坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「求めなさい」

2024年2月25日 受難節第2主日礼拝説教 
聖 書 マタイによる福音書7章7~12節
説教者 山岡 創牧師

◆求めなさい
7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探(さが)しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。8だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。9あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。10魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。11このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。12だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
「求めなさい」
 夢の話をします。我が家では、子どもがまだ小さかった頃(ころ)、クリスマスには、サンタクロースが子どもたちにプレゼントを届けてくれました。クリスマスの晩、寝ている間に、枕元にプレゼントと手紙が置かれていました。それは大抵(たいてい)、子どもが願ったとおりのプレゼントでした。
 あるクリスマス、子どもの一人が、ニンテンドーDSのゲームソフトを、とても欲しがっていました。〈動物の森〉というゲーム、当時、とても流行っていました。たぶんその子は熱心に求めたに違いありません。けれども、クリスマスの朝、届けられていたものは、日用品でした。きっとサンタさんはおもちゃ屋さんを何件も回ったのですが、どの店でも売り切れてしまっていてプレゼントすることができなかったのだと思うのです。
 その子が大きくなった時、その当時のことを振り返って、あの時はとても悲しかったと述懐(じゅっかい)したことがありました。確かにそうだったろうなぁ、と思います。でも、サンタさんも、〈動物の森〉はあげることができませんでしたが、その子のことを考えて、「良い物」(11節)を贈りたいと思ってプレゼントしたはずです。「パン」(9節)を欲しがる子どもに、たとえパンを与えることができなくても、決して「石」(9節)は与えない。「良い物」を子どもに与えたいと願って“何か”を贈る。それが、主イエスが言われる“親心”というものでしょう。
       *
 「求めなさい。そうすれば、与えられる」(7節)と主イエスは言われます。けれども、私たちは、神さまに求めているでしょうか?最初から、祈ってもどうせ無駄(むだ)だ、とあきらめてはいないでしょうか。あるいは反対に、神さまを信じて真剣に、熱心に祈り求めている。そのように祈り続けて、もし祈りが聞かれなかったらどのように思うでしょう?熱心であればあるほど、聞かれなかった時の落胆は大きいに違いありません。そして、落胆と絶望の淵(ふち)で、“あんなに一生懸命に祈ったのに、もう神も仏もあるものか!どうせ祈ったって無駄だ。願いは聞かれないんだ!”と腹を立て、祈ることをやめてしまうかもし知れない。ともすれば信仰を捨ててしまうかも知れません。
 それでは、祈り求めることは、やはり無駄なのでしょうか?確かに、祈っても聞かれないことが多々あります。叶(かな)うことよりも叶わないことの方が多いでしょう。けれども、一つ、心に留(とど)めていただきたいのは、祈りとは、私たちが自分の願いを神さまに聞き届けさせるための、都合の良い手段ではない、ということです。では、祈りとは何でしょうか?祈りは、神さまとの対話であり、また自分の願い求めを深く見直す機会なのです。
祈り続けても、その祈りが聞かれない時、二つの態度があります。一つは、まだその祈りが聞かれていないので、更に祈り続ける、という態度です。それでも、聞かれない時、もう一つの態度が生まれます。それは、自分の祈りは果たしてこれで良いのだろうか、という反省であり、自己吟味(じこぎんみ)です。自分の祈りは、自分の利己的な欲望かも知れず、あるいは自己中心で、自分の都合や願いを押し通そうとしているだけなのかも知れない。そのように自分を省みる時、そこから神が求める祈りとは何だろう?神の御心(みこころ)に適(かな)う祈りとはどんな祈りだろう?と、神さまの言葉を聞く姿勢へと導(みちび)かれます。それによって神さまとの対話が成り立ちます。そして、私たちは6章33節で学んだ「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」との御言葉(みことば)に行き当たるでしょう。“そうだ、神さまは私に必要なものを、祈る前からご存じなのだ。私が必要だと思うものと、神さまが私に必要だと思うものは違うかも知れない。けれども、神さまは私に必要なものを「良い物」として与えてくださるのだ”。
 あきらめずに祈り続けていると、私たちはそのように信じて受け取る“信仰”へと導かれ、深められていきます。その信仰こそ、求めれば必ず与えられる「良い物」です。だから、J・ロジャー・ルーシーという神父は、神さまに力を求めたのに弱さを与えられ、健康を求めたのに病弱を与えられ、富を求めたのに貧困を与えられ、成功を求めたのに失敗を与えられて、にもかかわらず、不信仰に陥(おちい)らず、それら与えられたものを通して人生のとても大切なものを学んだと言って、このように語っています。
 ‥‥求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
 神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。
(『愛することは許されること』、渡辺和子著、109頁)
 ここまでの心境にはなかなか行きません。けれども、自分の意に沿わない人生のプレゼントを1つでも、自分に必要なものとして、「良い物」として受け取ることができたら、人生は豊かになるでしょう。“ください、ください”と求める請求書の祈りではなく、“神さま、確かに受け取りました”と領収書の祈りを1度でもすることができたら、私たちの人生には感謝が生まれます。そこからきっと人生が変わり始めます。
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 「だから」と主イエスは言われます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(12節)。律法と預言者、つまり聖書のことを指しているのですが、思い当たる話があります。律法の専門家が主イエスに、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と問いかけました。それに答えて主イエスは、心を尽くして神を愛することと、隣人を自分のように愛することだ、と言われました。そして、「律法全体と預言者は、この二つの掟(おきて)に基づいている」(マタイ22章40節)と断言されたのです。律法と預言者というつながりで言えば、人にしてもらいたいことを人にすることが、神を愛し、隣人を愛することになります。
 ふと思いました。神さまは何をしてもらいたいのだろう?私たちが善い行いをすることだろうか?、違います。たくさん献金することだろうか?、違います。奉仕を色々と担うことだろうか?、違います。私はこんなふうに想像しました。神さまは、疑わずに言葉を聞いてもらいたい。愛を信じて受け止めてもらいたい。信頼してゆだねてもらいたい。これらのことは、言い換えれば、人生において与えられるものは、必要な「良い物」だと私たちが信じて、神さまを信頼し、祈りと感謝と愛をもって生きていくこと、そうしてもらいたいと神さまは私たちに求めておられるのではないでしょうか。
 そして、私たちもまた、否定せずに黙って自分の話を聞いてもらいたい、愛を信じてもらいたい、信頼して任(まか)せてもらいたい、と願って、求めて生きていると思うのです。その求めに応えて、神さまは私たちの言葉(祈り)を聞いてくれます。愛を信じてくれます。信頼して人生を任せてくれます。だからこそ、私たちも、私たちに注がれた神さまの愛を、人にもそのようにして生きていきたいと思うのです。そこにはきっと豊かな祝福があります。

 

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