坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2006年12月10日 主日礼拝「法は人のためにある」

聖書 マルコによる福音書2章23〜28節
説教者 山岡創牧師

◆安息日に麦の穂を摘む
2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」


         「法は人のためにある」
>>安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(27節)<<


先日、北坂戸地域にある5つの小中学校のPTAが共同で主催する成人教育の研修会がありました。私も昨年度、長女の小学校でPTAに関わりましたので、ちょっと関心があり、研修会に出席した妻に、どんな話がされたか尋ねました。その研修会には、アムネスティという国際的な人権擁護団体の方が講師としておいでになり、講演の中でその一部として〈子供の権利条約〉について話されたそうです。子供の権利条約は、子供の権利と義務を謳っているもので、1989年に締結され、現在192の国が加わっています。子供の権利とは、子供が享受することのできる生存、保護、発達、参加等のすべての権利のことです。それでは、義務とは何でしょうか?。大抵私たちは、権利を受ける子供が守るべき務めと考えるのではないでしょうか。ところが、そうではないのだそうです。義務とは、子供があらゆる権利を受けることができるように、そのために守られねばならない、守らなければならない務めのことを言うのだそうです。つまり、これは子供の側ではなく、大人の側が、子供の人権のために守るべき務めなのです。


ふと教育基本法のことが思い浮かびました。今、教育基本法が改められようとしていますが、これは子供の権利を守るためなのか、それとも大人の都合で、特に政治家にとって都合の良い人間を育てるためのものではないのか、という疑問が湧きます。そして、その先には憲法改正という大問題が控えています。政治に関しては皆さんそれぞれの立場・考えがあるでしょうから、ここで語るつもりはありませんが、ただ少なくとも、あの太平洋戦争の時のように、人が国のために、国家体制のために駆り出され、殺されるようなことにはなってほしくないと願います。

安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(27節)

今日は、この御言葉が与えられました。この御言葉の真理を深く受け止め、それぞれの生活の中で、また教会の中で、社会の中で生かしていきたいと思うのです。



この真理が主イエスの口から宣言されるきっかけとなったのは、主イエスの弟子たちが安息日に麦畑で麦の穂を摘んだという出来事でした。それを見ていたファリサイ派という、神の掟を厳格に守る宗派の人々が、その行為を主イエスに対して非難したのです。

「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」(24節)


安息日のことは、神の掟(律法)において十戒の中に定められている非常に重要な掟でした。それは出エジプト記20章8節以下に記されています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。‥‥‥六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。


ファリサイ派の人々は熱心に、厳格に神の掟を守りました。そうすることが、神に従い、神の御心に適い、神に救われる道だと信じたからです。特に彼らは、この安息日の掟を重んじました。


けれども、どうすることが仕事に当たるのか。何が休むことになるのか。毎週・土曜日の安息日を、具体的にどう過ごすことが仕事をせず、休んだことになるのか。その適用と判断は難しいところです。そこで、ファリサイ派の律法学者たちは、どうしたら安息日の違反に当たるか、仕事に当たるかを具体的に定めました。例えば、何歩以上歩いたら違反であるとか、火を使って料理をしたら仕事に当たるとか、そういった事細かな規定が234項目もあったそうです。その中には、収穫の刈り入れをすることも安息日違反として数えられていました。


主イエスの弟子たちが安息日に麦畑で麦の穂を摘んだことを、ファリサイ派の人々は、安息日違反の刈り入れに当たることと見なしたのです。そして、その行為は神の御心に適わぬことだと非難したのです。



それに対して主イエスは、ユダヤ人の英雄ダビデ王の故事を引いてお答えになりました。その故事は旧約聖書・サムエル記上21章に出て来ます。


ダビデがまだサウル王の従者であった時、ダビデがあまりにも有能で、また人気があったので、サウル王はある時からそれを妬み、恐れるようになりました。そして、このままではやがて自分の王座が脅かされると思ったサウル王は、なりふり構わずダビデを殺そうと企てました。その殺意を知ったダビデはサウル王の許から逃亡します。けれども、あまりに急な、身一つの逃亡でしたので、何の用意もありませんでした。そこで、ダビデはノブという町まで逃げて来た際、ノブの祭司アヒメレク(アビアタルではない)に事情を隠して食料を請い求めました。しかし、その時には神さまに供え物として献げたパンしかありませんでした。このパンは、神の掟において、祭壇から取り下げた後で祭司しか食べてはならないと定められていました。しかし、ダビデにとっては生命に関わる緊急事態です。そこで、ダビデは祭司アヒメレクに嘘をついて、祭司しか食べてはならないパンをもらい受けました。


主イエスはこの故事を引用して、"ダビデも神の掟を破ったではないか。しかし、罰されなかった。ならば、私の弟子が安息日の掟を破ったことを非難するのに、ダビデが違反しても彼を敬うのはおかしいではないか"とファリサイ派の人々に反論しています。


この引用と反論、"イエスさま、ちょっと苦しいんじゃない?"という気がしないでもありません。と言うのは、ダビデがしたことは安息日とは関わりのないことですし、また緊急事態でもあり特例だと思うからです。この故事から弟子たちのした行為を正当化するのは、ちょっと苦しいよ、と思うのです。ただ、この引用は主イエスご自身が引用したのではなく、福音書記者マルコが後から付け加えたものだという説もあります。


しかし、とにかく主イエスがファリサイ派の人々の信仰を批判的な目で見ていたことは確かでしょう。日本でも昔、子供たちが人の家の畑に入ってスイカや野菜を取って食べても、ほとんど咎められなかったようですが、ユダヤでも、人の麦畑に入って鎌を使ってはならないが、手で摘むのはよろしいと、これは神の掟に定められています。ただ、それが安息日になされると仕事と見なされ、違反と言われたのです。それは、まるで重箱の隅をほじくるような、枝葉末節にこだわった、せせこましい信仰だと思うのです。主イエスも、"そんなこと、どうでもいいじゃない。神さまに従う信仰にとってたいした問題じゃないよ"とうんざりされたのではないでしょうか。

しかも、そのうんざりするような、せせこましい信仰が、当時の人々の信仰生活を圧迫し、非常に息苦しいものにしていました。何かと言えば掟違反と非難され、それだから神さまに救ってもらえないと軽蔑され、あいつは罪人だと疎外され、窒息死してしまいそうな人々が少なからずいたのです。信仰によって、喜べず、希望を持てず、慰められず、救われない人々がたくさんいたのです。しかし、そのような人々の存在は、本人の信仰が間違っているということで、社会の中で問題として認識されませんでした。

つまり、"信仰の生命"に関わる緊急事態が、そうとは認識されずにユダヤの日常生活の中で起こっていたのです。だから、主イエスは生命に関わる緊急事態であったダビデの故事を持ち出したのかも知れません。

そして、主イエスはファリサイ派の人々の信仰の過ちを、はっきりと指摘されました。

「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(27節)

安息日そのものを否定されたのではありません。人が安息日のために守るようにと定めた決まり、そのために人が圧迫され、窒息するような決まりを否定されたのです。本来、人を生かし、救うはずの神の掟、神の言葉が、人を殺し、人を打つのめすものになっている、そういうものに人がしてしまっていることを非難されたのです。そして、神の掟、安息日の掟のあるべき姿、人を生かし、人を喜びに満たし、人を救う本来の姿へと回復させようとなさったのでしょう。


安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(27節)


私たちは、社会において法や規則や常識が当然のこととしてまかり通り、また私たち自身が日常生活において、それらに縛られて、息苦しい思いをしているような中で、この主イエスの真理を、改めて見直してみる必要がしばしばあるのではないでしょうか。

例えば、登校拒否・不登校という問題が起こります。子を持つ親には他人事ではありません。多くの場合、いじめが原因です。親にも子供にも、"学校は行かなければならない"という社会常識のプレッシャーがかかります。しかし、それがその子を生かす道なのか、よくよく考えて自分で判断しても良いのではないでしょうか。子供が学校のためにあるのではなく、学校が子供のためにあるのですから、もし学校に行くことが子供のためにならないと判断されるのなら、学校を休み、逃げ、拒否しても良いと思うのです。

具体的な事柄を、余り多くは語れませんが、私は、私たちが信仰をもって関わっている教会の問題として、工藤信夫氏というクリスチャンの精神科医の方が著された『信仰による人間疎外』という本の内容を思い起こします。その中で、教会の奉仕ということについて次のようなことが記されていました。

ある人が私にこんなことを聞いた。「先生、クリスチャンになるということは、日曜日に自分の時間を持ってはいけないということでしょうか?」
私はびっくりして、とっさに、「いや、そんなことはないと思うのですが」と言ってから、「ちょっと事情を話してみてくださいませんか?」と聞いた。‥‥
その人の言うことは、だいたい次のようなことであった。
その人の行っている教会は伝道を第一としているので、実に様々な奉仕があるという。
たとえば日曜日、礼拝が始まる前に2箇所で教会学校の奉仕がある。そのため6時頃起きて準備をし、8時から自宅近くの集会所で奉仕。それが終わって9時から別のところのヘルパーをして礼拝に駆けつけるという。
更に、毎週ではないが、礼拝後にトラクト配布や教会活動がいろいろある。だから、月曜日は1週間で一番しんどく辛い。日曜日の疲れが残るから、という。
しかし、彼女は容易にこのスケジュールを変更できない。と言うのは、他の人たちも自分と同じように毎週、時間をささげているし、‥‥「福音が伝えられないままに、
今日も滅びていく魂が幾千とある」と言われると、とても奉仕を断れないのだという。

その結果、この女性が疎外と孤立を感じるようになっていったことについて、工藤先生は警鐘を鳴らしているのです。

奉仕は、神さまに救われた人が、喜んで、自主的にするものです。ところが、神さまのため、教会のため、と言われると、なかなか奉仕や教会活動を断りきれない、という状況が出て来ます。しかし、その結果、神さまを信じ、教会につながっているのに、喜びや平安が感じられず、ストレスや疲れを覚えるなら、それは間違っています。

人が教会のために、あるのではありません。教会が人のためにあるのです。11月の役員会で、教会の交わりの目的は、共に神さまを礼拝することであって、それ以外の活動は2次的なもので、無理にやることではないことを確認しました。私たちの教会も気をつけたい点です。私も牧師として配慮しているつもりですが、皆さんがもし気がついたことがあったら、申し出ていただきたく思います。

>>安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(27節)<<
この御言葉を深くかみしめて、クリスマス、救い主イエス・キリストをお迎えしたいと願います。

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