坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年4月17日 復活祭イースター主日礼拝説教

       「振り向くと見えるもの」

聖 書 ヨハネによる福音書20章11~18節

説教者 山岡 創牧師
◆イエスマグダラのマリアに現れる
11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜(さが)しているのか。」マリアは、園丁(えんてい)だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上(のぼ)っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告(つ)げ、また、主から言われたことを伝えた。
「振り向くと見えるもの」
 “背中に目が付いているみたいだ”。この言葉、サッカー選手に対する最高のほめ言葉です。背中に目が付いている。つまり、本来自分の背後は見えないのに、まるで見えているかのようにプレーする選手のことを言います。どうしてそういうプレーができるのかと言えば、振り向いて後ろにだれがいるかを前もって確認しているからです。だから、自分にパスが来た次の瞬間に、すぐに後ろの味方にパスができたり、後ろから迫って来る敵の選手をスルリッとかわすことができたりするわけです。現役時代、そういう選手に憧(あこが)れました。そして、自分がボールを持っていない時に、周(まわ)りや後ろを事前に見る訓練をしました。お陰で、今も車を運転している時に、必要以上に周りを確認する癖(くせ)がついていて、かえって危ないぞ!なんてこともあります。
 マリアは、「後ろを振り向くと」(14節)、そこに復活した主イエスが立っておられるのが見えました。マリアには何が見えたのでしょう?何に気づいたのでしょう?そして、もし私たちが信仰を持って後ろを振り向いたなら、そこには何が見えるのでしょうか?
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 どうしたの?何かあったの?よかったら話してみて‥‥‥私たちは、親しくしている人、心を許している人からそんなふうに言われると、思わず、がんばって平静を保ってきた心が緩み、泣いてしまうことがあると思います。傷つき、悲しんでいる心は、優しい言葉、優しい心に触れると弱いです。そして、だれにも言えなかった悩みや悲しみを、心を開いて話し始められることがあるかも知れません。
 「婦人よ、なぜ泣いているのか」(13節)。主イエスのお墓にいた天使がマリアにかけた言葉は、実はそういう優しさにあふれていたのではないかな、と思います。だからマリアは、慕い続けて来た主イエスを失った深い悲しみを語り始めたのでしょう。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」(13節)。主イエスは、ユダヤ人の宗教指導者たちから憎まれ、排斥され、十字架に架(か)けられて殺されました。そして、遺体はアリマタヤのヨセフやニコデモという“隠れた弟子”によって墓に埋葬されました。ところが、三日目にマリアが香料を塗るために墓に来てみると、そこに主イエスの体がなかったのです。
 マリアは途方に暮れました。そして、天使の語りかけに自分の悲しみを話し始めながら、ふと後ろを振り向くと、「イエスの立っておられるのが見え」(14節)ました。でも、マリアは最初、それが「イエスだとは分からなかった」(14節)といいます。主イエスが見たこともない別人のような姿で立っていたのでしょうか。いえ、このシーンはそういう意味で描かれているのではないと私は思うのです。
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 後を振り向く。この言葉を、私たちの人生というものと関連付けて考えてみると、それは、自分の歩んで来た過去を振り返る、ということになるでしょう。つい最近の出来事や人間関係かも知れませんし、何十年も前の経験かも知れません。私たちは人生を振り返ることがあるのです。
 けれども、その時、私たちの心から湧(わ)き上がってくる気持は、愚痴や不平かも知れません。だれかに対する恨(うら)みや憎しみだったり、周りの環境や社会に対する呪(のろ)いかも知れません。主イエスがそこに立っておられるのに、それが分からないというのは、そういうことではないでしょうか。自分の人生に“良いもの”があるのに、それに気づかず、悪いもの、マイナスのものばかりが見えてしまうのです。
 でも、だれかの優しさに触れ、自分の苦しみ悲しみを語り、聞いてもらうことができたら、私たちの心は開き始め、少し違う方向に向かい始めることがあります。
 マリアは、自分の悲しみを語り始めました。その時、「マリア」と呼びかけられて、振り向くと、そこに立っているのが主イエスだと気づきました。最初に振り向いた時と同じ人が、同じ姿で立っていたと思うのです。どうして主イエスだと分かったのでしょう。
 その違いは、主イエスに呼びかけられたということです。自分で振り向いた最初とは違い、主イエスに語りかけられて後ろを振り向いたということです。つまり、主イエスの言葉を意識し、御言葉(みことば)の視点から、後ろを見た、ということだと言ってよいでしょう。
 私たちも、聖書の御言葉によって心の内に培(つちか)われる視点から、自分の歩んで来た人生を振り返る時、愚痴や不平、恨みや非難しか感じなかった人生に、全く違うものが見えてくることがあります。神は愛である。その愛の神さまが私たち一人ひとりを愛しておられる。私を大切に思い、最善に計(はか)らい、導き支えてくださる。この恵みを信じる時、自分の人生に、神さまが与えてくださっている良いものを探し当てようと意識するようになる。そして、良いものに気づき、探し当てた時、不平は感謝に、悲しみは喜びに変えられるのです。そのように、神さまを信じて人生を振り返り、感謝できるからこそ、これから先の人生も、神さまにゆだねて歩んで行こう、きっとだいじょうぶだ、と思えるようになるのです。
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 先週、一人の教会員の方を訪問し、分かち合い、祈りを共にする機会を与えられました。その方は、子どもの頃から大病を患(わずら)って来ました。そのために数十年来、不自由な生活を強(し)いられてきました。けれども、ご自分の人生を振り返って、恵みだった、感謝だったと証(あか)しされました。大病によってお転婆(てんば)な自分が、思い上がらないようにと教えられた、体のハンディを補(おぎな)うために、一生懸命に考え、工夫し、努力することができた。自分の力が及ばないからこそ、自分を支えてくださる“神”と出会うことができた。本当に感謝な人生でした、と笑顔でお話してくださいました。
 その証しを伺って、私は、後ろを振り向いた時に、復活した主イエスが見える、というのは、こういうことではないだろうかと感じました。そして、信仰によって培われる視点によって、不平が感謝に、悲しみが喜びに変わることこそが、私たち自身の“復活”、人生復活ではないだろうか。そう思ったのです。
 3月の礼拝説教でお話しました。幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せなのです(『一生感謝』ジョン・クゥアン著)。心の視点、意識の変化です。そして、神の愛を信じ、感謝する時、私たちの人生は死から命へと復活するのです。

 

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