坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「必要な糧、パンと御言葉」

2024年1月7日 礼拝説教                       
聖 書 マタイによる福音書6章9~13節
説教者 山岡 創牧師

9だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が崇(あが)められますように。
10御国(みくに)が来ますように。
御心(みこころ)が行われますように、
天におけるように地の上にも。
11わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。
12わたしたちの負い目を赦(ゆる)してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
13わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、
悪い者から救ってください。』
「必要な糧、パンと御言葉」
 “寒くても暖房も使えません。お腹も空いています”。皆さんの中にも、Youtubeでこのような言葉を聞いたことのある人がおられるのではないでしょうか?母子家庭、3人暮らしの中学3年生が、自分の家庭と生活の苦しさを訴える言葉が流れてきます。
 ‥生活はとても苦しく、食べ物がほとんどない日もよくあります。3人はいつもお腹を空かせています。そして冬の季節は、寒さが3人をさらに苦しめます。電気代やガス代が高いから、暖房はほとんど使いません。お湯も使わないので、お皿を洗う水がとても冷たいです。受験勉強をしていても、空腹に加えて寒さで手がかじかんで、思うように進みません。受験日が近づいているのに集中できず、不安でいっぱいです。‥‥こんな日が、明日も明後日も続きます。冬がとても長いです。(一部略)
 これは、〈ひとり親家庭に食品の贈り物を〉と呼びかけるNPO法人グッドネバーズ・ジャパンの広告動画です。1日33円の支援がひとり親家庭4世帯分の食品になるということです。余談ですが、グッドネバーズという英語は“善い隣人”という意味です。これは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人(りんじん)になったと思うか」(ルカ10章36節)と主イエスが律法(りっぽう)の専門家に問われた〈善いサマリア人〉のたとえを連想させます。もしかしたら法人の中心にこの話を知るクリスチャンがおられるのかも知れません。
 話を元に戻しますが、この広告動画からも分かるように、先進国と言われる現代の日本にも、毎日の食事を、「必要な糧(かて)」(11節)を得られない人たちが少なからずいるということです。その意味で、私たち自身はそのように困窮(こんきゅう)してはいないかも知れませんが、しかし、いつ自分がそうなるかも分かりませんし、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(11節)という祈りは、決して私たちには無縁な祈りではないのではないでしょうか。
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 主イエスの時代のユダヤ庶民(しょみん)の生活は決して豊かではありませんでした。「必要な糧」に困窮している人々がかなりいたのではないかと考えられます。ローマ帝国に支配され、税金を搾(しんぼり)り取られていましたし、駐屯(ちゅうとん)するローマ軍の兵士が一般人を脅(おど)して、その家から食べ物を持って行ってしまうというようなことも少なからずあったに違いありません。
 そのような現実の中で、民衆が主イエスのことを救世主メシアと信じて期待したものは、ローマ帝国の支配からの解放ということ以上に、まず、必要な今日の糧が与えられるということだったかも知れません。
 他の福音書(ふくいんしょ)もそうですが、マタイによる福音書にも14章と15章に〈五千人に食べ物を与える〉〈四千人に食べ物を与える〉という同じような奇跡物語が続けて出てきます。主イエスがわずかなパンと魚でそれだけの人々を満腹させたという内容です。私は、この話、一つでいいじゃない。なんでほぼ同じ話を二つ載(の)せる必要があるのだろう?と今日まで思っていました。でも今回、黙想していてハッとしました。敢えて二つの話を載せるのは、それだけガリラヤの民衆が「必要な糧」に飢えていたということなのだと。だから、一度満腹させてもらった民衆がもう一度、「必要な糧」を求めて主イエスのもとに集まって来たのでしょう。「必要な糧」は“今日”を生きるためにどうしても“必要な”命の支えであり、1個のパンは民衆にとって切実な問題だったのです。
 主イエスも、ご自分がそのような生活をして来られた人間として、人々の気持はよくよくご存じだったでしょう。だから、決してきれい事は言わない。人々の願いに、その通りに応えてみせたのです。一度ならず二度までも。そしてストレートに、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りなさいと教えておられるのです。
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 けれども、私たち人間の内には、問題をたやすく解決してくれるのが、願いを直接かなえてくれるのが神さまだと信じる間違った信仰があります。それを“ご利益信仰”と言います。「必要な糧」、パンの問題もそうです。主イエスはそれをよく知っています。
 切実な願いは時として、身勝手で安易な信仰に変わることがある。それを象徴(しょうちょう)しているのが、主イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けた際に、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4章3節)と言われた言葉です。事はそんな安易な問題ではありません。だから、主イエスはこうお答えになりました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4章4節)と。
 人はパンがなければ生きられない。けれども、パンだけがあっても“生きている”とは言えない。人は霊肉共に健(すこ)やかでこそ神の御心(みこころ)に適う。だから、主イエスは“体”のことだけではなく“魂”への配慮も大切にしておられるのです。
 私たちの魂、もう少し身近な言い方をすれば、神さまと向き合っている私たちの心は、ともすれば神さまを見失い、自己本位な思いに陥(おちい)ります。先ほどもお話しした神さまへの身勝手で安易な期待もその一つでしょう。自分の物差しで神の愛を測って恵みや感謝を見失うことがあります。人を決め付けたり、分け隔(へだ)てすることもあります。自分が絶対に正しいと主張して譲らないこともあります。弱い自分を認められず、虚勢(きょせい)を張ることもあります。自分のミスを認めず、人に責任転嫁(てんか)することもあります。自分が神さまから与えられているものを、すべて“自分のもの”と勘違いして分かち合わず、独り占めしようと強欲(ごうよく)になることもあります。そういった私たちの心のゆがみにハッと気づかせて、神さまの御心に適う方向に導いてくれるのものが、神の言葉です。その導きによって私たちは、人としての王道、本道を進むのです。
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 新年が始まり、喜びも束の間、夕方、日本にまたも激震が走りました。震度7を超える地震が能登半島を襲い、昨日までの確認で死亡した人は126名、行方不明の人210名、今もがれきの下に埋まっている人もいます。数えきれない人が被災し、家族を失い、家を失い、寒空の下に難儀しています。状況は刻々と変化します。その日その日にジャスト・タイミングで必要な物があります。たくさんの人が「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と言葉にはならない“心の祈り”を、“心の叫び”を唱えているに違いありません。
 阪神淡路大震災を思い起しました。あの時、現地で学んだことは、だれが自分の隣人なのか?と隣人を選ぶことではなく、主イエスが望まれたように、自分が相手に必要な隣人になるということでした。善いサマリア人は、急ぐ仕事の途中、大嫌いなユダヤ人を、穢(けがれ)れを厭(いと)わずに助けました。善い隣人とは、愛する相手を、その時を、そして自分の都合を選ばないのです。グッドネバーズの連想からそのことを思い出しました。
 私たちは被災した人たちの“隣人”になることができます。大きなことはできないかも知れません。でも、何かができます・祈ることができます。献げることができます。現地に赴(おもむ)くこともできるかも知れません。自分自身の「必要な糧」を願うと共に、他者の「必要の糧」を思い、分かち合うこと。それはきっと「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りの表面であり、裏面なのだと私は思います。

 

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