坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神のモーニング・サービス」

2024年4月14日 主日礼拝説教       
聖 書 ヨハネによる福音書21章1~14節
説教者 山岡 創牧師

◆イエス、七人の弟子に現れる
1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第(しだい)はこうである。2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4既(すで)に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6イエスは言われた。「舟の右側に網(あみ)を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
「神のモーニング・サービス」
 2年ほど前に、多摩市にある恵泉女子学園大学の学生礼拝に招かれて、説教に伺ったことがあります。自動車で、高速道路を使って行きました。礼拝開始が10時ぐらいだったと思いますが、万が一、渋滞に巻き込まれて間に合わなかったら責任を果たせませんので、かなり早く出発しました。心配していた渋滞もなく、ドライブは順調。すいすい走って、大学には1時間半以上も早く着きました。
これはどこかで時間をつぶさなければ‥‥そう思って店を探すと、大学のすぐそばにガストがありました。コーヒーでも飲んで、本を読もう。そう思って店に入り、メニューを見ていましたら、モーニングが安く、なかなかおいしそうでした。トーストにコーヒー、スクランブルエッグとウィンナー、サラダまで付いて、400円台だったと思います。注文してしばらくすると、コンピューターで制御されたロボットが料理を運んできたことにも、初めてでびっくりしました。小1時間ほど店でくつろぎ、モーニング・サービスっていいわ~、と満足しました。
弟子たちもティベリアス湖畔(ガリラヤ湖畔)で、復活した主イエスから言わば“モーニング・サービス”を受けていました。パンと炭火で焼いた魚のモーニングは、弟子たちの冷えた心に染(し)み渡ったに違いありません。
       *
 「イエスが復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」と14節にあります。既に二度、復活した主イエスは弟子たちに現れたのです。直前の20章19節以下を読むと、その様子が記されています。エルサレムで、自分たちも捕(と)らえられるのではないかとユダヤ人を恐れ、戸に鍵(かぎ)をかけて部屋に閉じこもっていた弟子たちのもとに、主イエスは現れ、「あなたがたに平和があるように」(19節)と平安を届けてくださいました。そして、1週間後にもう一度現れ、特にトマスのことを心にかけ、向かい合ってくださいました。主イエスの応対に、神の愛を感じたトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と告白します。それは、トマス一人の信仰(しんこう)の告白ではなく、弟子たち全員の信仰、主イエスの復活を信じる信仰を言い表したものだったでしょう。
 ところが、21章になると、弟子たちの信仰は何だか後戻りしたような感があります。彼らはエルサレムから故郷のガリラヤへと戻りました。そして、その人数は7人になっていました。20章では何人とは書かれていませんが、もしもイスカリオテのユダ以外の12弟子がその場にいたのだとしたら、少なくともエルサレムでは11人の弟子たちがいたことになります。
 ところが、ガリラヤに帰った時には7人に減っています。4人が離れていったことになります。復活した主イエスに二度、お目にかかり、喜び、「わたしたちは主を見た」と証言し、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白したはずの弟子たちが、ガリラヤに帰った時には、少なくとも4人が信仰からこぼれ落ち、7人になってしまったのです。残った7人も不安だったに違いありません。いったい何があったのでしょうか?
 何かがあった‥‥と言うよりも、それが信仰に伴う“弱さ”なのだと思います。主イエスと出会い、喜び、信仰を告白した。けれども、その信仰がその後も、そのまま変わらずに続くわけではない。日常の生活の中で、苦しみ悩みに襲われる。不安に陥る。悲しみに打ち沈む。その時、主イエスが見えなくなるのです。神の愛を見失うのです。ともすれば信仰から離れてしまうことさえあるのです。それが弟子たちの信仰であり、私たちの信仰でもあるのではないでしょうか。だから、そのような私たちの信仰が復活するには、保たれるには、繰り返し主イエスが現れてくださることが必要なのです。
       *
 では、どのようにして主イエスは現れてくださるのでしょうか。一つは、御言葉を通してです。虚ろな気持で漁に出て、何も取れずに戻って来た弟子たちに、主イエス「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ」(6節)と言われました。漁師としての自分の経験や考え方からすれば、その言葉には従えない。けれども、主イエスの言葉を信じて、受け入れ、従って生きてみる。その時、私たちは“神の恵み”を見るのです。それは、生活の中で自分なりに、具体的に従わなければ味わえない恵みです。
 弟子たちには以前にも同じような経験がありました(ルカ5章)。同じことを繰り返すのです。御言葉に聞き従うことを生活の中で繰り返すことによって、その度に主イエスは現れてくださるのです。神の恵みを、神の愛を味わわせてくださるのです。
 そして、もう一つは食事です。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12節)。御言葉の恵みを味わって戻って来た弟子たちに、主イエスは湖畔で炭火を起こし、魚を焼き、パンを用意し、もてなしてくださいました。御言葉の恵みを味わった者が、その恵みを主イエスの食事を通して再確認する。それはまさに、礼拝における聖餐(せいさん)の光景です。
 聖餐とは、目に見えない主イエスがその場に霊となっておられることを信じて、主イエスと食事を共にすることです。主イエスのモーニング・サービスを受けることです。食事とは、“何を”食べるかよりも、“だれと”食べるか、です。粗末なパンと魚でも、主イエスと共にいただけば、最高のもてなし、喜びの食卓になる。一切れのパンと、わずかのブドウ液でも、信じて、主イエスと共にいただくなら、それは神の命と愛が満ち溢れ、私たちの心を満たすものとなる。それによって、私たちは神の救いの恵みを再確認し、信仰は保たれ、悲しみや不安から立ち上がる力となるのです。
       *
 礼拝のことを英語でサービス(Service)と言います。この言葉は“奉仕”という意味です。礼拝とは、私たちが神さまのために、賛美と祈りと献げ物で奉仕をする、という意味があります。けれども、もっと重要なことは、神さまが私たちのために奉仕してくださるのが礼拝だということです。私たちを愛のサービスの場に招いてくださり、ホストとして御言葉と聖餐を通して私たちをもてなしてくださる。愛と平和を心に注いでくださる。慰めと励ましを与え、立ち上がらせ、希望を持って送り出してくださる。そのサービスを快く思うからこそ、私たちは次の日曜日も“神さまのサービス”に通うのです。この店にだれかを誘ってみようと思うのです。
 漁に失敗して帰って来た弟子たちを、そして、時にこの世の生活と人間関係に疲れ、ボロボロになって帰ってくる私たちを、主イエスは最高の“愛のおもてなし”によって迎えてくださいます。疲れた心を癒(いや)し、冷えた心を温めてくださいます。礼拝は、復活した主イエスが繰り返し、私たちに現れ、立ち上がらせ、送り出してくださる恵みの場所なのです。

 

リンク     インスタグラム

     日本キリスト教団 坂戸いずみ教会