥私の心の中にも、小さな鈴があると思う。‥‥私の行く先にある道のでこぼこを、なるべく迂回せずに進もうと思う。(上掲書90頁)


 星野富弘さんの心の中にある小さな鈴、それは人生のでこぼこに“楽しみ”を見つけるセンスだと思います。人生の苦悩や悲しみ、問題や困難に出会ったとき、それをネガティブに、マイナスにだけ受け取るのではなく、そこに希望を見つけ、恵みを感じ、目的を探し当てていくポジティブな思考です。
 クリスチャンにとっては“信仰”です。苦悩や悲しみ、問題や困難の中で、キリストの言葉が指し示す希望を、恵みを、慰めを受け取り、感謝して生きていくスタンスです。無理に受け取らなくていい。時間はかかるかも知れない。でも、道は続いています。
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 だから、道を整え、まっすぐにするということは、苦しみ悲しみのない、問題や困難のない人生を造り上げ、でこぼこのない道を歩むことではないと思います。そんな道はまずありません。そうではなく、苦しみや悲しみ、問題や困難があっても、その出来事を通してキリストの言葉に耳を傾け、備えられている恵みと希望を、感謝と目的を受け取ることができるように信仰を整えていくこと、心の準備をしていくこと、それが道を整え、まっすぐにするということだと思います。そのために、礼拝を、御言葉と祈りの生活を積み重ねていくのです。
 そのように人生の恵みを感じ、慰めを受け、喜び、感謝して生きる時、私たちは聖霊で洗礼」(8節)を受けているのです。「水」による洗礼が儀式としての洗礼なら、聖霊による洗礼とは、神さまに愛され、生かされている恵みが自分の心にスーッと通った瞬間です。準備した道を通って、キリストが恵みを携(たずさ)えて、私たちの心に来てくださったその時です。それが、私たちにとって真のクリスマス、キリストの降誕です。

 

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