坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年4月10日 受難節第6主日礼拝説教

       「わたしの願い、神の御心」

聖 書 マルコによる福音書14章32~42節

説教者 山岡 創牧師
ゲッセマネで祈る
32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。33そして、ペトロ、ヤコブヨハネを伴(ともな)われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、34彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」35少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心(みこころ)に適うことが行われますように。」37それから、戻って御覧(ごらん)になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。38誘惑に陥(おちい)らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」39更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。40再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。41イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。42立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
「わたしの願い、神の御心」
 主イエスの祈りを黙想しながら思います。私は今、どんな祈りをしているのだろう?。そして、どんな祈りをしてきたのだろう?‥‥私は両親が牧師で、生まれた時から教会で育ちました。いつから祈るようになったのか、気づいた時には当たり前に祈っていたと思います。自分の祈りで記憶があるのは、小学生の頃にしていたお祈りです。それは寝る前の祈りで、“神さま、お化けや妖怪(ようかい)や化け猫が来ませんように”と祈っていました。そして、枕の周りにぬいぐるみを10匹ぐらい置いて、万が一お化けが出たら、ぬいぐるみたちが戦って僕を守ってくれる、と信じて眠りについていたことを覚えています。いわゆる“お願い”の祈りでした。その時以来50年、私の祈りは変わっただろうか?、進化しただろうか?、やっぱり願いが多いのではないか?。そんなことを思い巡らします。
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 もし私たちが、今の自分の祈りを録音して、どんなお祈りをしているか、その内容を分類してみたら、8割以上はお願いかも知れません。そして、神さまへの感謝や人のために祈る執り成しは、ほんの少ししかしていないことに気付かされるかも知れません。
 2018年に鈴木崇巨(たかひろ)牧師をお招きして、〈祈り〉をテーマに研修しました。その時、鈴木先生は、“祈りはまず、賛美が基本だ”とお話され、ハレルヤと神さまをあがめ、賛美する祈りを教えてくださいました。その時以来、私たちの教会では“ハレルヤ”と祈る人が増えました。私も、まずハレルヤと賛美し、感謝をささげ、人のために執り成しの祈りをすることを心がけています。それが習慣化してきています。
 でも、そのような祈りを“しなければならない”、そうでなければお祈り失格だ、なんてことはありません。お願いだって、神さまに求めれば、立派な祈りです。いや、お願いの祈りは、ある意味で賛美や感謝以上に、最も真剣で、熱心な祈りになり得ると思うのです。それは、私たちの心の奥底から自然に湧き上がる祈りだからです。私たちは “お願いです。神さま!”と叫び求めたいのです。
 主イエスも、エルサレムの郊外にあるゲッセマネの園と呼ばれる場所で、父なる神さまに願いを祈られました。「この杯をわたしから取りのけてください」(36節)
「この杯」とは、主イエスが十字架に架けられて殺される宿命のことです。父なる神の御心は“愛”にあると信じて、表面的には律法に逆らうようなことをしてでも人を愛して来た主イエスです。しかし、その道と使命には、ユダヤの指導者たちや宗教家たちの反感を買い、非難され、排斥(はいせき)されて殺される宿命が待ち受けていたのです。主イエスはそれをひどく恐れました。怖い。そうならないようにしてください。心の底から湧き上がる、自然な願いです。主イエスだって、このように祈られました。だから、願うこと自体がいけないわけでは、もちろんありません。
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 けれども、お願いの祈りをする時に、外してはならない大切な基本姿勢があります。それは、「あなたは何でもおできになります」(36節)と、神の全能を信じる信頼と、「御心に適(かな)うことが行われますように」(36節)と、神さまが私たちの願いを聞きつつも、ご自分のお考えによって最善を行うことを信じることです。この信仰、信頼のない願いは、自分本位な、一方的な祈りとなり、多くの場合、不平不満を呼び起こす素になります。そのような祈りは、願ったことに対する解決や成功を、納得のできる答えを求めます。そして、願ったとおりにならないと、“本当は神様なんていないんだ!”“神も仏もあるものか!”と、神さまの全能も、愛も否定する不信仰に陥(おちい)ってしまいます。
 けれども、果たしてそうでしょうか? 親は、愛する我が子の願いを何でも叶(かな)えるわけではありません。スーパーで“買って、買って!”と泣きわめく小さな子どもを見たことがあるでしょうか?でも、親は必ずしもその願いに応えて買い与えはしません。それは、我が子のためを考えて、例えば何でも買い与えていたら、この子が我がままな性格になってしまうと考えて、どんなに願っても、叶えないことがあるのです。
 まして、全知全能と愛の神さまはそうではないでしょうか?私たちを愛して、私たちの最善を考えて、願いどおりに応えてくださることもあれば、叶えずに、別の答えをくださることもあるのです。でも、それは“愛”なのです。愛だと信じることです。
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 だから、大切なことは、神さまの愛を、最善を信じることです。信じるために、神さまの御心は何かを尋(たず)ね求め、その声を聴こうとすることです。
 ヘンリー・ナーウェンという、オランダのカトリックの司祭は、私たちにこのように語りかけています。
 最終的には、あなたの心に聴きなさい。イエスがあなたに一番親しく話しかけられるのは、心の中なのです。祈りとは、何よりもまず真っ先に、心の最も深いところにおられるイエスに耳を傾けることです。イエスは叫んだりしません。あなたに押しつけるようなこともしません。声は控え目で、ほとんどささやきのようです。それは、穏やかな愛の声です。あなたがどんな生き方をしようとも、あなたの心の中のイエスの声に耳を傾け続けなさい。積極的に、注意深く耳を傾けなければなりません。というのは、落ち着きのない騒(さわ)がしいこの世では、神の愛に満ちた声は、すぐにかき消されてしまうからです。神に、自分から耳を傾ける時間を、毎日、たとえ10分でも取っておきなさい。毎日10分だけでも主イエスと向き合えば、あなたの生活は根本から変えられます。
                    (『イエスの示す道』聖公会出版、27頁)
 ナーウェン自身、神の愛の声に耳を傾け、イェール大学、ハーバード大学の地位を捨て、昇進の階段を降りて、ラルシュ共同体というグループ・ホームで、知的ハンディを持つ人々と共に生きることを選んだ人です。いや、神さまから選ばれたのでしょう。
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 主イエスもまた、神の御心に、神の愛の声に、祈りの中で耳を傾けた方でした。そして、ご自分が十字架にお架かりになることが、父なる神さまの御心だと悟(さと)られた。父なる神さまが私たち人間を、この上なく愛し、罪を赦し、認めてくださることを、命懸けで示すことが神の御心だと信じて、その道を最後まで歩き抜かれた。言わば、主イエスは、神さまの御心に目覚めたお方でした。神の愛と一致したお方でした。
 その主イエスが何度も、3人の弟子に「目を覚ましていなさい」(34節他)と言われました。目を覚ますとは、神さまの愛の声に耳を傾け、愛の御心を受け止めている、ということでしょう。私たちも、一方的な願いから、一歩ずつ、目を覚まして祈れる人に変えられていきたい。神の愛を信じるところにこそ、感謝がまれ、幸せが生まれます。

 

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