坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年11月21日 主日礼拝説教   「コンセンサス・ビルディング」
聖 書 使徒言行録15章12~21節
説教者 山岡 創牧師

12すると全会衆は静かになり、バルナバパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業(わざ)について話すのを聞いていた。 13二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。 14神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。 15預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。
16『「その後、わたしは戻って来て、
倒れたダビデの幕屋(まくや)を建て直す。
その破壊された所を建て直して、
元どおりにする。
17-18それは、人々のうちの残った者や、
わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、
主を求めるようになるためだ。」
昔から知らされていたことを行う主は、
こう言われる。』
19それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。 20ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。 21モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」

 

「コンセンサス・ビルディング」
モーセの慣習に従って割礼(かつれい)を受けなければ、あなたがたは救われない」(15章1節)。
 このひと言が、教会の中に「激しい意見の対立と論争」(2節)を引き起こしました。これは、エルサレム教会からアンティオキア教会にやって来たファリサイ派から信者になったユダヤ人」(5節)が、改宗した異邦人クリスチャンに教えていたことです。
 モーセの慣習」とは、ユダヤ人が守って来た律法という神の掟です。ファリサイ派ユダヤ人の中でも律法を厳しく守る宗派で、特に安息日(あんそくび)と割礼の掟を重んじていました。「割礼」とは、神に選ばれた民族と自負しているユダヤ人が、その証しとして体に刻むしるしでした。異邦人でも割礼を受ければユダヤ人となることができました。だから、ファリサイ派から信者になったユダヤ人は、割礼を神の救いの条件と考えていたのです。
 さて、そのような状況のアンティオキア教会に、海外伝道に出ていたパウロバルナバが帰って来ました。二人は海外で多くの異邦人に主イエス・キリストの救いを宣べ伝え、キリストの弟子としました。その際、二人は、キリストの弟子となった異邦人に割礼など強制しませんでした。割礼を、神の救いの条件とは考えていなかったからです。
 この考えの違いが、アンティオキア教会の中に「激しい意見の対立と議論」を引き起こしたのです。このままでは埒(らち)が明かない。そこで、パウロバルナバほか、数名の代表者がエルサレムに上り、使徒(しと)や教会の長老たちと協議をすることになりました。そして「議論を重ねた後」(7節)、ペトロが人々に訴えたのが、「なぜ今、あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛(くびき)を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試(こころ)みようとするのですか。わたしたちは主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは彼ら異邦人も同じことです」(10~11節)との言葉でした。
 律法はユダヤ人にとっても自分たちを縛(しば)る軛であり、重荷だった。それを異邦人に負わせてはならない。その軛に苦しみ、重荷にあえぐ人を、主イエスは、たとえ律法を守れなくても“あなたは神に愛されている”と伝えて、その魂を解放し、救ったのだ。だから、私たちは律法と割礼によってではなく、主イエスの恵みによって救われるのだ。
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 ペトロの言葉に、協議をしていた「全会衆は静かになり」(12節)ました。「主イエスの恵みによって救われる」という真理が、この議論の焦点だったからです。
 けれども、この言葉で全会衆が納得したかと言えば、そうではなかったと思われます。特にファリサイ派から信者になった人々は不満を感じていたでしょう。
 そこで、バルナバパウロが話し終えた時、ヤコブが答えました。余談ですが、主イエスの12弟子の中で、ペトロ、ヤコブヨハネと、よく三人の名前が福音書(ふくいんしょ)の中で挙げられますが、ここに出てきたヤコブは、12弟子のヤコブとは違う人物です。彼は、主イエスの実の弟で、エルサレム教会の中心的な人物になっていたようです。
 ヤコブは、ペトロの言葉を汲(く)み、旧約聖書アモス書9章11~12節の預言を取り上げて、新しい「幕屋」(16節)として建てられるキリストの教会には、ユダヤ人のうちの「残った者」「異邦人」(17節)とが差別なく属していることを認めます。その上で、ヤコブは、「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」(19節)と発言します。つまり、ペトロの意見を支持し、異邦人の救いに割礼は必要ないと言っているのです。
 けれども、それだけではファリサイ派から信者になったユダヤ人が納得できないことを、彼はよく知っています。だからヤコブは、割礼は必要なしと言いましたが、律法を大切にしているユダヤ人と異邦人クリスチャン同士が、一つの教会で交わりを持つために、律法で禁じられている食べ物とみだらな行いだけは異邦人クリスチャンにも避けてほしいと訴えているのです。
大切なことは何か?それは、ユダヤ人と異邦人が共に主を礼拝することです。慣習や価値観の違う者同士が、一つの教会として共に主を賛美し、共に食卓を囲むことです。ヤコブは、そのための提案をしました。それは全会衆に受け入れられたようです。
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 ところで、コンセンサス・ビルディングという協議のやり方があります。コンセンサスとは、意見の一致ということです。皆で話し合って、一致した意見を建て上げていく。それがコンセンサス・ビルディングの意味です。
 その際、大切なことは多数決といった方法で決定しないことです。それでは決定に不満が残り、一つの思いを持って行動することができなくなるからです。意見を出し合い、協議を重ね、全員が納得し、意見の一致を見るまでは決定しない。結論を急がない。そのやり方、考え方に、私はとても感動しました。
 そんなこと、本当にできるの?と思う人もおられるでしょう?確かに、簡単ではありません。私たち日本人は、組織や集団での協議決定がどうも苦手な傾向があるように思います。地位のある人やパーソナリティの強い人の意見が上意下達の形で通ったり、この考えとやり方しかあり得ないと主張して対立したり、どうせ何を言っても無駄だと意見を言わず、後で不平を漏らしたりします。
 心を開いて話し合い、皆が納得できる意見を建て上げるためには、どうしたらよいのでしょう?それは、自分たちの集団にとって何がいちばん大切なことか最優先事項を常に意識していることだと思います。その意識が欠落していることが多いのです。そして、自分の意見がいちばん正しく、それを通さなければならない、と考えている。そのようなスタンスでは対立し、争い合い、とてもコンセンサス・ビルディングなどできません。
 教会の最優先事項とは何でしょうか?それは、一つの教会として共に主を礼拝することです。共に賛美することです。共に交わりを持つことです。一言で言えば“神の平和”を生み出すことです。それが主イエス・キリストの御心(みこころ)だと私は思います。その目的の前では、信仰の教理もやり方も二の次です。教理や方法について自分の意見が正しいとする自己主張を捨て、違う意見に耳を傾け、どうすることがベターか、ベストなんてなかなかありません、共に主を礼拝するために何がベターか?それを落ち着いて、できるだけ穏やかに話し合う成熟したスタンスが必要です。それはつまり“愛”です。
いやー、難しい!牧師がいちばん難しい人種かも知れません。私もそうです。
先日、埼玉2区の牧師会があって、新年合同礼拝について協議しました。その際、礼拝の教理とやり方について意見が対立しました。なかなか一致せず、最終的には世話人預かりとなりました。家に帰ってから自分を振り返って、あれって、自分が正しいって主張してるってことだよなぁ。この前、“正しさを疑え”って説教したばかりじゃないか。イエス様だったらどうするか?イエス様だったら“愛”に従うわぁ、“愛”にもとることに反対するわぁ。礼拝のやり方、どっちでもいいわぁ。イエス様だったら、相手のやり方でやろう!って言うだろうなぁ。それって格好いいやぁ‥‥そんな反省をしました。
 教会だけではないと思います。愛によって平和を生み出す。共に生きる。それがキリストの御心。キリストの弟子である私たちの最優先事項。私はそう信じています。

 

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