坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2006年11月9日 主日礼拝「あなたの魂は健やかですか」

聖書 マルコによる福音書2章13〜17節
説教者 山岡創牧師

◆レビを弟子にする
2:13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
2:14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


         「あなたの魂は健やかですか」
「わたしに従いなさい」(14節)。レビはその一言で、立ち上がり、主イエスに従って行きました。たったの一言で、人がそんなに簡単に、自分の仕事を捨て、今までのライフ・スタイルを変え、主イエスに従って行くものだろうか?と疑問を感じても不思議ではありません。それほど、主イエスのこの一言には、レビを感動させる何かがあったのでしょうか。


あるいは、主イエスとレビの間に交わされた前後の会話を、著者であるマルコが省いて、この一言に集約したのかも知れません。けれども、私はやっぱり、レビの魂を揺さぶる何かが、この一言にはあったのだと思うのです。それは、レビがこの一言を必要としていたからでしょう。一人の「病人」として、「医者」である主イエスの魂への処方を必要としていたからではないかと思うのです。



アルファイの子レビ、彼は徴税人でした。徴税人と言うと、ルカによる福音書19章に出て来るザアカイのことを思い浮かべる方もおられるでしょう。ザアカイは徴税人の頭でしたが、レビはたぶん下っ端だったと思われます。収税所に座っていたと言うのですから、おそらく人々から通行税を取っていたのでしょう。ついでに商人からは荷物に対する関税も取っていたでしょう。


税というものは、私たちもそうですが、取られていると感じると、あまり良い気持はしません。ましてレビは収税所で顔と顔とを合わせて税を取っていたのですから、人々から嫌な顔をされたり、嫌味を言われたりすることも、少なからずあったことでしょう。


更に、当時のユダヤの徴税人が嫌われる理由がありました。当時ユダヤ人はローマ帝国との戦争に敗れ、ローマ人に支配されていました。だから、税金はローマ人が取り立てていたのです。けれども、ローマ人は税金の取立てを直接行わず、ユダヤ人に請け負わせていました。どんな取立ての仕方をしてもいい。一定の税額さえローマに収めれば、残りは徴税人が自分の収入にすることができる。但し、税額が不足した場合は、徴税人が自己負担する。そういう条件で、ローマ人は徴税の仕事をユダヤ人に請け負わせました。そうすると、中には金儲けの魅力に魅されて、請け負うユダヤ人が出て来ます。しかし、その人は当然のことながら、周囲のユダヤ人からは同胞に対する"裏切り者" 、ローマに尻尾を振る"犬"と見なされ、憎まれ、忌み嫌われることになりました。


また、徴税人は自分の収入を上げるために、かなり強引で、あこぎな取立てをしていたものと思われます。その行為は、ユダヤ人が神の掟として奉じている十戒の中の"盗んではならない""隣人のものを貪ってはならない"という戒めに背く行為と見なされ、徴税人は「罪人」(16節)の烙印を押されました。その上、異邦人であるローマ人と接触しますから、徴税人は"汚れた者"として軽蔑されました。ユダヤ人は、彼らが信じる神を信じない異邦人は汚れていると見なしました。そういう異邦人と接触すると、そのユダヤ人は、聖なる神に忌み嫌われる"汚れた者"となるのです。


このような理由で、徴税人は"裏切り者""ローマの犬""罪人""汚れた者"として忌み嫌われました。神さまにも嫌われ、見放された者と思われて軽蔑され、差別を受けました。彼らは他のユダヤ人と交際してもらえませんでした。また、裁判の証人になれず、神殿では一番後ろの席で祈ることしか許されませんでした。


言わば、徴税人は"人"としての値打ちを認められず、"お前なんかいなくていい"と存在を丸ごと否定されながら生きていたのです。


だから、レビは収税所で毎日のように、"お前なんかいなくていい"という意味を含んだ視線を向けられ、嫌味を言われ続けて来たことでしょう。その視線、その嫌味、その軽蔑と差別をまともに受け止めていたら、押し潰されて、生きていくことができなくなるのです。それ故、レビは人々に反発し、心を閉ざして生きていたことでしょう。


最近、全国各地で立て続けに、5名の中学生が自殺するという痛ましい事件が起こりました。いじめを苦にしてのことです。


いじめは、体の痛みや心の苦しみに始まって、最終的には"お前なんかいなくていい"という魂への致命的な傷をつけるのです。そのいじめに押し潰されて、この世に自分の避難する場所はない、安心して生きられる居場所はないと行き詰まった子供たちは、もはや死を選ぶしかなかったのでしょう。


けれども、死んでいった彼らが本当に望んでいたものはもちろん死ではなかったはずです。安心して生きられる居場所だったと思います。自分が包まれ、受け入れられ、安らぎを感じられる人間関係だったと思います。


子を持つ親として、また孫を持つ祖父母として、これは決して他人事ではありません。私たちは、自分の子供を、孫を、思いっきり愛しましょう。その言葉を、その気持を大きく受け止めましょう。学校だけが、この世のすべてではないことを知らせましょう。家庭に、社会に、そして教会に、平安な居場所があることを伝えましょう。すべての人が、神さまから愛されて、肯定されて、必要とされて生きているのです。


見方によれば、ユダヤ人のいじめを受けていたレビが、最も必要としていたもの、心底望んでいたものは、自分という人間が丸ごと受け入れられる優しさ、暖かさだったのではないでしょうか。その優しさ、暖かさの中で"ああ、自分は居ていいんだ、生きていていいんだ、必要とされているんだ"と自分を肯定できる平安だったのではないでしょうか。


そのようなレビにとって、主イエスの一言、「わたしに従いなさい」という言葉は決定的だったのだと思います。それは、"あなたを信頼しているよ。あなたを必要としているよ"という呼びかけであり、もっと言えば"あなたを愛しているよ"という彼の魂への語りかけでした。レビの過去を問わず、レビの今を責めず、否定せず、レビを丸ごと受け入れて、"さあ、一緒に生きていこう"という優しさと暖かさに満ちた言葉でした。まさに"神の一言"でした。今まで、誰もそんな言葉をかけてくれる人はいなかったでしょう。この一言に、レビは魂の底から揺さぶられ、人生が変わるほどの感動を受けたのです。「彼は立ち上がってイエスに従った」(14節)とありますけれども、魂の苦しみと痛みから立ち上がることのできるほどの癒しを、人生をもう一度立ち上がることのできる力を、この主イエスの御言葉からいただいたのです。だからこそ、彼は主イエスに従って行ったのです。主イエスの愛の中で生きる人生を歩み始めたのです。私たちもまた、周りの人から、社会から、否定され、苦しみ傷ついた魂を、主イエスの愛によって癒される時、ホッとして、平安な道を歩み始めるのです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節)

と主イエスは言われました。ここで言う、主イエスに招かれている「罪人」とは、神の掟、神の法に背いているという面もあったかも知れませんが、それ以上に、ユダヤ人社会の中で「罪人」というレッテルを貼られ、差別され、いじめられていた人のことを指しています。そのために、苦しき傷ついた魂の癒しを必要としている「病人」という意味での「罪人」に他なりません。レビはそんな「罪人」でした。そんなレビが、主イエスによって招かれ、主イエスによって愛されて、魂の傷を癒され、立ち上がることができたのです。



けれども、私は、今日の聖書の箇所を黙想しながら、主イエスに招かれている「病人」「罪人」とは、それだけの意味ではないのではないか、と感じています。レビを「罪人」と見なし、主イエスを非難するファリサイ派の律法学者もまた「病人」であり、「罪人」だったのではないでしょうか。


ファリサイ派とは、ユダヤ教の一宗派であり、神の掟(律法)を重んじ、厳格に、熱心にこれを守り行う、まじめな人々でした。その中で、神の掟を極め、人々にその真意を教えるのが律法学者でした。彼らは、神さまに従って生きようとすることに、とても一生懸命な人々だったのです。


けれども、そのまじめさ、熱心さがあだになって、彼らは、自分たちは神の前に「正しい人」であると自惚れ、思い上がってしまいました。そして、自分たちは「正しい人」であるという立場から、自分たちのように神の掟を守れない人を否定し、軽蔑しました。その心、その態度こそ彼らの"罪"だったのですが、彼らはそういう自分の姿に気づきませんでした。


私たちも、そういうところがあるのではないでしょうか。自分の人生、特に失敗もなく、なんとなく順調に行っていると、私たちは妙な自信を持つのです。自分の力で、自分がさも正しく生きているかのように思い上がるのです。そして、人を傷つけるようなことを、平気でポンポンッと言ってしまう。しかも、そういう自分の思い上がり、人を傷つけている行為に気づかないまま過ごしてしまうことがあるのではないでしょうか。「病人」「罪人」の自覚がないのです。


自覚症状がなければ、私たちは「医者」のところには行きません。自分のことを「丈夫な人」だと思っていたら、医者の治療を必要としません。しかし、病気は、かかっていても最初は自覚症状のないものもたくさんあります。そして、自覚した時には手遅れという場合も少なからずあるのです。


"罪"という、魂の病もそういうものです。気づかない、自覚しないという場合が、しばしばあります。自分は「正しい人」だと自惚れ、思い上がって、自分の姿が見えなくなっているからです。


だからこそ私たちは絶えず、"魂の人間ドック"で、魂の医者の下で、健康診断を受ける必要があると思うのです。


既に隠退された牧師で、私が敬愛しております藤木正三先生は、今日の17節の御言葉を巡って、「この光にふれたら」という著書の中で、次のように記しておられます。

考えてみれば、私にとってイエスが救い主であるとは、ゆがみに満ちた私の人格 をそのままに受け止め、共感をもって忍耐強く接して下さるカウンセラーとして、であった。‥‥‥‥私は御言葉によって、いつも自分の正当化にはたと思い当たり、そのゆがみを深く凝視させられてきた。イエスがカウンセラーとして寄り添って、援助し続けて下さったお陰でなされてきた自己洞察の旅、それが私の信仰生活であった。‥‥‥‥主の人間治療を不可欠とする「生涯一病人」、これ以外に私の人生はないと思っている。

この藤木先生の述懐、私も私なりによく分かります。私も自分は「正しい人」だと思い上がっていました。人を裁いて、切っていました。そういう自分に、最近ハッと気づかされることがあって、本当に愕然としました。申し訳なく思いました。

私たちは主イエスの人間治療を必要とする「病人」「罪人」ではないでしょうか。それを忘れずに生きていきたいと心から願います。


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