坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「信仰 ~ 思い煩わず、ゆだねる」

2024年2月11日 主日礼拝説教 
聖 書 マタイによる福音書6章25~34節
説教者 山岡 創牧師

◆思い悩むな
25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26空の鳥をよく見なさい。種も蒔(ま)かず、刈(か)り入れもせず、倉に納(おさ)めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養(やしな)ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡(つむ)ぎもしない。29しかし、言っておく。栄華(えいが)を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装(よそお)ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。31だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。33何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
「信仰 ~ 思い煩(わずら)わず、ゆだねる」
 老後2,000万円問題。皆さんもお聞きになったことがあることと思います。老後の30年間で約2,000万円が不足する。2019年に金融庁の報告書でそのような発表がなされ、その後、それが大きな話題になり、社会に波紋呼びました。それを聞いて不安を感じられた方もおられるのではないでしょうか。
 けれども、老後2,000万円という計算(試算)には当然のことながらモデルがあり、①夫65歳以上、妻60歳以上の無職の夫婦であること、②夫婦共に30年間、健康に生活している場合、③毎月約55,000円が赤字なる、というモデルでの計算です。
 年金額やそれ以外の収入、生活のスタイル、入院や施設入居の有無、また寿命年齢によってこの計算は変わります。平均的な年金収入だけで不足額は480万円という試算もありますし、慎(つつ)ましく生活すれば不足しないケースだって考えられます。とは言え、私たちはある年齢に達すると多かれ少なかれ、経済だけでなく、健康や生活という面でも老後のことが心配になり、全く思い悩まない人はいないのではないでしょうか。
 若い人たちは、まだそんなこと考えたことがない、という人も多いでしょう。けれども、例(たと)えば年金問題で言えば、年金額は段々と少なくなっています。年金を受け取る人が多くなっているのに対して、掛け金を払い、高齢者を支える年齢層の人が少なくなっているからです。掛け金以上に年金を受け取れるのは、現在の50歳ぐらいまで、それより若い人たちは受け取れる額の方が少なくなり、20代、30代の人たちが65歳以上になる頃には、掛け金にかかわらず年金額は平均化し、低いレベルで一定額になると言われています。若者にとっても決して無関係な事柄ではありません。
「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)。主イエスが「思い悩むな」と語りかけられた衣食住の悩みは、現代日本人である私たちにとっては、このような暮らしの問題、経済の問題だと言ってよいでしょう。
 それでも、こういった問題でどうしようかと考えられるのなら良い方かも知れません。今の日本は“1億総中流”と言われた時代から経済格差が広がり、貧困の問題が影を落としています。その日の暮らし、その日の食べ物にも困窮(こんきゅう)している家庭が少なからずあることを私たちは知っています。主イエスが生きて語られた時代のユダヤの人々も同じように、暮らしに、食べ物に困窮していた人々だったと思われます。思い悩まずにはおられないような人々に、主イエスはなぜ「思い悩むな」と語りかけるのでしょうか。
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 衣食住のことで思い悩むな。と言うのは、天の父である神が、空の鳥のように、野の花のように、あなたがたのことを養い、装ってくださるからだ、と主イエスは語りかけます。だから、衣食住のことは神さまにゆだねて、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(33節)と主イエスは教えられました。
 けれども、それは衣食住のことは考えず、神さまに“丸投げ”して何もしないで良いという意味ではありません。空の鳥も、種を蒔いたり、刈り入れたりはしませんが、エサを探し、毛づくろいをし、巣を整(ととの)えたりします。野の花も、一見何もしていないように見えますが、地中から養分や水分を吸い上げ、光合成をして必要なデンプンやぶどう糖を作り出しています。つまり、空の鳥も野の花も生き物として生きようとしています。生きようとして具体的に活動しています。生きようとする意志を捨て、生きようとする活動を投げて、“生ける屍(しかばね)”のように何もせず、ただ神さまに自分の命を丸投げしているとしたら、それは主イエスが教えた、思い悩まずにゆだねることとは全く違います。
 自分に与えられた命を生きようとする。具体的に考え、決断し、行動する。その結果がほとんど自分の努力と直結していることもあれば、フィフティー・フィフティーのような場合もあります。自分の決断や努力とは全く無関係な、私たちの手の及ばない結果や出来事だってあります。自分にできることをして、結果は神さまにおゆだねする。望(のぞ)んだとおりになったなら神さまに感謝する。望んだとおりにいかなくても、その結果を受け止める。そして神さまに感謝する。それが、思い悩まずにゆだねる、という信仰であり、生き方ではないでしょうか。
 それは言い換えれば、自分の命、自分の人生は、自分の手の中にはないということを知るということです。私たちは潜在的に、自分の力で努力すれば報われる、良いことをすれば良い報いがあり、悪いことをすれば悪いことがあるという因果応報(いんがおうほう)的な考え方で生きているところがあります。けれども、命は自分の手の中にはなく、自分で「寿命をわずかでも延ばすこと」(27節)などできないのです。大切な財産も暮らしも、地位も名誉も、成功と成果も、健康も、友情や家庭も、自分の意に反して失われることがあるのです。つまり、実はそういったものは当然ではなく、“恵みの賜物(たまもの)”であり、私たちは“生かされて”生きているということでしょう。そして私たちは、命が生かされてあることを信じ、与えられるものを自分にとって「良い物」(ルカ11章13節)と信じて生きようとする。神の国と神の義」とは、そのように神の愛と、その愛によって生かされて生きる世界(人生)のことだと私は思います。
 だから、R.H.ニーバーという牧師は、こう言いました。
 主よ、お与えください。
 変えられるものを変える勇気を  変えられないものを受け入れる落ち着きを
 そして、その両者を見分ける知恵を
 この知恵は、自分の人生への深い洞察(どうさつ)であり、神を信じる信仰にほかなりません。
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 「野の花がどのように育つのか、注意してみなさい」(28節)。野の花を見て、生かされてある命の恵みに気づいた人がいます。体育の授業で首の骨を骨折し、首から下の体が麻痺して動けなくなってしまった星野 富弘(ほしの とみひろ)さんです。人生を呪い、絶望していた星野さんでしたが、聖書を通して神さまと出会い、花を描くことによって、生かされてある命の恵みに気づかれたのです。その代表的な詩がこれです。
  何のために生きているのだろう 何を喜びとしたら良いのだろう
  これからどうなるのだろう
  その時 私の横に あなたが一枝の花を置いてくれた
  力を抜いて 重みのままに咲いている 美しい花だった(『鈴の鳴る道』より)
 「明日」(34節)のことを思い悩まず、神さまに生かされてある人生を信じ、ゆだね、すべてのことを受け入れて生きる。もちろん、簡単に得られる心境(しんきょう)ではありません。“これからどうなるのだろう”と将来を不安に感じるのは私たちの性(さが)です。そして苦しみや悲しみのトンネルを何度もくぐらされるでしょう。思い悩み、葛藤(かっとう)する時間が必要でしょう。けれども、思い悩みの人生の中で、聖書の御言葉(みことば)に耳を傾け、神の言葉を心に納めて歩み続けるなら、徐々(じょじょ)に、そしてきっと信仰の目が開けます。

 

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