坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年5月8日 主日礼拝説教  

    「キリストの命をいただく」                                  
聖 書 マルコによる福音書14章22~26節
説教者 山岡 創牧師


22一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」 23また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 24そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 25はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 26一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。


「キリストの命をいただく」
「取りなさい。これはわたしの体である」(22節)。「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」(24節)。主イエスは12人の弟子たちと、過越(すぎこし)の祭の食事を共にし、パンとぶどう酒を分ち与える際、このように言われました。主イエスが十字架に架けられる前夜の出来事で、最後の晩餐とも呼ばれています。そしてこの食事が、現代の教会にも受け継がれている聖餐式(せいさんしき)の起源となりました。
 コロナ禍が始まって2年余り、今日は2020年3月1日以来、主の聖餐を共にいただきます。もちろん、感染のリスクが全くなくなったわけではありません。ただ、昨年のクリスマスから先日のイースターの間に、2017年以来の新たな受洗者が4名与えられ、この4名と共に聖餐を受けたいと願うようになりました。そして、そのことを役員会でも協議し、今回の運びとなりました。約2年振りに皆で共に、新たな受洗者と共に、聖餐を受けることのできる喜びを、ひしひしと感じています。
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 聖餐って何だろう?高校1年生、16歳のイースターに洗礼を受けて、それ以来40年、聖餐を受け続けている私の心の内にある“問い”です。牧師になって、聖餐式を司(つかさど)る立場になってから、この問いはさらに強くなったように思います。聖餐って何だろう?どうして聖餐を受けるのだろう?‥‥‥もちろん、頭では分かっているのです。聖餐のパンと杯は、十字架に架けられ、復活した主イエスの命と血を象徴するものだ、と。主イエスが犠牲となり、流した血の償(つぐな)いによって私たちの罪が赦(ゆる)される、と。主イエスが分け与えてくださった命によって、私たちにも新たな命が与えられる、復活の命、天の御国(みくに)での永遠の命が与えられる、と。そして、これが教会の伝統なのだ、と。
 でも、それって、言葉でその意味を伝えれば済むんじゃない?聖書を通して伝えられたい意味を信じればいいんじゃない?どうしてこういう形にして行う必要があるのだろう?そのように考えているもう一人の“自分”が、自分の中の片隅にいるのです。
 どうして聖餐という形にするのでしょう?‥‥それは弟子たちが鈍いからだと思います。そして自分に置き換えて言えば、“私”が鈍いから、ということです。そこまでしてくださる神の痛みに、キリストの恵みに、私たちが鈍いから、頭で理解するだけでは私たちが感じないからではないかと思うのです。
 私たちの体は、食べ物を食べ、栄養をいただくことで保たれ、生きています。そして、それは自分以外の命をいただいて生きている、ということです。肉も野菜も、あらゆる食べ物の元は命です。でも、ともすれば私たちは、自分が他のものの命をいただき、その命によって生かされているという恵みを意識していないかも知れません。その命が私を生かすために犠牲になっているとは考えたことがないかも知れません。
 栃木県の那須に、アジア学院という、キリスト教信仰を建学の土台とした学校があります。主に、アジアやアフリカからの留学生に、有機農業の技術を教え、農村のリーダーとなる教育を行う学校です。この学校では、学生以外にも農業体験をしたいという人を受け入れています。その体験コースの中に、鶏を肉にする体験があります。首を絞め、首を切り、血を抜き、羽をむしり、切り分けて肉にする。それを体験した人の中には、しばらく鶏肉を食べられなくなる人が出るようです。そんな現実を体験し、目の当たりにしたら、思い出すと食べられなくなるのは無理もありません。でも、それは命をいただくための痛みを感じている、ということです。命をいただくことの恵みを感じることができる、ということです。
 聖餐式とは何でしょうか?それは、鶏を肉にするかのように、主イエス・キリストの命を切り分け、その血を杯に注ぎ分けて、私たちがいただくという出来事が起こっている、ということです。角度を変えて言えば、主イエスが私たちの罪を負って十字架に架けられ、私たちの命を新しく生かしてくださるために処刑される、痛みと恵みの出来事が、この聖餐式において再現されているのです。この礼拝堂、この場は、2千年前のゴルゴタの丘です。この聖餐台は十字架です。その十字架の上で、主がその命を分け与えてくださる。私たちは、その現場に、信仰によって立ち合っている。信仰の想像力によって臨んでいるのです。
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 そして、主イエス・キリストの命によって、血によって、私(たち)の罪が赦され、悔い改めに導かれ、新たな命に生かされる。聖餐は、この恵みを確認する時です。
私は最近、1万タラントンの借金を王様から帳消しにされた家来のたとえ(マタイ18章)が胸に強く響くことがありました。1万タラントン、現代の日本円に換算すると約6千億円の借金です。期日が来ても返せず(返せるはずがない!)、それでも「どうか待ってください。きっと全部お返しします」(マタイ18章26節)と懇願する家来を見て、憐れに思った王様は、何と!1万タラントンの借金を帳消しにしてやったのです。
 この家来は“私”だと思いました。と言うのは、最近私は、人を愛するということの難しさを、とても感じています。相手との信頼関係という名の“預金口座”に、相手を愛することで一つ一つコツコツと信頼残高を積み立てていく。ところが、相手を傷つける1回の出来事で、積み立てた愛と信頼の残高は一気に吹き飛び、逆に2倍も3倍もの借金、マイナスになる。それを取り返そうとして、またコツコツと積み立てる。でも、1度の失敗でまた、積立は吹き飛び、借金が4倍、5倍と増えていく。人を愛することにおいて、借金しか増やすことのできない“自分”がいるのです。愛に破産しているのです。本来なら相手との愛と信頼関係の口座は破産する以外にない。
 けれども、その関係が破産せずに、破綻(はたん)せずにいられるとしたら、それはどうしてなのか?‥‥神さまに1万タラントンの借金を赦されているからです。赦されていると信じるからです。相手と一緒に信じるからです。たとえ愛することに破産しても、それを赦して、自分と、自分たちと共にいてくださる神の愛を信じるから、相手と共に生きていくことができるのです。私たちが互いに愛し合う人間関係の土台は、自分の愛ではなく、神の愛です。1万タラントンの借金さえも、ご自分の命によって帳消しにしてくださるキリストの愛です。ご自分を裏切るイスカリオテのユダにさえ、パンと杯を与えるキリストの愛です。鈍い私は、その痛みと恵みを強く感じる機会を与えられました。
そして、この痛みと恵みに気づかせるために聖餐式はあるのだと思います。そして、罪を赦され、愛の負債を帳消しにされた者として、1万タラントの借金は返せなくとも、100デナリオン(マタイ18章28節、1万タラントンの60万分の1)分の愛を、相手に注ぐことができれば、と願います。一人ひとり、信仰の歩みは違いますが、その中で、このキリストの痛みと恵みに気づくことのできる日が来ますように。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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