坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年2月4日 主日礼拝「イエスの家族になるには」

聖書 マルコによる福音書3章31〜35節
説教者 山岡創牧師

◆イエスの母、兄弟
3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」


     「イエスの家族になるには」
今日の聖書の箇所は、「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」(31節)という言葉で始まります。神の福音宣教の働きに尽力している主イエスの噂を聞いて、励ましにやって来たのでしょうか。そうではないのです。実は、主イエスを取り押さえるつもりでやってきたのです。直前の21節に、「身内に人たちはイエスのことを聞いて取り押さえにきた。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」とあります。主イエスが活動するガリラヤ湖畔の町カファルナウムから、主イエスの故郷・山里のナザレまで、主イエスの噂が聞こえてきたのでしょう。それは、「あの男は気が変になっている」という悪い噂でした。そこで、主イエスの身を案じてか、人様への迷惑を考えてか、はたまた身内の恥を思ってか、ともかく、このまま放っておくことはできないと、主イエスを取り押さえにやってきたのです。


なぜ主イエスは「気が変になっている」と言われたのでしょう。マルコによる福音書によれば、主イエスが最初に公衆の面前で活動したのは、カファルナウムの会堂においてでした。そこで神の権威に満ちた説教をして人々を驚かせ、更に、その場にいたある人に取りついていた悪霊を叱って、その人の内から追い出したため、イエスの評判はたちまちガリラヤ地方に広まったと1章28節に書かれています。その噂を聞いて、至るところから大勢の人々が主イエスの許にやって来て、多くの人が病を癒され、悪霊を祓ってもらいました。それだけであったならば、主イエスは"大預言者"の名声をほしいままにできたでしょう。けれども、それだけに留まらず、主イエスは、当時ユダヤ社会において忌み嫌われていた徴税人や罪人と呼ばれる人々と親しく交わり、彼らの中から弟子を取ったりしました。またユダヤ人が重んじていた安息日の掟〜これは神さまが天地創造を完成して休まれた日なので、人も一切の働きをせずに休む人定められていた〜を破って、緊急性のない病人を安息日に癒したりしました。そういう活動が、ユダヤ人の主流派の人々には理解されず、常識から外れた行動として「あの男は気が変になっている」と言われる結果になったのでしょう。それが噂となってナザレまで聞こえて来たために、主イエスの母と兄弟たちは取り押さえに来たのです。



私たちは、あたかも客席から舞台を見ている観客のように、聖書の中で展開されている物語を見ていますから、主イエスの母や兄弟たちに、"そうじゃないんだよ、分かってないなあ"という思いを抱くかも知れません。けれども、仮にもしも、私たちの身内の者が、「あの男は気が変になっている」と噂されていたら、少なくともその様子を見に行くでしょうし、場合によっては取り押さえることだってあるかも知れません。今日の聖書箇所の直前にある〈ベルゼブル論争〉の説教で、私は、身内の者がカルト宗教に取り込まれた時、家族はその身内の者をカルト宗教から離れるように説得する。取り押さえて一部屋に軟禁し、仕事をやめて24時間体制で見守り、説得する場合だってある、とお話しました。身内の者が、気が変になっていると思ったら、何とかして変な行動を止めさせよう、変な状態から救い出そうとするのが家族でありましょう。


けれども、「気が変になっている」という判断は、ともすれば主観的になりがちです。当の相手は"それでいい"と納得していて、人様にも特に迷惑をかけていないのに、自分自身の価値観で相手を判断し、相手を認められないだけ、という場合もあるのです。殊に生き方の問題に関わる場合はそうでしょう。


例えば、自分の身内が今、献身して牧師になる、と言ったら、私たちは素直に喜ぶことができるでしょうか。状況にもよるでしょうが、私たちは"それはやめておけ"と止めるかも知れません。例えば、20年前に私が献身して神学校に入った時、同級生に、仕事を中途で退職して入学した者、更には妻子があって入学した人が少なからずいました。自分の夫が、妻が、生きる道を模索して、献身して牧師として歩む道に進もうとした時、私たちはそれを喜び、共に生きようという気持になれないかも知れない。"なぜ"と思うに違いない。あるいはまた、自分の子供が"献身する"と言い出したら、不安になるかも知れない。"お前はまだ社会のことが分かっていないから、少し社会に出てからにしなさい"などと言って止めることもあるでしょう。


自分の身内が信仰を持ってクリスチャンになるのは嬉しい。しかし、更にその先に進んで献身したいと言い出したら、クリスチャン・ホームであっても、それは喜べない、引き止めるという場合がしばしばあると話に聞いたことがあります。それは、今まで自分のものだと思っていた家族が、自分の考えでは理解できない世界に進んで行こうとしているからかも知れません。私たちはどうでしょうか。


主イエスの家族の場合も同じことだと思うのです。主イエスが福音を宣教することは、言わば献身して牧師になるようなものです。母マリアにすれば、主イエスは長男であり、夫ヨセフが既に亡くなっていましたから、家計を支えるために働いてほしいと願っていたかも知れません。ともかく今まで、自分たち家族の一員であり、自分の手の中にあった身内が、自分が理解していた身内が、自分の許から離れていく。それは、理解し難いことであり、また、たまらなく寂しいことでもあるでしょう。だから、引きとめようとする。取り押さえようとする。まして、「あの男は気が変になっている」などと噂されては尚更のことでしょう。



けれども、私たちにも、生きる世界がすれ違う、ということがあります。相手は、自分には理解できない世界を生きている。自分から見れば"変だ"と感じるような世界を生きている。相手のためを思って、引きとめようとする。取り押さえようとする。


けれども、当の相手は、私たちよりももっと深い世界を、もっと広い世界を、納得して、喜んで生きているのかも知れないのです。特に、信仰によって開ける精神的世界は、他人が立ち入ることのできない、悟ることのできない救いを持つことがあるのです。


主イエスが生きる世界と主イエスの家族が生きる世界はすれ違っていました。同じ神を信じる信仰を持って生きていながら、その信仰の世界、信仰の深まりは大きく隔たっていました。その違い、その隔たりが、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(33節)と言われた主イエスの言葉に表されています。一見、イエスさま、何て身内に冷たいのだろうと思われるかも知れません。けれども、これはそういうことではないのです。この言葉は、家族に対する主イエスの冷たさを表すのではなく、また献身する者は家族と別れなければならないという厳しさを意味するものでもなく、家族であっても生き方の違い、隔たりがあるということを示しているのです。



その後で、主イエスは周りの人々を見回して言われました。

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(34〜35節)。


私は、この時、主イエスの周りに集まっていた人々は果たして「神の御心を行う人」だったのだろうか、主イエスと同じように「神の御心を行う人」だったのかと言えば、決してそうではなかったと思うのです。神の御心の深さなど思わぬ人がほとんどだったのではないでしょうか。そして、その点では私も、私たちも同じかも知れません。私たちも、偉そうなことは言えないのです。


けれども、そのような人々を、そのような私たちのことを、主イエスは「わたしの母、わたしの兄弟」と呼んでくださるのです。まだまだ全く、主イエスのように神の御心を行う域には達していない。しかし、主イエスの語る神の言葉を聞こうとして、主イエスの癒しを求めて、主イエスの許に集まっている。そういう私たちを、同じ神の御心を行う道のスタートラインに立つ者として、また、その道を歩み始めた者として、「わたしの母、わたしの兄弟」と主イエスは呼んでくださるのです。先を歩く主イエスの後姿を見つめ、その後に従いながら、神の御心を行う道を歩む者、それが主イエスの母であり、兄弟姉妹であり、家族なのです。


ところで、この「神の御心を行う」とは、どのように生きることでしょうか。「行う」とありますから、これは行動することだと、聖書の中で神さまが"〜しなさい"と命じておられる言葉、例えば、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)とか、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7章12節)といった言葉を実践することだ、と考えるかも知れません。もちろん、そのように考えて間違いではない、それも「神の御心を行う」ことなのでしょうけれど、それとはまた一味違う意味があるように思います。


一つ注意したいのは、主イエスが意外に「御心」という言葉を使ってはおられない、ということです。頻繁に語っておられるように思うのですが、マルコによる福音書で言えば、今日の箇所も含めて3回しか出てこないのです。


そのうちの一つは、1章40節で重い皮膚病の人が「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と主イエスに癒しを願ったところです。そして、もう一つは14章36節で、主イエスが十字架に架けられる前夜に、ゲッセマネの園で祈られた「しかし、わたしの願うことではなく、御心に敵うことが行われますように」という祈りの中で言われているだけです。


私は特に、今日の聖書箇所の「神の御心を行う人」と、主イエスのゲッセマネの祈りのつながりが大切だと思います。主イエスは、ご自分が敵対する人々に捕らえられ、十字架に架けられるであろう宿命を、「御心に敵うこと」と受け止められました。今、詳しく語ることはできませんが、十字架を意味あるものとして、神の愛を示す業として「御心に敵うこと」と受け止められました。できれば避けたいとの願いがありましたが、しかし、十字架を神の御心として受け入れました。


この主イエスの祈りとのつながりで言えば、「神の御心を行う」とは、"行う"と言うよりは、"受け入れる"ことだと思うのです。能動的に、積極的に、神の御心と思いながら、ともすれば自分の御心で動いてしまうような行動ではなくて、自分の人生を、自分の置かれたところを、自分に与えられたものを、神の御心として受け入れる"心の態度"の問題だと思うのです。受け入れることの中で、自分がそこでなすべき行動も見えてきます。


主イエスにとって十字架がそうであったように、私たちの人生も、自分にとって愉快な、都合の良いことばかりではありません。不愉快な、不都合な、苦しく辛い事も起こります。努力して何とかできるものもあれば、どうにも解決できないものもあります。その時、そういう自分の人生を否定し、拒絶することしか知らなければ、私たちは不幸でありましょう。しかし、それを受け入れる道を知っているならば、私たちは全く違った生き方をすることができるでしょう。もちろん、簡単な道ではありません。転んだり、後退したりすることもあるでしょう。けれども、神の御心は私たちにとって良いものであると、そして、この道を先に歩まれた主イエスが私たちを支えてくださることを信じて、一歩一歩進んでいきましょう。


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