坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神と人、人と人を結ぶ十字架」

2024年3月24日 受難節第6主日礼拝説教            
聖 書 ヨハネによる福音書19章16後~27節
説教者 山岡 創牧師

こうして、彼らはイエスを引き取った。 17イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語ゴルゴタという所へ向かわれた。 18そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。 19ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエスユダヤ人の王」と書いてあった。 20イエス が十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語ラテン語ギリシア語で書かれていた。 21ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。 22しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
23兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。 24そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、
「彼らはわたしの服を分け合い、
わたしの衣服のことでくじを引いた」
という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。 25イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。 26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
「神と人、人と人を結ぶ十字架」
 1か月余り前になります。2月16日(金)、夜7時少し前、私はすぐそこの交差点で、自転車事故を起こしました。ヤオコーで買い物をして、こちらに帰る途中、3交代の信号の歩行者信号が青でした。“急げば渡れる!”。そう思ってスピードを上げました。そして、コースをやや左斜めに取ろうとした時、前から来る自動車のライトで目がくらみました。次の瞬間、左斜め前から自転車が来ていました。気づいた時は、お互いの自転車のかごの左側同士がぶつかっていました。お互いに倒れました。
 私は、自分のことよりも相手の方のケガの方が心配で、立ち上がって駆け寄りました。幸いにも、相手の方(少し年配の男性)はすぐに立ち上がり、屈伸(くっしん)もして歩けるようでした。後日、病院に行かれましたが、脛(すね)に軽い打撲で済んだようです。私は一安心して警察を呼び、事故の取り調べと証明をしてもらいました。すべての手続きが終わって、気づけば、私の左手のひらから相当な血が流れ落ちていました。妻に夜間診療に連れて行ってもらいましたが、小指の付け根を7針も縫(ぬ)いました。けがを縫うなんて、小学生の時以来、50年ぶりのことです。
 でも、大事故にならず、相手の方のケガも軽く、この程度で済んで本当に良かったです。自分のケガもほぼ治りました。私は、神さまから“焦らず、急がず、注意して生活しなさい”と警告されたような気がしています。
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 すぐそこの交差点ですが、数年前から3交代信号に変わりました。タテヨコ共に歩行者だけが渡るタイミングがあります。スクランブル交差点ではないのですが、多くの人が徒歩で、あるいは自転車で斜めに横断します。だから、人と人とが交差します。気をつけないと交差点の真ん中でぶつかって、事故になる危険があります。
 ふと思いました。私たちの人生も“交差点”のようなものではないかと。私たちの人生を、多くの人が縦、横、斜めに行き交っている。その中に自分もいます。それが言わば“人間関係”です。実際の交差点では、注意しないとぶつかってしまうように、人生という交差点、人間関係においても、気を配っていないと、相手と衝突し、対立し、けんか争いになることがあります。人生交差点にも交通整理が必要でしょう。
 そのように考えた時、私たちの人生交差点を指示する信号、渡るべき場所を示す横断歩道のようなものがあると思いました。交差点、上から見ると何かの形に似ています。英語ではCrossinngとも言います。そして、十字架はCrossと言います。そうです、私たちの人生交差点を整理し、安全に導いてくれるのは、主イエス・キリストの十字架ではないでしょうか。それによって示される神の愛ではないでしょうか。
 十字架には縦の柱と横の柱が組み合わされています。よく言われることは、縦の柱は神さまと私たち人間の関係を表し、横の柱は人と人との人間関係を表しているという話です。
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 3月10日の礼拝で、ヨハネ福音書18章1節以下をお話させていただきました。短く説教しているので、触れなかった御言葉(みことば)も少なくないのですが、その中の8節に「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」という主イエスの言葉があります。祭司長たちが送った下役たちやローマの兵士たちが、主イエスを捕らえにやって来た。主イエスは逃げずに、むしろ進み出て、お捜しのイエスとは「わたしである」と答えた後、先のように言った。どうしてそのような行動を取られたのでしょう?それは、ご自分が捕まることで、弟子たちの逮捕を免れさせるためです。ご自分に連座させられて、弟子たちも裁かれ、下手をすれば共に十字架で処刑されることを免れさせるためです。
 主イエスのこの言葉と行動が、十字架の縦の柱、すなわち神と弟子たち、いや私たち人間との関係を表しています。神さまは、ご自分がお造りになった私たち人間を愛しておられる。私たちを人生の滅びから免れさせるために、身代わりとなって命をおささげになる。私たちが人生を真っすぐに、神さまに向かって歩めるように、愛によって導かれる。それが、十字架の縦の柱に象徴される、神さまの愛による交通整理、人生交差点を迷わずに、ゆだねて、真っすぐに進むことができるようにするための交通整理です。
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 そして、もう一つ、横の柱の意味は、今日読んだ聖書箇所、25節以下の御言葉が示しています。主イエスが十字架に架けられているその下に、主イエスに救われ、従って共に歩んだ婦人たちが立っていました。見るに堪えない、むごい光景だったはずです。でも、婦人たちは自分たちを免れさせるために処刑されている主イエスの痛み、苦しみから目を背けてはならない、見届けようと決心したのでしょう。その中の一人に主イエスの母マリアがいました。自分のお腹を痛めた子です。どんなに辛かったでしょうか。
 その時、主イエスが母マリアに言われました。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(26節)。そして、一緒にいた「愛する弟子」(26節)には「見なさい。あなたの母です」(27節)と言われました。そう言われた弟子は、主イエスの意を汲(く)み取って、「イエスの母を自分の家に引き取った」(27節)といいます。
 弟子は、神が愛する弟子です。主イエスが愛する弟子です。ご自分の命を犠牲にして、滅びから免れさせたい、罪過ちから救いたいと、人生の事故、魂の事故から守ろうとしている弟子です。それは言い換えれば、神の愛、主イエスの愛の下に生きている、いや生かされている弟子ということでしょう。
 この弟子も、最後の晩餐の席で、主イエスのすぐ隣にいたのですから、主イエスの言葉をよく聞いていたことでしょう。主イエスは、「あなたがたに新しい掟を与える」ヨハネ13章34節)と弟子たちに言われました。そして、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)と命じられました。
主イエスは弟子たちを慈(いつく)しんで、「この上なく愛し抜かれた」(13章1節)のです。ご自分を裏切るユダさえも、見捨てる弟子たちさえも、愛し、赦(ゆる)されたのです。その愛の究極が十字架の上で、弟子たちのために、私たちのためにご自分の命をささげられたことです。この愛によって愛されている者として、神の愛を信じ、感動し、喜び感謝しているのなら、その愛を人に還元(かんげん)しなさい、互いに愛し合いなさい、と主は言われます。
「これはあなたの子です」「見なさい。あなたの母です」との言葉は、人と人とを隣人として結び付ける言葉、神の愛の下に「互いに愛し合いなさい」という御心(みこころ)を表す言葉だと思います。すなわち、十字架の横の柱が象徴する人間関係を表しています。
今日から受難週が始まります。主イエスの十字架が指し示す神の愛を心に留めながら、遣わされる場所、置かれた場所で、神の愛を受け止め、隣人と互いに愛し合うことを心掛けて歩みましょう。

 

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