坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「悪と戦いながら」

2024年1月28日 主日礼拝説教(わたしたちを誘惑から) 
聖 書 マタイによる福音書6章9~13節
説教者 山岡 創牧師

 9だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が崇(あが)められますように。
10御国(みくに)が来ますように。
御心(みこころ)が行われますように、
天におけるように地の上にも。
11わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。
12わたしたちの負い目を赦(ゆる)してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
13わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、
悪い者から救ってください。』 
「悪と戦いながら」
 主イエスが弟子たちに教えられた〈主の祈り〉。今日は、この祈りの最後、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(13節)について考えてみましょう。
 〈主の祈り〉は、この聖書箇所、もしくはルカによる福音書11章2~4節を基にして、中世の教会においてラテン語で定められました。それを訳すので翻訳によって微妙に違いが出ます。讃美歌21・93—5を見ると、誘惑(試み)に遭わせず、陥(おちい)らせず、という訳と、誘惑から導き出して、というように大きく二つに訳が分かれます。
ちなみに、前者と後者ではその前提が大きく違います。遭わせず、陥らせず、という祈りは、人生を誘惑に遭わずに、誘惑なしで過ごしたい、という意味に取れます。けれども、導き出して、という言葉は、人生は誘惑に遭う、陥るということが前提になっています。そして、その誘惑の中から導き出し、引き戻してください、という祈りです。
私は、導き出して、と祈る方が、私たちの人生の現実に即した祈りではないかと思います。と言うのは、誘惑のない、試練のない人生はない、と思うからです。そして、主イエスもまた弟子たちに向かって、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22章31~32節)と語りかけておられます。サタンの誘惑に遭う弟子たちを、私たちを、主イエスが祈りをもって救い出してくださるのです。
       *
 サタンの誘惑と言うと、私は聖書に書かれている二つの物語を思い起こします。その一つは、旧約聖書・創世記3章にあるエデンの園での出来事です。アダムとエヴァエデンの園で暮らしていましたが、園にいた蛇がエヴァを誘惑します。蛇はエヴァを巧(たく)みに誘導尋問し、神が禁じた木の実を食べても決して死なない、神のように善悪を知る者になれる、とエヴァをそそのかしました。そのためにエヴァは木の実を食べ、アダムにも渡して、彼も食べます。ところが、神のようになれるどころか、自分たちが裸であることを知る結果になります。見られてはまずい。隠さなければならないものが少なからずある。そのことに気づいた二人は、自分たちのしたことを隠蔽(いんぺい)します。そして、隠蔽できず、神さまに見つかると、今度は自己正当化と責任転嫁を始めます。神さまにすべてをゆだねて信頼し、ごめんなさいと謝罪し、悔い改める信仰を失ってしまったのです。
 もう一つの物語は、主イエスが荒れ野で悪魔に誘惑されるシーンです。マタイによる福音書4章にあります。悪魔は主イエスの承認欲求を煽(あお)り、聖書の言葉まで持ち出して誘惑しようとします。そして、最後には、この世の頂点に君臨できると、主イエスの支配欲、所有欲に直接働きかけるのです。しかし、主イエスはそのいずれの誘惑にも、聖書の言葉によって戦い、これを退けます。けれども、これで完結したのではありません。悪魔は機会をうかがい、主イエスが十字架へと至る過程において再び現れるのです。
 エデンの園での蛇と人とのやり取り、また荒れ野での悪魔と主イエスとのやり取り、私はこれらを単なる神話的な物語ではなく、私たちの心の中のシーンだと考えています。私たちは人生において、何らかの出来事とか人間関係、思想や価値観、成功と失敗などを通して、神を否定し、神から離れ、自己本位な考えや欲望、つまらない意地やプライドに従って生きようとすることがあります。「誘惑」とは、神さまから引き離そうとする働きかけです。自分の心の中にある悪の思いが自分自身に働きかけるのです。私たちの心の中には善と悪が住んでいます。その善と悪のせめぎ合いによって、私たちは自己中心に、自分を正当化し、欲望を押し通そうとする時もあれば、自分を抑えて、だれかの幸せのために努めることもあります。自分をネガティブに捉え、否定し、絶望することもあれば、ポジティブに考えて、自分を受け入れ、人生の意味と目的を見つけることもあります。私たちの中には、善と悪があって、せめぎ合い、葛藤(かっとう)しながら生きています。
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 ところで、私は今、アンパンマンの作者である、やなせたかしさんが著した『ボクと、正義と、アンパンマン』(PHP)という本を少しずつ読んでいます。それを読みながら、ハッとして気づかされたことがありました。それは、アンパンマン・ワールドにおけるバイキンマンの存在、アンパンマンバイキンマンの関係性についてです。ご存じかと思いますが、バイキンマンは自分の身勝手から、仲良くしているみんなの邪魔をしたり、食べ物を奪ったりします。そこに、“やめるんだ、バイキンマン!”とアンパンマンが登場し、“出たな、このお邪魔虫!”とバイキンマンがののしって戦いになるのですが、最後はアンパンチで退治され、“バイ、バイキーン”と空のかなたに飛ばされます。けれども、バイキンマンは殺されて、存在を抹殺(まっさつ)されるわけではありません。次の時も、その次の時も出てきてはアンパンマンと戦い、また空のかなたに飛ばされます。
 そのようなアンパンマン・ワールドについて、やなせたかしさんはこう書いています。
 (アンパンマンが)戦う相手はバイキンマン。バイキンは食品の敵です。しかし実はパンを作るのもイースト菌なんです。戦いながらアンパンマンバイキンマンは共存しています。ボクらの心には善と悪があります。善と悪は戦いながら共存しています。
(前掲書88ページ)
 善と悪は戦いながら共存している。私はその言葉にとても教えられました。聖書の世界、聖書の物語にも善と悪が存在しています。神が造られた世界に、なぜ悪が存在するのか?と聖書は問わない。それは自明の前提です。悪もまた神さまの手の内にある。悪が全くなくなるのは、世界の終末、新しい神の国が実現する時です。その時まで、この世界には、いや私たちの心の中には善と悪が存在しているのです。私の心の中で戦うのです。神さまに従う私の善が勝って、悪が追いだされることもあります。でも、私たちの中から悪の思いが完全になくなることはありません。どうやら神さまは、私たちの内に善と悪を存在させ、そういう私たちを丸ごと包み、受け入れてくださっているようです。大切なことは、自分の内から悪を完全に払拭することではありません。そうしたいのはやまやまですが、それができないのが私たちの現実です。大事なことは悪と戦うこと、言い換えれば、善と悪の間で葛藤し、悪を悔い改めること。善を、神さまの御心(みこころ)を求めること。それが、「悪い者から救ってください」という主の祈りの肝(きも)だと思うのです。
 バイキンマンって、素直(すなお)じゃないんです。一緒に食べさせて、とは言えない。独り占めしようとする。でも、それは自分の姿だなぁ、と思うのです。素直に言えない。素直に認められない。だから、自分を正当化しようとする。変なプライドから本心ではないことを言ったり、態度を取って、相手を自分の望む方向に誘導しようとする。私の中のバイキンマンがそうさせます。素直に生きることは、私にとって、悪と戦い、悔い改めて善を求める祈りです。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。善と悪が共存する自分を否定するのではなく受け入れて、しかしながら主イエスの導きを祈り、悪と戦い、善を求めながら生きていきたいと思います。

 

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