坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「狭い門から入りなさい」

2024年3月3日 受難節第3主日礼拝説教            
聖 書 マタイによる福音書7章13~20節
説教者 山岡 創牧師

13「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 14しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
15「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲(どんよく)な狼である。 16あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨(いばら)からぶどうが、あざみからいちじくが採(と)れるだろうか。 17すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 18良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 19良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 20このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」


       「狭い門から入りなさい」
 中学3年生、高校3年生は、いわゆる受験シーズンを迎えています。多くの学生が必死に最後のがんばりに努めているところでしょう。特に、定員に対して受験者数が多く、倍率の高い学校は“狭き門”と呼ばれます。その学校に入学することが難しいからです。この言葉は、今日読みました聖書箇所の13節の言葉に由来します。「狭い門」(13節)、本来は信仰と救いに関わる言葉で、神の救いに至る難しさを表しています。

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 「狭い門から入りなさい」(13節)。皆さんは、神の救いに至ることを難しいと感じたことがあるでしょうか?先日、教会で分かち合いをしていて、教会というところは初めての人にとって入りづらい、という話になりました。一言で言えば“教会の敷居は高い”ということです。皆さんの中にも、初めて教会の玄関を開ける時、どうしようかととても躊躇(ちゅうちょ)した経験をお持ちの方がおられるのではないでしょうか。どうして入りづらいと感じるのか?理由の一つとして、教会というところは、品行方正で、清く、正しく、立派な人が行く場所だと思われているからです。そのようなイメージを持たれているために、自分のような人間は、とても教会には入れないと思う人が少なからずいるようです。
 本来、教会とは決してそのような場所ではないはずです。主イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである」(マタイ9章13節)と言われ、当時のユダヤ人社会において、品行方正な、立派な信者と見なされていた律法学者やファリサイ派の人々ではなく、罪人と見なされ、蔑(さぐす)まれていた人々のもとに行って、神の救いを語り、食事を共にしました。ここに集まっている私たちだって、自分のことを品行方正な、立派な人間だとは思っていないでしょう。私たちは欠けのある弱い人間です。かたくなな人間です。そのような自分の現実に打ちひしがれて、けれども、そのような“罪人”である自分が神さまに招かれ、赦(ゆる)され、愛されていると信じているのです。信じて、喜んで教会に集まるのです。教会とは本来そういう集まりです。
 だから、せめて教会の外の看板やホームページに、教会は本来、そういう人の集まりです、と告知する必要がありますね、といった話になりました。それを読んだら、ちょっと安心して、教会の門をくぐる人が増えるかも知れません。私たちも、普段の生活の中で、自分のような普通の人間、欠けのある弱い人間が教会に行っているんですよ、と証(あか)しができたら、教会のイメージは変わっていくかも知れません。
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 「狭い門から入りなさい。‥‥命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(13、14節)。けれども、「狭い門」とは、教会が宗教団体であり、しかも品行方正で、立派な人の集まりだと思われていて、敷居が高い、入りづらいというだけの意味ではもちろんありません。問題は、教会に入った後の求道生活、また洗礼を受けてからの信仰生活そのものです。「狭い門」とは、信仰という生き方の問題、信仰という道そのものが狭く、キリストによる救いの意味がストンっと腑(ふ)に落ちるということが、なかなかに難しい、時間をかけて深まり、段階的に目が開かれていく、ということです。
 この場所に移転する前、高麗川(こまがわ)の土手際の小さな家で活動していた時に、一人の男性の求道者がおられました。その方と二人で、何度か信仰の話をしたことがありました。その人は“神さまにゆだねるということがどうしても分からない”と言っていました。神さまは直接、目に見える形で具体的に、私たちに働きかけてくださる存在ではありません。目には見えない存在を信頼して、お任せするという感覚が、どうしても腑に落ちなかったのでしょう。残念なことですが、その人はやがて教会から離れていきました。
 もちろん、私たちが何も考えず、行動もせずに、神さまに丸投げして、神さまが具体的に色々とやってくれるわけではありません。自分で考え、決めて、行動する。それ自体が神さまの導きであり、支えられているのだと信頼する。そして、その結果は良くても悪くても、必要なものとして神さまが備えてくださったのだと信頼する。それが“おゆだねする”ということでしょう。
 けれども、私たちにとっては、信仰生活も具体的である方が分かりやすいのです。だから、神さまの掟に添(そ)って、善い行いをすれば善い報いがある。反対に悪い行いをすれば、悪い報いがあり、神さまに罰される。そのように割り切って因果応報の救いを教えられた方が分かりやすいし、取りつきやすいのかも知れません。ともすれば、私たちは信仰と救いをそのように誤解することがあるのです。“行い”から入ろうとするのは広い門から入ることになり、「広々とした」、しかし「滅びに通じる」道を進んでしまうことになるのです。
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 直後の聖書箇所に、「偽預言者を警戒しなさい」(15節)とあります。神の言葉を預り、人に取り次ぐのが預言者ですが、預言者のフリをした“偽物”がいる、気をつけよ、と主イエスは注意しています。
 現代の預言者と言うべき教会の牧師が、間違った教えを語る「偽預言者だとしたら、それは残念なことですし、私もそうはならないようにしたいと願っています。また、皆さんも牧師の言葉を鵜吞(うの)みにするのではなく、福音(ふくいん)の真理なのか、それとも偽物なのか、まさにその言葉を「実」(16節)として「見分け」なければなりません。
 けれども、牧師の言葉か自分の理解かはともかく、私たちは聖書の言葉を間違って受け取っていたら、それは救いへと至らず、滅びに通じる広い道を進むことになってしまいます。その間違い、誤解こそ、警戒すべき「偽預言者だと考えることができます。
 聖書の言葉を自分に都合よく受け取ってしまうことに気を付けなければなりません。そして、もっとも大きな誤解は、神の救いを自分の“行い”によって得ることができると、律法学者のように、ファリサイ派のように考えてしまうことです。因果応報的なネガティブな人生の捉(とら)え方をし、行動主義の価値観で生きてしまうことです。
 主イエスは、道徳的な善い行いによって救われるとは語っていません。行いによらず、結果や成果によらず、見えるものによらず、人は生まれながらに極めて良いものとして命を与えられ、ありのままで神さまに認められ、赦され、愛されている存在なのだ、と語りかけてきます。そのように価値ある存在として私たち人と、互いに愛し合う交わりを持たれます。私たちにできること、それは主イエスの語りかけを信じることです。私は生まれながらに神さまに愛されている、何がなくとも、何ができなくても、価値ある存在なのだ、と信じることです。それが狭い道であり、狭い門なのです。
 大切なことは、信仰の道を焦らず、急がず、離れずに歩き続けることです。確かに、狭い道かも知れません。けれども、歩き続ければ必ず「狭い門」にたどり着きます。その門を開ければ、門の向こう側には、愛の世界が、救いの世界が広がっています。

 

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