坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「あなたの富のあるところに」

2024年2月4日 主日礼拝説教 
聖 書 マタイによる福音書6章19~24節
説教者 山岡 創牧師

◆天に富を積みなさい
19「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。20富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。21あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
◆体のともし火は目
22「体のともし火は目である。目が澄(す)んでいれば、あなたの全身が明るいが、23濁(にご)っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
◆神と富
24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
「あなたの富のあるところに」
 2024年1月から新NISA(ニーサ)制度が始まりました。これは2014年に立ち上げられた旧NISA制度が新しいルールに改められたものです。今、皆さんも新NISA制度の案内や解説をYoutube動画で見たり、銀行や郵便局に行った時にポスター等で目にするのではないでしょうか?。
NISAって、何?と興味を持った人もおられると思いますが、これは投資のための非課税口座、非課税制度のことです。例えば、株式会社の株を一般の口座から購入すると、株価が上がって利益が出た時に、その利益の20%を税金として国に納(おさ)めることになります。ところが、NISA口座で購入すれば、利益が出ても非課税なので100%、自分の収益になります。その点は今までの旧NISAも新NISAも変わりません。
 では、何が変わったのかと言えば、非課税の期間が5年とか20年だったのが、新NISAでは無期限になったということです。買った株は長く持っているほど福利の効果で利益が大きくなるので、無期限になったということは、長く保有すればそれだけ利益を上げられるようになったということになります。
 実は私、何がきっかけだったか、たぶんYoutubeの動画だったかと思いますが、それまでは投資なんて、自分には縁がないと思って全く興味を持っていなかったのですが、人生、安全な範囲で投資を経験してみるのも経験ではないかと思い、2年ぐらい前から、けっこう勉強しました。こんなことを言うと、山岡牧師、“地上の富”に心を奪われているんじゃないの?と思われた方がいらっしゃるかも知れません。いや、私自身、今日の御言葉を黙想しながら、ボクは地上の富を愛して、これを積もうとしているのではないか、とか、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(24節)と書いてあるけれど、果たして投資を始めたら、富に仕えて神さまに仕えないことになりはしないか、などと考えさせられました。
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 「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(21節)。そのとおりだと思います。「富」というのは、単にお金や財産のことだけではありません。自分にとって大切な、価値ある“宝”のことです。自分の宝だと思うものに、私たちは心を向け、愛を傾け、時間や労力をささげて大切にします。
 問題は“何”を自分の宝とするか?です。自分が持っている価値観と、そこから来るモノを“見る目”によって宝は変わります。だから、その見る目が「澄んでいれば」(22節)、つまり健全な価値観から見ていれば、人生は明るいのです。けれども、「濁っていれば」(23節)、すなわち間違った、道を外れた価値観から見ていると、本当の宝でないものを富だと勘違(かんちが)いして、その結果、人生は暗いものになってしまいます。
 主イエスは、「あなたがたは地上に富を積んではならない」(19節)「富は天に積みなさい」(20節)と言われました。地上の富とは、お金や財産だけでなく、地位や名誉、優秀な学歴や職歴、事業の成功もそうでしょうし、敢(あ)えて言えば、健康や家族、友情などもそうかも知れません。自分の命でさえも地上の富になり得るかも知れません。そういったもの自体が悪いというのではないと思います。ただ、そういったものを第一とし、優先し、こだわり、依存し、しがみついていたら、それなしでは生きられない、それを失ったら暗い人生になるのではないでしょうか。別の言い方をすれば、天国には持って行けないものを頼るべき富としてしまって、その富から自立して生きていない、生きられないということでしょう。
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 聖書の中に、まさにこのことを言い表している話があります。ルカ福音書12章にある、主イエスがなさった〈愚(おろ)かな金持ち〉のたとえです。ある金持ちの畑が豊作でした。彼は穀物を蓄える倉を広げて、すべて貯蔵します。そして、これで自分の人生は安泰(あんたい)だ、さあ、食って飲んで楽しもう!とほくそ笑みます。ところがその夜、神さまが金持ちに語りかけます。「今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(12章20節)。そして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(21節)とたとえ話は結ばれます。天に持って行けないモノを取り除いて“裸”になった時に、自分を支えないものは頼りにはならないのです。
 もう一つ思い浮かぶ話があります。同じくルカ19章にある〈徴税人ザアカイ〉の話です。ザアカイは徴税人の頭で、金持ちでした。彼は背が低いと馬鹿にされ、徴税人であるために貪欲で、汚れた人間と、みんなから軽蔑(けいべつ)されていました。そんなザアカイが、たまたまエリコの町を通りかかった主イエスに興味を持って、一目見ようといちじく桑の木の上に登ります。主イエスはザアカイを見上げて、「急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(19章5節)と声をかけます。主イエスを家に迎えたザアカイは、自分の財産の半分を貧しい人に施(ほどこ)し、だまし取っていたら4倍にして返す、と宣言するのです。財産は彼にとって富だったはずです。頼るべき宝であり、こだわりだったはずです。なのに、それを手放したのです。それは「富」を見る目が変わったからです。主イエスの愛に無上の喜びを感じ、神の愛にゆだねる価値観を手に入れたからです。ザアカイは、富に仕える者から神に仕える者へと変えられたのです。
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 何を「富」として生きるか?それは神の救い、神の愛だと主イエスは教えます。愛に感謝して、自分もその感謝を隣人に還元して生きよ、と教えます。その愛と信仰こそ私たちクリスチャンにとって、真の「富」なのではないでしょうか。
 “人生でいちばん大切なものは何ですか?”そのように問われたカトリックの司祭、井上洋治さんはこう答えました。
 私たちは、健康にしろ財産にしろ友情にしろ家庭にしろ、たくさんそういう大切なも のを持って、またそういった大切なものにささえられて生きているわけですけれども、いざそういうものを失ってしまったときに、価値ある大切なものを失って色あせてしまったときに、その色あせ挫折(ざせつ)してしまった自分を受け入れることができる心というもの、それが考えてみれば人生で一番大切なものではないかと思ったのです。(『人はなぜ生きるか』9頁)
 頼りにしてきた地上の富を失った自分を受け入れることは簡単ではありません。こんなはずじゃない、という思いがあります。苦悩と葛藤(かっとう)があります。時間がかかります。そんな私たちに、主イエスは、そこから「急いで降りてきなさい」(5節)と、急いで私のもとに来なさい、と語りかけてくださる。その声を聴(き)いて、自分は神さまに愛されていると信じ、自分を受け入れ、地上の富から自立して生きることができたなら、そのような生き方を目指して生きるなら、その信仰こそ、私たちの宝です。

 

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