坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年3月27日 受難節第4主日礼拝説教

       「インサイド・アウト」
聖 書 マルコによる福音書9章2~8節
説教者 山岡 創牧師

2六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 5ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 6ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 8弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

インサイド・アウト」
 昨日、教会員であるKさんをお訪ねしました。そして、いつものように玄関に入ると、左側の壁に掛け軸がかけてあり、そこに“好日(こうじつ)”という文字が書かれていました。以前から掛けてあるとのことですが、私は、その掛け軸に初めて気づきました。
 いつも玄関でお話し、お祈りするのに、どうして今まで気づかなかったのだろう?不思議に思いました。その理由を考えてみて、私はあることに気づきました。立ち位置、視線の向きがいつもと違ったのです。いつもは一人でお訪ねするのですが、昨日は妻と二人で行きました。一人の時は、掛け軸が掛かっている左側の壁に背を向けて、斜め右向きに立つのですが、二人で玄関に入ったので、私は奥に詰め、いつもと反対に左斜めに向く感じで立ちました。すると、その掛け軸が視界に飛び込んで来たのです。
 立ち位置が変わり、視点が変わると、今まで見えなかったものが見えることがあります。それは、人生についても言えるのではないでしょうか。自分の外側にある、目に見えるものばかりを追っていると見えなかったものが、自分の内側から見ると、見えてくることがある。高い山の上で主イエスの姿が変わったということは、そのことを私たちに示しているように私には思えるのです。見えなかった救いが見えるようになるのです。
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 直前の箇所で、主イエスが、ご自分の苦しみ、死と復活の予告をなさり、弟子たちに「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8章31節~)と語られました。それから「六日の後」(2節)の出来事です。主イエスは、弟子たちの中でペトロ、ヤコブヨハネだけを連れて、高い山に登られました。すると、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き」(2~3節)、この世のものとは思えないほど白くなった、というのです。まさしく“神々(こうごう)しい”お姿に変わられたのです。
 これは、ユダヤの指導者たちから排斥(はいせき)されて殺され、三日目に復活するであろう主イエスのことを、父なる神さまが、「これはわたしの愛する子」(7節)だと、すなわち神の子だと3人に示してくださった出来事でした。言い換えれば、苦難の道を歩む主イエスを父なる神が肯定された、ということです。
 とは言え、真っ白に光輝く姿が、その後も続いたわけではありません。3人が我に返ると、そこにはいつも通りの姿で主イエスが立っておられました。
 この出来事を、私は、実際に主イエスが光り輝く姿に変わったのだとは考えません。主イエスの姿は、服装はいつも通りだった。ただ、弟子たちの心の立ち位置が、視点が変わることによって、それまで見えなかったものが、主イエスの外側ではなく内側に見えた、ということではないでしょうか。言い換えれば、主イエスというお方の本性に、主イエスが歩まれる救いの道の真髄に気づいたということではないでしょうか。
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 三人の弟子の視点を変えたもの、それはエリヤとモーセです。エリヤは、かつてイスラエル王国に、バアルという偶像の礼拝がはびこった時に、主なる神の言葉を伝え、偶像礼拝と対決した預言者です。また、モーセは、奴隷だったイスラエルの先祖たちを、エジプトから解放した指導者であり、神の掟である律法を、神から授けられた人物でした。エリヤとモーセ、二人は言わば、預言と律法を象徴する存在です。つまり、二人合わせて旧約聖書を象徴しています。そして、二人が主イエスと共に現れたということは、聖書の言葉から、聖書の言葉によって培われる内なる視点から、主イエスを見よ、その本性を見よ、救いを見よ、真理の道を見よ、と私たちに語りかけているのです。
 聖書によって培われる信仰の視点から主イエスを見る時、苦しみと十字架の死の道にこそ、私たちの罪を背負い、罪を償い、私たちを赦(ゆる)して悔い改めへと導く“神の救い”が見えてきます。どんな時も、どんな現実においても、私たちを愛する“神の愛”が、私たちのことも「これはわたしの愛する子」と語りかけてくださる“神の愛”が見えてきます。自分の立ち位置を、目に見える現実ではなく、神の愛に置き換えると、神の愛という視点で、“愛”というメガネを通して自分の人生が見えるようになってきます。すると、心に安心と喜び、感謝が生まれます。それを“救い”と呼ぶのです。神さまに愛されていると信じる信仰は、“感謝の視点”を私たちの内側に培うのです。
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 幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せなのです。韓国の南ソウル教会の協力牧師であるジョン・クゥアン牧師は、その著書『一生感謝』で、こう語っています。この本の中に〈二つの村の話〉という章があります。一つは「感謝村」、もう一つは「不平村」です。不平村の人たちは、一年中、不平ばかりを言っていました。春は黄砂でほこりが多いと不平を言い、夏は暑くて蚊が多いと文句を言い、秋には木の葉がたくさん落ちると不平を言い、冬には雪がたくさん降って寒いと不満を、言いました。一方、感謝村の人たちは、どんなことにでも感謝しました。苦労も感謝、試練も感謝、春には花の香りを感謝し、夏には涼しい木陰を感謝し、秋には食べごろに熟れた実を感謝し、冬には木の枝に白く積もる雪の花を感謝、しました。クゥアン牧師は言います。
 (不平を言う人は)不平の目を持っているので、見るものすべてが不平の条件として見え、口を開けば不平がこぼれ出る。‥‥‥しかし反対に、感謝する習慣を持って生きると、感謝が人格そのものになり、だんだんと感謝の目を持つことができるようになる。そうなると、見るものすべてが感謝の条件になり、口を開けば、泉が湧き出るように感謝があふれてくる。‥‥寝ても覚めても、立つにも座るにも感謝があるのみだ。
(『一生感謝』小牧者出版、85~86頁)
 私たちは、幸せだから感謝する、感謝できる、と考えがちです。だから、幸せと思える現実を求めます。ペトロたちのように、光輝く幸せな現実がずっと続くようにと願い、「仮小屋」(5節)を建てて、幸せな現実を変わらぬものにしようとあがきます。けれども、世界の人々の幸福度調査では、経済、文化、教育等に恵まれている国々の方が幸福度が低く、逆に、そのような面が貧しい国の方が幸福度が高い。人々が、小さなことに感謝し、満足し、人との親密なつながりに幸せを見いだしていることを、クァアン牧師は本の中で書いています。目に見えるものが豊かなら幸せだとは限らないのです。
 幸せだから感謝するのではない。感謝するから幸せなのです、との言葉は、私たちの人生の真理、救いの大切な視点ではないでしょうか。
 神さまはどんな時も、私たち一人ひとりを愛してくださっていることを、主イエスを通して、聖書を通して示してくださいます。神の愛を信じる信仰によって、どんなことにも感謝する幸せの視点、救いの視点を、自分の内側に培っていきましょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会