坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「赦す理由」

2024年1月14日 主日礼拝説教                
聖 書 マタイによる福音書6章9~13節
説教者 山岡 創牧師

9だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が崇(あが)められますように。
10御国(みくに)が来ますように。
御心(みこころ)が行われますように、
天におけるように地の上にも。
11わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。
12わたしたちの負(お)い目を赦(ゆる)してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
13わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、
悪い者から救ってください。』
「赦す理由」
 「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(12節)。改めてこの御言葉(みことば)を黙想しながら、私は「負い目」というのは好い言葉だな、と思いました。と言うのは、“罪”という言葉よりも身近で、分かりやすいからです。
 私たちは、〈主の祈り〉において、“わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるし下さい”と祈ります。聖書の中で最も理解しづらい言葉の一つは、この“罪”という言葉でしょう。本来、法律にまつわる言葉ですから、犯罪とか、もしくはそれに近い悪行をイメージします。そう考えると、はて、私は神さまに対し、人に対してどんな罪を犯したのだろうか?と思い当たらず、ポカンとしてしまうかも知れません。つまり、罪の実感というものが自分の中にないことがあります。
 けれども、「負い目」と言うと、実生活での、具体的なイメージが湧(わ)いてきます。例えば、だれかにお金を借りているかも知れません。仕事や生活の上でだれかにとても助けてもらっているかも知れません。何か大きなミスをして、それをだれかにカバーしてもらったことがあるかも知れません。暴言、暴力、浮気、虐待、セクハラ、モラハラなど相手を不快な気持にさせたことがあるかも知れません。つまり、負い目とは相手に頭が上がらないということです。別の言い方をすれば、“借り”があるということです。
 私たち日本人には、借りを作らないようにしようとする考え方があります。もし何か贈り物をいただいたら、同程度のものをお返しする。何かをしてもらったら、それに見合う埋め合わせをする。それはもちろん、考えとして悪いわけではありませんが、ともすれば潤(うるお)いのない、感謝や優しい気持のない人間関係に陥(おちい)りかねないと思います。
 聖書は、お返しのできない、埋め合わせのできないものがあると言います。借りておくしかないものがあると言います。それは人間関係において最も重要なもの、すなわち“愛”です。ローマの信徒への手紙13章8節に次のような御言葉があります。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」。愛のほかは借りがあってはならない。それは裏返せば、愛については借りを作らざるを得ないということです。愛とは返せないもの、埋め合わせのできないもの、バランスの取れないものです。ギブ・アンド・テイクではないのです。貸した方は見返りを求めず、借りた方は感謝し、恐縮し、謙虚な気持でいただく。それが互いに愛し合う関係です。その意味で、“愛”には借りがあっていい。愛には「負い目」があっていいのです。ただし、その関係性に込められた、自分に注がれた“愛”を見失わないこと、忘れないことです。
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 愛を忘れた男がいました。王様の家来です。「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18章22節)と言って、主イエスは〈仲間を赦さない家来〉のたとえを語り始めます。マタイによる福音書18章にあるたとえ話です。王様が家来(けらい)たちに貸した金の決済を始めました。すると、1万タラントンの借金をしている家来が連れて来られました。これって実はものすごい金額です。1タラントンが約20年分の給与と言われていますから、1万タラントは20万年分の給与ということになります。仮に1年間の給与を500万円とすれば、1兆円という計算になります。いったいこの家来はどうしてそれほどの借金をしたのか想像ができません。けれども、この借金を、人間の神さまに対する“愛の負い目”だと考えれば、つまり裏返すと、それは神の愛そのものだと考えれば、計算も、想像もできないほどの莫大なものが神の愛であり、それほどの愛を私たちは神さまからいただいているということになります。
 家来は、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と哀願しました。王様は哀れに思って、返済するまで待つどころか、何と!借金を帳消しにします。神さまからいただいた“愛の借り”は返せないのです。神さまは返すことなど求めていない。借金帳消し、返済不要の御心を、主イエスの十字架によって示されたのです。
 大事なことは、信仰によって神さまの愛を受け止めたなら、感謝し、恐縮し、優しい気持で生きることです。英語で“借りがある”という言葉をoweと言いますが、それはネガティブに「負い目」というニュアンスだけではなく、“恩恵を受けている”とも訳せる言葉です。借りとは、裏返せば恩恵です、恵みです。返せないのであれば、その愛の恩恵を見失わないこと、忘れないこと、感謝して生きるのです。
 ところが、家来はモノの見事に、すっぱりと忘れます。赦されて街に出た家来は、自分が100デナリオン貸していた仲間に出会います。家来は哀願する仲間を赦さず、牢屋に入れます。100デナリオンは決して少ない額ではありません。4カ月分ぐらいの給与額に当たります。赦せない気持も分かるし、この処置、法的にも不当ではありません。
けれども、この家来の行為に納得がいかないのは、彼が1万タラントンという、100デナリオンの6千万倍という借金を王様から帳消しにされているからです。仲間を憐れむ優しさのかけらもないからです。彼は自分が既に帳消しにしていただいたことを忘れています。と言うよりは、返すことのできない“愛の借り”「負い目」というものが全く分かっていなかったのでしょう。
 私たちが、自分に負い目のある人を赦すということは、自分が神さまに対して負っている負い目を、神さまに赦してもらうための“条件”ではありません。私たちの態度に関わらず、たとえ話の中の王様のように、神さまは本来、私たちの負い目を赦してくださるのです。その意味では赦しは無条件であり、私たちは人を赦す必要はありません。
 では、なぜ人の負い目を赦すことが求められるのか?隣人に対する“愛の貸し”を、見返りを求めずに負うことが求められるのでしょう?それは、自分に注がれている無条件の神の愛を、私たちが少しでも感じるためです。莫大な愛の負い目を神さまに負っていただいていることに恐縮し、感謝し、優しい気持になるためです。信仰生活を始めて最初のうちは、神さまの愛は目に見えず、私たちには分かりにくいものです。そのような私たちが、目の前にいる人の負い目を赦し、愛の貸しを負っていくことによって、神さまの愛をほんの少しでも想像できるようになっていくのです。人を赦す、相手の負い目を赦すとは、相手のためではありません。自分のためです。自分の信仰が養われ、深められ、人として成長するための機会なのです。
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 負い目を赦すとは、見返りを求めない愛を注ぐということです。そうするのは、私たち自身が神さまから、見返りを求めない、無条件の、莫大な愛を注がれているからです。 “自分”は何者か?‥‥神の莫大な愛を注(そそ)がれた、愛に満たされた存在である。そのように信じることがクリスチャンのアイデンティティーです。だからこそ、愛する道を生きる。赦しの道を進む。赦せないこともある。怒りと憎しみに支配されることもある。自分の「負い目」に愕然(がくぜん)とすることもある。それでも思い直してこの道を進むのです。主の祈りを祈る時、この愛を思い起こしてほしいのです。

 

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