坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

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2022年3月20日 受難節第3主日礼拝説教

       「誤解していませんか?」 
聖 書 マルコによる福音書8章27~33節
説教者 山岡 創牧師
27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒(いまし)められた。
31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥(はいせき)されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 

「誤解していませんか?」
 「あなたは、メシアです」(29節)。ペトロは答えました。フィリポ・カイサリア地方の村々で神の救いを宣べ伝える旅の途中で、主イエスが弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節)と問われたからです。
 当時のユダヤ人は、救い主を待ち望んでいました。ユダヤ人の言葉であるヘブライ語で、救い主のことをメシアと呼びます。そして、メシアを新約聖書の原語であるギリシア語で言うと、キリストになります。
 「人々は、わたしのことを何と言っているか」(27節)ではなく、「あなた(がた)はわたしを何者だと言うのか」が大事です。自分にとってイエスとは?主体的な信仰の答え(告白)が求められています。自分が救いを真剣に求めてこそ、出る答えです。
 「あなたはメシアです」。ペトロは、はっきりと答えました。けれどもペトロは、メシアを、キリストを誤解していました。言い換えれば、神の救いを誤解していたのです。
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 メシア、救い主。神によって油 を注がれ、選ばれた救世主。当時のユダヤ人は、このメシアを待ち望んでいました。そして、彼らが期待するメシアとは、ユダヤ人の王国であるイスラエルを復興する英雄でした。当時、ユダヤ人はローマ帝国に支配され、苦しめられていました。だから、彼らはユダヤ民族の独立、王国の復活を望んでいたのです。彼らが待ち望むメシアは、千年前に王国を強大にしたダビデ王のような英雄でした。そして、ペトロをはじめとする弟子たちも、そのような英雄像を期待していたのです。
 けれども、主イエスが考えているメシアは、ユダヤ人が理解し、弟子たちが期待しているイメージとはかけ離れていました。主イエスは弟子たちに教えました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(31節)。
イスラエル王国を復興するような軍事的なリーダーシップを取れば、多くの人々は喜ぶだろう。けれども、自分はそのようなことをするために来たのではない。ユダヤ教の律法によって縛(しば)られ、苦しめられている人々に、神の愛を届け、その魂を解放し、喜びと感謝と愛で満たすために来たのだ。けれども、愛の道を貫けば、現行の律法理解と信仰のあり方を正しいと思い込んでいる人々からは、苦しめられ、排斥され、殺されることになるだろう。だが、その死の先には復活の勝利がある。最後には必ず“愛”が勝つのだ。神の愛こそが平和と自由を造り出すのだ。
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 そんなバカな!?ペトロはそう思ったのでしょう。彼は、主イエスのこの教えを受け入れることができませんでした。「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(32節)といいます。イエス様、ユダヤの民衆があなたに期待しているのです。もちろん、私たちも期待しています。その期待を裏切るようなことを言わないでください。人々があなたについて来なくなります!支持しなくなります!それでいいのですか!?
 ところが、主イエスはペトロを叱りました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(33節)。「弟子たちを見ながら」(33節)と言うのですから、ペトロだけではなく、他の弟子たちにも聞かせる言葉だったでしょう。
 王国復興を理想に、ここまで着いて来た。それが、今更そうではないというのでは納得がいかない。俺たちの志はどうなるんだ!‥‥‥その志の裏には、メシアである主イエスに従って行けば、王国復活の暁には、自分も英雄として称賛され、高い地位が約束される‥‥そんな欲望と打算もあったことでしょう。その欲望と打算、そして熱い志さえも、神のことを思わぬ「人間のこと」、人間の思い、都合、計画だったのです。
 主イエス「神のこと」を思っていました。神の御心(みこころ)は何か?神さまのご計画は何か?そのことを考え、汲み取りながら、行動しておられました。主イエスは(旧約)聖書を通して、特にイザヤ書52章の終りから53章で預言されている〈主の僕の苦難と死〉から、神さまが求められるメシアの道、メシアの役割を汲み取っておられたのでしょう。それは、人々の病を、痛みを、罪を負い、苦しみ、その「償いの献げ物」として最後にご自分の命をささげるメシアでした。それは、ご自分の人生、ご自分の命によって、神の愛を届けるメシアでした。人を愛し、人の心を神の愛で満たし、その魂を解放し、自由と喜び、感謝と平和をもたらす救い主でした。
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 私たちも、ペトロのように、弟子たちのように、主イエスを誤解している、救いを誤解していることがあるのではないでしょうか。それは、「神のことを思わず、人間のことを思っている」からです。私たちは、自分の願望や都合、自分の正義や計算で、“神さまとはこういう方だ、救いとはこういうものだ”と考え、イメージしていることがあります。もちろん、自分が思っているように救ってほしいと願う苦しみや悲しみの気持が分からないわけではありません。けれども、そのような人間の思いは、救いを、自分に都合の良い、目に見える結果として期待します。願いが叶う。病気が治る。問題が解決する‥‥というように。そうなると、救いの本当の恵み、本当の力が見えなくなります。
 神のことを思わず、人間のことを思う心の動き、それを主イエス「サタン」と呼びました。サタンは私たちの信仰に隙があると、すぐに付け入ろうとします。神の愛から私たちを引き離そうとし、“神なんて、いない!”とあきらめさせ、積み上げて来た愛と信頼の関係をぶち壊そうとします。特にサタンは“良いもの”に偽装したりもするから気づきにくい。悪いものや間違ったことに化けてくるなら、まだ分かりやすいのですが、そればかりではないのです。ペトロだって、自分が主イエスに良い助言をしていると思ったでしょう。自分が“良いこと”だ、信仰的だと思っているものにさえ、サタンは偽装しているかも知れないのです。気づくには、真摯にイエスと向き合うことです。
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 救いとは、自分の願い、「人間のこと」がそのまま叶(かな)うことではありません。「神のこと」が私たちの人生に成就(じょうじゅ)すること、私たちに最善を計らってくださる神さまの御心が私たちの人生に実現することです。
「人間のこと」が叶い、実現するように、私たちは考え、努力します。成功すること、解決することもあります。けれども、そうとばかりは限りません。私たちは自分の人生が自分の期待どおりにうまく行かないことを経験します。失敗し、挫折します。自分の知恵や力ではどうにもならない不条理な苦しみや悲しみを味わいます。願っても、祈っても、どうにもならない。だとすれば、救いはないのでしょうか?それでも救いがあるのなら、救いとは何でしょうか?
それは、目に見える現実ではなく、目に見えない大切なものを信じること。どんな時も、結果によらず自分は神に愛され、神の愛が自分の心を満たしていることを信じること。そして、愛のレンズを通して自分の内側から、外の世界の現実を、出来事を、物事を捉(とら)え直して見ることです。受け入れたくないこと、目を背けたくなることもあるかも知れない。すぐには捉え直せないかも知れない。それでも、この世界に、そして自分に、神の愛が注がれていることを信じて見直そうとする。愛によってしか見ることのできない意味が、恵みが、目的があります。それを見つけ、勇気と愛をもって生きていく。それを“救い”と呼ぶのではないでしょうか。
そのように信じて生きていく時、私たちの人生は内側から変わり始めるのです。幸せに向かって好転し始めるのです。人生が復活するのです。人生好転、人生復活、それが「神のこと」、私たちに対する神さまの愛のご計画なのです。