坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年1月14日 主日礼拝「魂の家主はだれか」

聖書 マルコによる福音書3章20〜30節
説教者 山岡創牧師

◆ベルゼブル論争
3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。


        「魂の家主はだれか」
主イエスが山に登って12人の使徒をお選びになり(3章13〜19節)、家に帰って来ると、「群集がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」(20節)と聖書は報じています。群集は、主イエスが病気を癒す力があることを知り、自分の病気を癒していただこうとして、押し寄せるように主イエスの居る家に集まって来たのです。主イエスは集まって来た人々の病気を癒されたことでしょう。その時、直前の3章12節にも記されているように、「汚れた霊(悪霊)どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫び」、癒された人から出て行ったことでしょう。


当時、人がかかる病気は、原因不明な病気であればあるほど、それは悪い霊の仕業、汚れた霊の仕業だと考えられていました。日本でも昔は、原因不明の病気は霊的なものの仕業、祟りと考えて、加持祈祷をさせたという話が、歴史小説等を読んでいると、しばしば出てきます。ユダヤ人も病気は霊の仕業と考えて、霊的治療が必要だと信じていました。病気が治るのは、その人の内側で病気を引き起こしている悪い霊、汚れた霊が追い出されるからだと考えました。


人の内側に巣食う悪い霊、汚れた霊を追い出す。それが、主イエスの癒しでした。



けれども、主イエスの癒しの業を認めない人々がいました。それは、エルサレムから下ってきた律法学者たちでした。彼らは、主イエスの癒しの業を、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(22節)と非難しました。現に病気は治っているのです。救いが起こっているのです。人々はそれを喜んでいるのです。しかも、汚れた霊どもですら、主イエスのことを神の子だと認めているのでス。それなのに、なぜ律法学者たちは主イエスを認めず、非難するのでしょうか。


それは、主イエスが律法を破るかのような行動をされたからです。ユダヤ人、特にユダヤ教ファリサイ派の人々は、神の掟である律法を熱心に守りました。そうすることで、神さまから認められ、救われると信じたからです。律法学者とは、ファリサイ派の中にあって、律法を解釈し、実生活に適用できるように教える教師でした。


ところが、主イエスは律法の中で、特に彼らが重んじていた安息日の掟を破るような行動を取る。神の休息にならって休むべき日なのに、麦の穂を摘んだり、人の病気を癒したりする。また、律法が守れないということでファリサイ派やその律法学者たちが汚れた者と軽蔑し、交わりを避けていた徴税人や罪人たちと平気で言葉を交わし、食事を共にし、しかもその中から弟子を取ったりする。


そういった主イエスのことが、律法学者たちには我慢ならなかったのです。しかし、そのような主イエスによって、人々の病気が自分たちの目の前で癒される。それは、嫌でも否定しようのないことです。妬ましさと腹立たしさをかみ締めたに違いない。その主イエスの癒しの業を認めたくないがために、彼らは、悪霊の頭ベルゼブルの力だと言って、非難し否定したのです。


彼らの気持が分からないではありません。けれども、自分の信仰が一番正しい、絶対として、他人の信仰を認めないという態度は、一信仰者としてふさわしくないと私は思います。信仰は、どれが絶対だと証明することができない救いとの出会い、神との個人的な出会いなのですから、他人の信仰を否定することは、自分の信仰を否定することにもなるからです。


だから、同じキリスト教信仰の人でも、信じ方が違う人と向かい合うことがあります。ここに集まっている私たちも、キリストを信じるという大枠は同じでも、その信仰を煎じ詰めていけば、お互いに微妙に違っていることでしょう。そういう相手に対して、あなたの信仰は間違っていると否定するのではなく、反対に自分の信仰を省みながら、お互いに認め合っていくことが大切でありましょう。


また、他宗教の信仰の人であっても、キリスト教だけが唯一絶対だと言って否定するのではなく、その人が出会い、救われた宗教信仰として認めるのが良いと思います。カルト宗教など、認めるのが難しいものもありますが、社会的な害悪を引き起こしているものでない限り、それを信じている本人が喜んでいるのであれば、私はその宗教を認める、という姿勢でおります。


宗教信仰だけの問題ではありません。自分を絶対として、他人の在り方を否定する。ともすれば私たちは、日常生活の所々で、大なり小なり家族や友人や、その他様々な人を非難しています。非難は簡単に、否定になります。それは、相手を傷つけ、自信を失わせ、下手をすれば不和・争いの元にもなります。そして、何より"人"としてふさわしくない態度だと思うのです。絶対なのは、神さまだけです。その神さまの前に、自分に対しては謙虚に、相手に対しては寛容に認めてこそ、私たちは人間らしいのではないでしょうか。



主イエスは、ご自分の救いの業を認めず、否定する律法学者たちに、反論されました。

「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。(23〜25節)


なるほど、そうだなあと思います。「国」の内輪もめというのは、理解するにはいささかレベルが大きすぎますが、しかし内戦など内側で争っている国の状態を考えれば、想像ができます。また、「家が内輪で争えば、その家は成り立たない」ということを、私たちは多かれ少なかれ経験したことがある、その苦々しさを味わったことがあるのではないでしょうか。だから、サタン、悪霊も同じだと主イエスは言われるのです。悪霊の目的はたぶん、人を内側から苦しめ、支配することでしょう。そうだとすれば、悪霊同士、悪霊の頭が下っ端の悪霊を人の内側から追い出すようなことをしていたら、悪霊の目的は達成されないのです。



それならば、人の内側から悪霊を追い出すものは何でしょうか。悪霊を追い出す主イエスの救いの力とは、一体何でしょうか。

主イエスは、内輪もめのたとえに続いて、次のように語られました。

また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。(27節)


ここで言われている「家」とは、人間のことです。そこに住んでいる「強い人」は、その人を内側から支配している悪霊です。その悪霊を縛り上げて退治する。そうすることで初めて、その家の内にある「家財道具」、つまりその人の心・魂を奪い取ることができる。すなわち、その人を悪霊から解放することができる、と言われているのです。


人の内側から悪霊を追い出し、その人を救うご自分の力を、主イエスはこのようにたとえられました。人を救う力を強盗や略奪にたとえるのは、どうかという気もします。けれども、私はふと、カルト宗教に捕らえられた人の救出を連想したのですが、カルト宗教によってマインド・コントロールされた人は、自分の心理状態や生活ぶりを正しく判断することができなくなります。主体性を奪われ、生活は社会的に見てひどくなっていくのですが、それを、救われている、信じるもののために尽くしている、と思い込まされます。この状態からその人を解放し、正気に立ち返らせるのは容易なことではありません。そのために、家族が、その人をつかまえて一部屋に軟禁するような状態に置き、牧師などの宗教家の協力を得て、必死で説得するのです。それはまさに、強盗、略奪にもたとえられる行為かも知れません。その人は、油断してちょっと目を離すと、逃げ出してカルト宗教に戻ってしまいます。だから、家族は自分の仕事をやめて、24時間体制で、その人を監視しなければならないことが、しばしばあります。


それは、その人の自由を強盗のように略奪するような行為でしょうか。否、私は、やっぱり"愛"だなあ、と思うのです。その心を、魂を、まるで悪霊のようなものに奪われた悲惨な状態から、何とかして救い出そうとする、大切な自分の仕事を捨ててまでも、その人を救おうとする愛の力強さだと思うのです。強盗や略奪というたとえは、人の自由を奪い取る神の身勝手な強引さではなく、何とかして人を救おうとする神の愛の情け深さを表しています。



この、魂を略奪するほどの力強い神の救い、情け深い神の愛を、人の内側に実現する力とは何でしょう。もちろん、悪霊の頭ベルゼブルの力などではありません。それは、「聖霊」(29節)の力だと主イエスは言われます。主イエスは、聖霊の力によって悪霊を追い出し、人の病を癒しておられるのです。そのような聖霊の働きを、悪霊の頭ベルゼブルの働きだ、などと言って捻じ曲げ、侮辱するような律法学者たちの非難の言葉が、「聖霊を冒涜する(罪)」(29節)だと言われているのです。


主イエスは非常に大切なことを言われる時、「はっきり言っておく」(28節)と言われます。今日もそう言われた後で、どんな罪も冒涜の言葉も赦されるが、聖霊を冒涜する罪は永遠に赦されない、と宣言されました。現代の私たちにとって、聖霊が働いて救われるということ、そしてその聖霊の働きを冒涜するとは、一体どんなことでしょうか。


現代人である私たちも、病気にかかります。重い病気に苦しむこともあります。しかし、古代人のように、それが悪霊の仕業であるとは考えないでしょう。また、病気になれば、それが治るようにと祈ります。治る病気もありますし、治らないものもあります。神さまに祈って治ったから聖霊が働いている、治らないから聖霊は働いていないと断定することができるかどうか、はなはだ疑問です。聖霊が働くと言うなら、もう少し違う形で働くのではないでしょうか。たとえば、病気が治っても治らなくても、そのことに関わらず、聖霊が働いて私たちが救われている、という現実があると思うのです。


それは、喜びを持って、平安に人生を生きることができることではないでしょうか。しかもそれは、この世の喜びがあるから喜べるのではなく、それがあってもなくても喜べる喜びです。悩みや不安がないから平安だというのではなく、問題や悩みがあっても抱くことのできる平安です。それは、神を信頼することから生まれる喜びであり、平安です。どんな時でも、神は自分と共にいて、導き支えてくださる。自分のためになるように計らってくださる。だから、不安や悩み、苦しみさえも無駄なものは何一つないと信じることができる信仰から生まれる喜びであり、平安です。それは、どんな時でも、人生を諦めず、投げ出さずに、人生を信頼し、引き受けて生きていく魂の姿勢です。


私たちの人生は、喜びや順調な歩みばかりではありません。嵐に遭い、苦しみ悩むことがしばしばです。そのような苦しみ悩みの歩みの中で、神が私たちと共におられるということ、すなわち、人生に無駄はなく、マイナスではないということを信じることができるならば、私たちの心には、そのように信じさせる聖霊が働いていると言うことができるでしょう。この、苦しみ悩みの中にさえ光り輝く希望、喜び、平安を信じることができなければ、他に救いはないのです。人生にふさわしい救いはないのです。そして、それは聖霊に赦されないことです。赦されないと言うよりは、自ら救いを放棄する態度です。自ら救いを放棄することによって、永遠に救われない状態、聖霊に赦されないと言われる人生態度に陥ってしまうのです。それは、諦めかも知れませんし、自暴自棄かもしれませんし、居直りかも知れませんし、絶望的落胆かも知れませんし、いずれにせよ人生を信じて生きることはできないでしょう。そのような、まさに悪霊に縛られたような魂から私たちを解放しようとして、主イエスは、聖書の御言葉を通して、略奪すると言うほどに、私たちの内側に迫って来てくださっているのです。


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