坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2006年12月31日 主日礼拝「寛やかな心で」

聖書 マルコによる福音書3章1〜6節
説教者 山岡創牧師

◆手の萎えた人をいやす
3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。


         「寛やかな心で」
今日は、2006年最後の礼拝を迎えました。この1年も、私たちの教会は52回の日曜日、1度も欠かさず礼拝を守って来ました。先週のクリスマス、子どもチャペルの表彰式を行いましたが、52回の礼拝を1度も休まなかった皆勤賞の人が8名もいました。きっと大人の方の中にも、1年間礼拝皆勤の方がおられることと思います。


こういうふうに、1年間毎週礼拝を守る教会生活は、聖書の中に出て来るユダヤの人々から受け継いだものです。ユダヤの人々も、毎週欠かさず神さまを礼拝していました。私たちは日曜日に礼拝を守りますが、ユダヤの人々は土曜日に守りました。彼らは、この土曜日を「安息日」(2節)と呼びました。簡単に言うと、"お休みの日"です。そして、安息日に行われる礼拝に、ユダヤの人々は8人どころか、全員皆勤賞でした。うわーっ、すごい!と思うでしょう?。それは、どうしてかと言うと、安息日は"何もせずに休む日"と律法というユダヤ人の掟の中に定められていたからです。何もせず休んで、ただ神さまを礼拝する日と決められていたからです。


私たちは日曜日、礼拝を守るだけでなく、遊びに行くかも知れない、お買い物に行くかも知れない、お客さまを家に迎えるかも知れない、普段作らないおいしい料理をつくって食べるかも知れません。時にはお仕事をすることもあるでしょう。けれども、ユダヤの人々は仕事はもちろんしてはいけない、お出かけしようとしても何歩以上歩いてはいけない、おいしいご馳走をつくろうと思っても、火を使って料理をしてはいけない。とにかく安息日は、すべてのことを休んで、シナゴーグと呼ばれる会堂に集まって、神さまを礼拝したのです。


そういうのって、神さまを礼拝しに集まるのが、何だか嬉しくないですね。鎖のようなものに縛られているような感じで、息苦しく感じますね。神さまとお会いして心を休める日なのに、かえって心が疲れてしまうかも知れないね。でも、ほとんどの人が、それはおかしい、とは思わなかったんだ。なぜなら、習慣になっていたから。習慣って下手すると恐ろしいね。


けれども、ユダヤの人々の何人かは、そういう決まりに苦しんでいました。おかしいぞ、と思っている人もいました。でも、それを口に出して言えませんでした。


けれども、イエスさまは、"それはおかしい!"とはっきり言いました。態度で現しました。それが今日の読んだ聖書の話です。今、私たちがこういうふうに教会に集まっているように、ユダヤの人々も会堂に集まっていました。そこにイエスさまもいた。ちょっと、ooくん、そこの真ん中の通路に立ってごらん。そういうふうに、イエスさまも会堂で、みんなの真ん中に「片手のなえた人」(1節)を、片方の手が病気で動かなくなってしまった人を立たせたんだね。そして、みんなに向かってこう聞いたんだ。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(4節)。そんなこと、みんなだって分かるよね?。ところが、会堂にいたユダヤの人々は皆、黙っていたんだって。どうしてだろう。頑固になっていたのかな?。それとも、本当に大切なことが分からなくなっていたのだろうか?。いずれにしても、イエスさまは、そういうユダヤの人々の態度を、とても悲しく思われました。



安息日とは何でしょう。私たちがこうして集まって神さまを礼拝するのは何のためでしょう。安息日とは、簡単に言えば"お休みの日"だと言いました。しかし、その日は何もせずにすべてのことを休むのが目的ではないのです。神さまの下さるお休みをいただくことこそ大切な目的なのです。神さまとお会いして、神さまのお言葉を聞いて、心安らかになるために礼拝を守るのです。ユダヤの人々は、すべてのことを休むことが目的のようになって、本末転倒していました。


神さまのお言葉を聞いて、心安らかになる。それは、私たちが神さまの手によって造られたものであることを思い出すことです。旧約聖書・創世記の始めに、神さまが天地・世界を6日間で造られたことが書かれています。もちろん、私たち人間も、です。そして、天地を造り終わった神さまは、それを見て「極めて良い」と満足して7日目に休まれたのです。


安息日というユダヤ人の掟は、神さまが6日間で天地を造り、7日目に休まれたから、あなたがたも1週間のうち7日目は休みなさい、というものです。その日休んで、神さまの天地創造の業を思い出すのです。神さまが極めて良いものとして、この世界を造ってくださったことを思い出すのです。そして、自分自身も神さまに造られたものであることを味わい直す。神さまが、極めて良いものとして"この私"を造ってくださったことを改めて心に留めるのです。


先日伺った話ですが、坂戸から毛呂山町に行く途中に東洋ローア・キリスト教会という教会があります。そこは、耳が聞こえない人たちの教会です。その教会の、ある信徒の方が、ご自分の信仰を次のようにお話されました。"自分にとって、神さまとの出会いで一番衝撃的だったのは、神さまが天地を造られたということ、そして私を造られた、ということでした。つまり、神さまが私を耳の聞こえない者としてお造りになったということです。それまでは、自分が耳が聞こえないという障がいを持っていることを不幸だと思ってきましたが、神さまが私のことを良いものとして、このようにお造りになったということを知ったとき、信じたとき、感謝して、前向きに生きていけるようになりました"。その方は本当に明るく、生き生きとした方だそうです。それは、人生が自分の思うようにうまく行っている時の明るさとは一味違った、深い明るさでありましょう。辛いことや悲しいことがある時も、そのまま不幸だと絶望してしまうのではなく、神さまが私を良いものとしてお造りになったことを思い出すことで、つまり信仰によって自分自身に対する見方を変えることで、私たちは、心が安らかになるのです。感謝して、前向きに生きていけるようになるのです。その安らぎを思い出す日が安息日、私たちにとっての日曜日です。信仰による安らぎによって命を救われるのです。そのために私たちは毎週こうして集まって礼拝を守ります。



「片手のなえた人」はたぶん、自分が神さまによって良いものとして造られたことを忘れていたのでしょう。そのことを思い出させるために、イエスさまはこの人の手を治してくださったのだと思います。そして、会堂に集まったユダヤの人々に、神さまに良いものとして造られた安らぎを思い出すのが安息日であると示されたのです。

私たちも今日、自分が良いものとして造られていることを思い出して、神さまの愛の手の中に置かれていることを信じて、安心して、感謝して、家に帰り、新しい1週間を始めましょう。


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