坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神の御心を行う者」

2024年4月21日 主日礼拝説教       
聖 書 マタイによる福音書7章21~23節
説教者 山岡 創牧師

◆あなたたちのことは知らない
21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心(みこころ)を行う者だけが入るのである。22かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名(みな)によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。23そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
「神の御心を行う者」
 「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20章28節)。12弟子の一人であるトマスは、復活した主イエスに接し、主の愛に感動して、このように信仰を告白しました。また、主イエスを宣べ伝えたパウロは、コリントの信徒への手紙(一)12章3節に、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と書き記しています。イエスは主である、私の救い主だと告白することは、聖霊がその人の内に働いて引き起こした、確かな信仰の告白です。
 ところが、イエス「主よ、主よ」(21節)と信じて告白する者が、必ずしも信仰を認められない場合があるようです。天の国に入ることができない場合があるようです。そのことを主イエスは、今日の聖書箇所(せいしょかしょ)、山の上の説教の最後で語っています。正直、えっ!と驚き、ドキッとする主の言葉ではないでしょうか。
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 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(21節)。「主よ」という告白が、確かな信仰、天の国に入れる信仰と認められるのは、その人が信仰生活において「天の父の御心」を行っているという裏付けがある時です。「天の父の御心」は、5章から主イエスが語って来た山の上の説教に示されています。
 けれども、ここでもう一つ、厄介な問題があります。何をもってその人の信仰生活が「天の父の御心を行(っている)」と判断するのか?そんなの見ればわかるよ、と思うかもしれません。ところが、そんなに単純なことではないのです。
 主イエスから、「あなたたちのことは全然知らない。‥‥わたしから離れされ」(23節)と言われてしまう人を見てください。彼らは、「わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った」(22節)人たちです。主イエスの御名によって、すなわちイエスを主と信じる信仰によって行った預言、悪霊祓(ばら)い、奇跡‥‥それは普通に見れば、父なる神の御心に適(かな)う善い行いではないでしょうか。私たちの目にはそう見えるのではないでしょうか。ところが、主イエスの目で見ると、それは御心に適う行いではない場合がある。「不法」(23節)を働いていると見なされる場合があるのです。
 直前の15節で「偽預言者を警戒しなさい」と言われています。現代の教会の牧師は、神の言葉を預り、取り次ぐ預言者にたとえることができるでしょう。では、皆さんは“私”のことを偽預言者ではないと何をもって判断しますか?聖書から説教を語っていること。洗礼式、聖餐(せいさん)式を教団の規則に基づいて行っていること。信徒や求道中の皆さんを訪ね、面談し、分かち合い、共に祈っていること‥‥。そうです。確かに私は、イエスを主と信じる信仰をもって、これらのことを行っています。そのつもりです。
 けれども、今日の主イエスの警告からすれば、それだけでは私のことを偽預言者ではないと、「不法を働く者」(23節)ではないと判断することはできないのです。表面的な行いだけでは判断ができない。もしかしたら皆さんは、偽預言者の“私”に惑わされて、天の国に入ることができない信仰に導かれているのかも知れないのです。
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 いったい私たちは、何をもってその人が、そして自分自身が「天の父の御心を行う者」だと判断すればよいのでしょう?そのヒントがマタイによる福音書24章にあります。そこには「かの日」(22節)のことが主イエスによって預言されています。「かの日」とは「世の終わるとき」(24章3節)のことです。主イエスが、私たちを「天の国」に入れるかどうか判断し、裁(さば)かれる時です。その24章10節以下で次のように主イエスは語っています。「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑(まど)わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」

 既に天に召された藤木正三牧師は、この御言葉から次のように語っています。
 ‥ここを見ると、裏切り、憎み合い、偽預言者の横行に、惑わし、そして今、問題にしている不法が列記され、そして最後に多くの人の愛が冷える、とあります。「不法」とはつまり、「法にそむくこと」ではなくて、「愛にそむくこと」または「愛が冷えることなのです。‥‥「愛が冷える」ということが原因となって偽預言者は横行し、不法もはびこるのです。(『二十のキリスト教談話』118頁、藤木正三、千里山基督教会刊
 そして藤木牧師は、預言、悪霊祓い、奇跡を行っても「偽預言者」と見なされてしまう理由をこう言います。
 ‥それは、彼らの「愛が冷えていた」からです。行いとしてはやるべきことをきちんとやっても、その動機において愛がなかったからです。そして偽預言者はその意味で、父なる神の御旨(みむね)を行いながら、実は行っていない、不法を働く者とされたのでしょう。
 信仰的な行いをしていても、その内に“愛”がなかったら、それは「天の父の御心を行う」ことにはならないのです。7章15節に、偽預言者「貪欲(どんよく)」であるとありますが、その行いの動機が自己顕示欲だったり、自分の行いを誇る承認欲求だったり、隣人のことを考えない自己本位さであるならば、それは神の御心に適わないないのです。
大切なことは“愛”です。主イエスが、聖書において最も重要と言われた、神を愛することと人を愛すること、互いに愛し合うことに適っているか、その愛が行動に込められているか、です。
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 カトリックのシスターであった渡辺和子さんのエピソードを思い起こしました。アメリカにある修道会で生活をされていた時、渡辺さんは配膳係として、夕食の席に座る100人余りのシスターのお皿を並べていました。その時、先輩のシスターが食堂に入って来て、“和子、何を考えながらお皿を並べていますか?”と問いかけられました。渡辺さんは“いえ、何も”と答えました。すると、その先輩シスターは、“和子、あなたは時間を無駄にしている”と言うのです。みんなのために、一心不乱にお皿を並べている自分のどこが、時間を無駄にしていると言うのだろう?と渡辺さんは思ったそうです。けれども、その先輩シスターはこう言いました。“どうせ同じようにお皿を並べるのなら、その席に座るであろう一人ひとりの顔を思い浮かべながら置いてごらんなさい”。そう言われて、渡辺和子さんはハッとします。そしてこの時、初めて私は“時間に愛を込める”ということを教えられたと述懐(じゅっかい)しています。(『愛を込めて生きる』より、PHP)
 同じ行いをしているとしても、そこに“愛”を込めるかどうかで変わってくる。「天の父の御心を行う」ものになる。もちろん私たちは、いつもいつも意識して行いに愛を込めることはできないかも知れません。けれども、そのことに気づいた時には、悔(く)い改(あらた)め、行動に、言葉に“愛”を込めて生活したいと思います。そうすれば、主イエスは「主よ」と告白する私たちの信仰を喜んで、天の国に迎えてくださるでしょう。

 

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