坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2006年11月12日 主日礼拝「あなたの罪は赦される」

聖書 マルコによる福音書2章1〜12節
説教者 山岡創牧師

◆中風の人をいやす
2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。
2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。


         「あなたの罪は赦される」
私たちの教会では例年、夏休みになると、近くの幾つかの教会と一緒に、東秩父村のキャンプ場で小学生合同キャンプを行います。今年の夏で4回目となったキャンプでは、〈おどれ、輪になって、イエスさまといっしょに〉というテーマの下に、主イエスの生涯のうち4つの場面を、4つのグループで劇にして演じるという取り組みを致しました。


演じたのは〈弟子の招き〉〈病の癒し〉〈十字架〉〈復活〉という4つの場面でしたが、私のグループは〈病の癒し〉の場面を担当することになりました。そして、この病の癒しのシーンとして選ばれた聖書の箇所が、本日読みました〈中風の人をいやす〉物語でした。


何しろ即興劇です。予めシナリオが用意されているわけではなく、キャンプの間に、子供たちと一緒に話の流れを理解し、せりふを考え、演じなければなりません。3日の間に練習して、演じるわけですから、あまり長い台詞を覚えることはできません。そこで、台詞よりも、何か印象的な動きがほしいなあと思いました。そこで思いついたのが、中風の人を床に乗せたまま屋根の上から釣り下ろす、という動きです。これはおもしろい、何とか工夫できないかと思いまして、キャンプ場の管理人の方に頼んで、細い竹を2本、2mほどに切っていただきまして、それを寝袋の中に通して、4人で持てる担架のようなものを作りました。後は屋根の上から釣り下ろす動きです。本番は小川教会に戻って閉会礼拝で演じることになっていました。小川教会の礼拝堂は2階まで吹き抜けで、2階部分にギャラリーがあります。そこに上って、そこから釣り下ろせると格好良かったのですが、さすがにそれは危険ですから、イエスさま役の人が座っている両側に椅子を置きまして、担架を持つ4人が一度その椅子の上に上がり、イエスさまの背後から頭の上を通して、イエスさまの前に担架を下ろすという動きにしました。

演じていた本人たちも、見ていた子供たちにも、印象に残るアクションで、きっとこの癒しの物語が記憶に焼きついたのではないかと思います。



そのように、今日の癒しの物語では、中風の人を4人の男が主イエスの前に釣り下ろし、病を癒してくださるように願ったのです。しかも、屋根をはがし、天井に穴を開けてまで、敢えてそのような行動を取ったのです。


当時のユダヤの家は普通平屋で、屋根は、角材の上に柴や木の枝などを編んだものをかぶせ、粘土で塗り固めた平らな屋根でした。屋外にはたいてい階段がついており、その階段を上って屋根の上に上がることができました。だから、屋根をはがそうと思えば、割合簡単にはがすことができたのです。


それにしても、主イエスも、屋内にいた人々も、さぞびっくりしたに違いありません。主イエスが御言葉を語り、集まった人々がそれに聞き入っていると、何かしら天井で物音が聞こえる。その音は次第に大きくなり、やがて頭の上から木の枝や粘土のかすがバラバラと落ちてくる。思わず説教は中断されたことでしょう。そして、何事かと思って見上げていると、やがて天井に大きな穴が開き、その穴からスルスルッと床が釣り下ろされてきたのです。見ていた人々は呆気に取られたことでしょう。


それは、どう考えても無茶な行為でした。自己本位で、他人に迷惑もかかります。家主にしてみれば、自分の家の屋根をいきなり壊されてたまったものではありません。家の中にいた人々も、木の枝や粘土のかすをかぶったことでしょう。もちろん、一番かぶったのは真下にいた主イエスご自身だったでしょう。そして、主イエスの説教は中断されることになったのです。だから、それは普通に考えれば、人々の非難を、また主イエスの怒りを買ってもおかしくはない行動であったでしょう。


けれども、主イエスは、ご自分が木の枝や粘土のかすをかぶったり、折角の説教が中断されたことに腹を立てたりはしませんでした。また、彼らの行為は周りの人々のことを考えない、自己中心なものだと非難することもありませんでした。それどころか、主イエスは、その4人の男のしたことを、「信仰」(5節)だと見てくださったのです。5節に「イエスはその人たちの信仰を見て‥」(5節)と記されているとおりです。


信仰とは何でしょうか。この4人とて、そのようなことをすれば、人に迷惑をかけることを、よく承知していたでしょう。主イエスの説教を妨げることも分かっていたでしょう。それでも、そのことを承知で敢えて、無茶な行動を取ったのです。


それは、この中風という半身不随の病で苦しんでいる人の苦しみを、彼らがよく知っていたからではないでしょうか。肉親か友人かは定かには分かりませんが、普段の生活の中で、この人の苦しみを目の当たりにし、その苦しみを何らかの形で共に負ってきた、苦しみを共に生きてきたのだと思います。だから、できるものなら、この苦しみを取り除いてあげたい、病を癒してあげたいと切実に願っていたことでしょう。

そんな時、主イエスの噂を聞いたのです。この人なら、病を癒してくださるに違いないと信じて中風の人を運んできたのです。しかし、来てみると戸口まで人がいっぱいで中に入ることができない。主イエスは巡回して宣教活動をしていましたから、ずっとカファルナウムに留まっているわけではない。"今日"という機会を逃したら、再びチャンスはないかも知れない。その思いが、4人に、屋根に穴を開けて中風の人を釣り下ろすという無茶な行動を敢えて取らせたのでしょう。


しかし、その無茶な行動を、主イエスは「信仰」だと認めてくださったのです。中風の人を床に乗せて担って来た4人の姿に、主イエスは、人の痛み苦しみを共に担う美しさと労苦をご覧になり、それを「信仰」と見なされたのかも知れません。あるいはまた、"今日"という主イエスとの出会いを大切にする気持を「信仰」と認められたのかも知れません。いずれにせよ、主イエスは、4人の男の行動を「信仰」と、信仰による生き方だと受け止められたのです。


信仰とは何でしょうか。そう聞かれれば、私たちは、主イエスを救い主と信じ、洗礼を受け、キリストの体である教会に連なって礼拝を守る等の教会生活をすることが"信仰"だと考えるでしょう。それはその通りであり、間違ってはいません。


けれども、今日の御言葉から私は、信仰とはそれだけではなく、もっと幅の広いものだということを示されています。病の癒しを願うことはご利益主義であって、本当の信仰ではない、などと主イエスは否定なさらないのです。一人一人の、真剣な神さまへの思いを汲み取って、それを「信仰」だと受け止めてくださる。立派な、あなたの信仰だよ、と認めてくださるのです。そこに、その人の"ありのまま"を受け止め、受け入れてくださる主イエスの暖かさがあります。


私たちならば、これが正しい信仰だと考えたら、その考えにそぐわない信仰の人を裁いて、その信仰は間違っているとか、未熟だとか、修正されなければならないとか、思うかも知れません。その人を暖かく包む前に、まず切ってしまうかも知れません。けれども、考えてみれば、自分自身が決してほめられた、完璧な信仰ではなく、きっと主イエスに、間違いも、歪みも、直せない面も、そのままに暖かく受け止めていただいている信仰ではないでしょうか。だからこそ、自分の正しさを振りかざさず、人の信仰を、人のありのままを、暖かく受け入れる者でありたいと願うのです。



主イエスは、4人の男の行為と願いを「信仰」と受け止められました。そして、その信仰に応えるように、こう言われました。

「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)

けれども、よく考えてみれば、それは4人の男が願っていたものとはズレた、違う答えでした。4人は中風の人の病の癒しを願ってやって来たのです。ところが、それに対して主イエスは、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたわけですから、そこにはズレがあります。もちろん、主イエスは4人の願いを重々承知していました。それなのに、なぜ、その願いとは違う答えをなさったのでしょうか。


それは、病の癒しもさることながら、それ以上に、罪の赦しという魂の問題こそ"救い"なのだと主イエスはお考えになり、ご自分の宣教活動の第一義としておられたからではないでしょうか。


その意識が、その後の律法学者たちとのやり取りにも現れていると思われます。「あなたの罪は赦される」と宣言した主イエスの言葉を、律法学者たちが心の中で非難した時、主イエスは彼らの心を洞察して言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(9〜10節)。どちらが易しいのか、よく分かりません。ただ、主イエスの意識は、中風の人にまず「あなたの罪は赦される」と言われたことといい、10節で律法学者たちに「罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言ったことといい、主イエスの意識はやはり罪の赦しにあったと思われます。病の癒しはあくまで、非難する律法学者たちに罪を赦す権威を持っていることを見せるためでした。だから、律法学者たちの非難がなければ、もしかしたら主イエスは、罪の赦しを中風の人と4人の男に伝えるに留まったかも知れません。


病になればもちろん、治りたい、治してほしいと願わない人はいないでしょう。それは、苦しみを抱えたときの、人の自然な気持です。けれども、神を信じて祈れば、病は治るのか、苦しみは必ず取り除かれるのか、それは分かりません。もしかしたら生涯、その病を、その苦しみを背負って生きなければならないかも知れないのです。もし病を患っていたら、苦しみを抱えていたら、人は救われていないと考えるのであれば、その人は一生救われないかも知れないのです。


けれども、"神の救い"とはそういうことではない、と主イエスはお考えなのです。病を患っていても、苦しみを抱えていても、人は生きていくことができる。病を、苦しみを抱えながら、しかし人は忍耐し、その病・苦しみに意味を見出し、感謝し、謙遜に、自分の人生を受け入れて、生きていくことができる。自分が神に愛されていることに目を開かれているなら、それができる。それこそが"救い"なのだと主イエスはお考えなのです。


罪があれば神に愛されないとユダヤ人は考えました。だから、「あなたの罪は赦される」という言葉は、"あなたは神に愛されている"という魂への宣言に他なりません。



韓国のイ・ミンソプさんという方が作詞・作曲した〈きみは愛されるため生まれた〉というゴスペルがあります。

きみは愛されるため生まれた  きみの生涯は愛で満ちている

きみの存在が 私にはどれほど大きな喜びでしょう

きみは愛されるため生まれた 今もその愛受けている‥‥

2003年、中学生が幼稚園児を駐車場の屋上から突き落とすという痛ましい事件が起きた長崎の町で、家出をし、寂しさをシンナーで紛らわしているような中高生たちが、その町のある教会を訪れました。"なぜ自分は生まれたのか。なぜこんなに苦しんで生きなければならないのか"と苦しみ悩む中高生たちが、この曲を聞いたとき、感動で涙を流しました。そして、この曲は子供たちから学校の先生へ、先生から他の先生へと伝えられ、今では、傷ついた長崎の町の人々を癒す歌になっているそうです。

「あなたの罪は赦される」。君は愛されるために生まれた。この魂への福音が、私たちに届くとき、私たちは魂の平安に満たされて、軽やかに生きて生けると信じます。


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