坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「十字架につけろ!」

20243年3月17日 受難節第5主日礼拝説教             
聖 書 ヨハネによる福音書19章1~16節
説教者 山岡 創牧師

1そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭(むち)で打たせた。 2兵士たちは茨(いばら)「で冠(かんむり)を編んでイエスの頭に載(の)せ、紫の服をまとわせ、 3そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。 4ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」 5イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。 6祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」 7ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法(りっぽう)があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
8ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、 9再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。 10そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」 11イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 12そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
13ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。 14それは過越祭(すぎこしさい)の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、15彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。 16そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
こうして、彼らはイエスを引き取った

    「十字架につけろ!」
 2月14日に始まった受難節レントの歩みの中で、礼拝堂の十字架に茨の冠が掛けられています。受難節の期間だけ掛けるもので、これは、今日の聖書箇所にもあるように、ローマの兵士たちが「茨で(冠を)編んでイエスの頭に載せ」(2節)た冠を模して作ったものです。ローマ兵たちは、祭司長たちが主イエスのことを「王と自称」(12節)してローマ皇帝に背いたと総督(そうとく)ピラトに訴え出たことを聞いていたのでしょう。それで、王冠の代わりに茨の冠をかぶせ、高貴な身分の人が着る紫の服を着せて、ユダヤ人の王、万歳」(3節)とからかいながら、平手で打ったのです。彼らにしてみれば、主イエスを笑い者にする“遊び”です。
 茨の冠は、様々な人々に苦しめられる主イエスの苦しみ、痛みの象徴です。けれども、同時にそれは、様々な人々が見せる“人としての誤り”の象徴です。私たち人間の“罪”の象徴なのです。
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 ロシアのウクライナ侵攻が始まってから2年余りが過ぎました。依然として終りの見えない泥沼の戦いが続いていますが、ロシア内部にも、“自由ロシア軍団”を名乗るロシア人武装組織が出て来て、ロシア軍の拠点を攻撃しているといった報道もあります。
 ロシアの軍事侵攻が始まった時、ロシア軍の兵士たちは最初、軍事演習だと言われていたそうです。ところが、いざ演習が始まると、これは演習ではなく作戦だと言われ、訳のわからないまま彼らはウクライナの人々と戦わされました。疑問や戸惑いを隠せない兵士たちが大勢いたようです。それでも、軍の命令には逆らえない。疑問や戸惑いを持ちながら、しかし自分の意思は殺して、当初、多くのロシア兵が戦っていたことでしょう。もしかしたら、今もそうなのかも知れません。
 もしも主イエスが捕らえられて、総督官邸に連れて来られ、尋問(じんもん)されていなかったら、ローマ兵たちは、主イエスをからかい、殴ったでしょうか?一人ひとりが意思と責任を問われる状況だったとしたら、このように振る舞ったでしょうか?おそらく彼らはやらなかったに違いありません。
 国や社会、集団が持っている思想とその流れ、醸(かも)し出す空気などに取り込まれて、人は自分の意思を失うことがあります。自分の意思を主張して、流れや空気に抵抗するよりも、その中に混じってしまう方が周りとの摩擦がなく、楽だからです。そして、その中に混じっていれば、トップでもない限り、責任を問われることもありません。もちろん葛藤(かっとう)する人は少なくないでしょう。けれども、人は集団の中で、意思を失い、責任を放棄した“人形”のようになることがあります。神さまと向き合い、自分の意思と責任を持って応答する“人間”ではなく、意思と責任を捨てた人形のようになるのです。
 「殺せ。殺せ。十字架につけろ」(15節)。総督官邸にある「敷石」(13節)という裁判の場所で、ユダヤ人たち」(14節)は叫びました。これは元々、祭司長たちとその下役たちの意思でした(6節)。ところが、裁判の席では、ユダヤ人たちがピラトに向かって叫んでいます。他の福音書で同じシーンを描いている箇所では、祭司長や長老たちが、その場にいたユダヤ人たちを説得し、扇動したと記されています。扇動されたユダヤ人たちは「群衆」と呼ばれています。
 群集心理という言葉がありますが、人々は群衆心理に飲み込まれています。祭司長たちは、神殿を批判し、ユダヤ教を改革しようとする主イエスを煙たく思っていました。だから彼らは、主イエスのことを「神の子と自称」(7節)する違反者として、また「王と自称」するローマ帝国に対する反逆者として合法的に十字架刑に陥(おとしい)れようとしています。そして、ユダヤ人たちは扇動され、その空気に取り込まれ、煽(あお)られて、自分の意思と責任を放棄した“群衆”となって行動しています。
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 宮崎駿さんが作られたジブリ映画『千と千尋の神隠し』を思い起こしました。千尋という小学4年生の女の子が両親と一緒に異世界に迷い込みます。そこには八百万(やおろず)の神々をもてなす大浴場があります。豚にされてしまった両親のために、千尋は大浴場で懸命に働き、成長し、両親を救い出して元の世界に帰って行く。そんなストーリーです。
 この映画に“カオナシ”というキャラクターが登場します。全身が真っ黒で、顔は白く、能面のような、表情のない顔をしています。そして、しゃべることができません。“アー、アー”と言うだけで、言葉にならず、相手に汲(く)み取ってもらうしかない。
 そんなカオナシが大浴場に入り込み、手のひらから偽の金を出して、人々を引きつけます。そして、大浴場の人々を次々に飲み込むことで、その人の声と言葉を自分のものにし、膨(ふく)れ上がっていきます。遂には千尋のことも飲み込もうとしますが、千尋に拒(こば)まれ、苦が団子(にがだんご)を食べさせられて、飲み込んだ人を一人、二人と吐き出して元に戻ります。
 元に戻ったカオナシは、千尋の後についていきます。やがて魔法使いの老婆の家にたどり着き、カオナシはそこでやっと自分の意思と自分の居場所を探し当てるのです。
 カオナシとは何者でしょうか?色々な捉え方があるようですが、“顔が無い”という呼び名が象徴しているように、自分の意思がなく、それゆえに責任を持とうとしない人間を指しているのではないでしょうか。
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 群集には“顔”がありません。自分の意思がなく、責任を持とうとしません。そのような群衆の中で、私たちもともすれば意志と責任を持たない “現代のカオナシ”になってしまいます。自分が何を捜し求めているのかすら分からず、さ迷い歩き、欲望と損得計算に突き動かされる存在になります。
 “顔”とは言わば、アイデンティティーです。“私”を“私”足らしめている根本です。神を信じるクリスチャンにとって、そのアイデンティティーは神との関係にあります。神さまに造られ、命を育(はぐく)まれ、愛されている存在だということです。だからこそ、私たちを愛する神さまに、意思と責任を持って応答します。愛をもって応えます。神の意志を宿す主イエスについて行き、その言葉に耳を傾け、その行動に倣(なら)い、“主イエスならどうするか?”“何と言うか?”を考えながら生きるのです。
 この“顔”を失う時、信仰による意思と責任を捨てる時、クリスチャンである自分を隠そうとする時、私たちは“現代のカオナシ”になるのではないでしょうか。主イエスを“十字架につけろ”と叫ぶ群衆と同じになるのではないでしょうか。
私たちは弱い人間だと思います。だから、そのようになることがあります。他人任せで、責任転嫁し、保身に走ることがあります。そういう自分に気づいたら、神の愛を思い起こし、勇気を持って自分の“顔”を取り戻したい。悔い改めとはそのことです。

 

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