坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年2月11日 主日礼拝「実を結ぶためには」

聖書 マルコによる福音書4章1〜20節
説教者 山岡創牧師

◆「種を蒔く人」のたとえ
4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
◆たとえを用いて話す理由
4:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
4:12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」
◆「種を蒔く人」のたとえの説明
4:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
4:14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
4:15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
4:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
4:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
4:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
4:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
4:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」


       「実を結ぶためには」
今日読んだ聖書の箇所は、1度読むなり、説教で聞くなりしたら、もう忘れない、と言うぐらい記憶に残る話だと思います。こどもチャペルでも、この話がしばしば取り上げられることがありますが、説教者が絵を使って、種が鳥に食べられている場面、石地に落ちて芽が枯れている場面、いばらにふさがれている場面、そして麦が豊かに実っている場面を見ながら話を聞いたら、2度と忘れないでしょう。


分かりやすい話でもあると思います。当時のユダヤの人々は農業に携わっている人も多かったでしょうし、そうでない人でもこういう種まきの様子を身近なところで目にしていたことでしょう。だから、主イエスが話すことを、うんうんと頷きながら聞くことが出来たと思われます。


私も少々家庭菜園をやる人間なので、実が豊かに結ぶようになるためには土地が大事だということは、よく分かります。この教会の牧師館に移ってからは庭の隅っこでしかできなくなりましたが、以前に北坂戸のアパートに住んでいた時には、隣の空き地を8帖ほど借りて、4年ぐらい続けて野菜作りをしました。私がやるのは夏野菜だけで、毎年、きゅうり、なす、ミニトマト、ピーマン等を作っていました。5月頃にホームセンターで苗を買って来て植え付けます。そのために3月頃に土作りをしておくのです。同じものを毎年作ると、連作障害が起こって、あまり実が取れなくなると言われます。とは言っても狭い畑ですから、休ませておける土地なんてない。そこで、畑を50センチぐらいの深さまで掘り返します。これは結構大変な作業です。おかしいなあ、なんで腰が痛いんだろう、痛めた覚えはないのに‥‥‥と腑に落ちない思いでいたら、そうだ、3日前に畑を掘り返したせいだ!と思い当たることようなこともありました。人の気も知らずに、私が必死に掘っている横で、家の子供や近所の子供たちが楽しそうに土いじりをして遊んでいることもしばしばありました。そんなふうに、掘り返した土に石灰や油粕、堆肥などを混ぜ込んで、また元に戻し、2ヶ月ほど寝かせておく。そうすると、あまり偉そうなことは言えませんが、毎年たくさんの実が取れました。


けれども、ユダヤの畑というのはそんなに「良い土地」ばかりではない。「道端」(4節)と言うのは、いわゆる道端のことではなく、畑の中に人が歩いて踏み固められたような道が出来るのだそうです。そういうところに蒔かれる種がある。当時のユダヤの農業は、あまり丁寧に、綿密になされなかったようです。結構、大雑把です。だから、そういう畑の中の道に種が蒔かれることもある。すると、土が固くて種が土の中にもぐらないので芽が出ず、そのうち鳥が来て食べてしまう。また、ユダヤの土地は石が多いようです。特に石の多いところに蒔かれた種は、芽を出しても十分な根を張れずに枯れてしまう。「茨」(7節)のような雑草が生えるところもある。私は、どうして茨の生えているような場所に種を蒔くのだろう?と不思議に思っていたのですが、これはそういうわけじゃない。種を蒔く時は更地なのです。ところが、種が芽を出すのと同時期に雑草も生えてくる。そして、雑草の方が成長が早いので、麦を覆ってしまうということなのだそうです。そして、そういった妨げのない土地に蒔かれた種は、芽生え、育って、何十倍もの実を結ぶようになる。


そういう光景を想像しながら、それを自分たちの信仰生活の光景に置き換えて考え、自分の信仰を問い直してみることは、それほど難しいことではないように思います。



しかも、このたとえ話には、13節以下に解説がついている。この解説は、主イエスがなさったものと言うよりは、後の時代に教会が付け加えた解釈だと言われています。しかし、たとえそうだとしても、決して外れてはいない、的を得た解釈だと思われます。


「神の言葉」(14節)が語られる。けれども、そんなことには無関心で、心に留めず、右から左へ流してしまうような人がいる。当時の人々は、「サタン」(15節)とか悪霊というものの存在をリアルに信じていましたから、そうなるのは神の言葉を、その人の心の中でサタンが奪い去るからだと考えたのでしょう。


神の言葉を聞いて、信じよう、と信仰の芽が出ても、根を深く張らず、枯れてしまうかのように、信仰の続かない人もいる。「艱難や迫害」(17節)のために途中でつまずくのだと原因が説明されています。マルコによる福音書が書かれた70年頃は、主イエスの時代から40年ほど後の時代ですが、当時は主イエスが神の子・救い主であることを否定するユダヤ教による圧迫や、皇帝を神として崇拝せよと強要するローマ帝国による迫害等がありました。社会から弾かれて村八分にされたり、捕えられて投獄され、罰を与えられたりする。下手をすれば処刑される。キリスト教信仰を持ち続けようとすると、そのような圧迫や迫害に遭うために、一度信じた信仰を捨てる人々が少なからずいたのでしょう。日本においても、江戸時代や太平洋戦争中がそうでした。

今日、そういう艱難や迫害はありません。けれども、私たちの外から、私たちの信仰を断とうとする妨げがないわけではありません。例えば、教会に行くことを家族から反対されたら、どうするか悩むに違いありません。日曜日は家にいてくれと言われたら、やはり礼拝に出づらいのではないでしょうか。日本ではそういうケースが多々あると思うのです。また、教会の人間関係につまずくことだってあり得ます。"この人、本当にクリスチャン?"と心外に思ったり、"クリスチャンって、こんなもん?"と失望したりすることもあるでしょう。クリスチャンも人間ですから色々な人がいます。信仰の程度も様々です。そのことを弁えて、周りの人間ではなく主イエス・キリストを見つめ、まず神さまと結びつくことが大切、その上で人を見、人を受け入れる寛容さを持たないと、私たちは信仰につまずくことになりかねません。


また、神の言葉を聞いて、その良さを認め、信仰を持ちます。しかし、その信仰が茨におおいふさがれるように、「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」(19節)が心の中で、信仰よりも大きく強くなることもあります。信仰がないわけではない。けれども、信仰以上に心を占めるもの、支配され虜になっているものがある状態です。


名誉欲、権力欲、地位に対する欲、富に代表される物欲、虚栄心や党派心、そういった欲望が、自分の利益不利益に関わるものとして、心の第1位を占め、信仰を脇へ追いやるのです。あるいはまた、仕事のこと、家族のこと、学校のこと、人間関係、就職、恋愛、結婚、子育て、家計の心配、老後の心配、そして死後の不安‥‥挙げれば切りがありませんが、それらを巡る思い煩いが誰にもあります。そして、そのような思い煩いに奔走し、ヘトヘトになると、つい信仰生活がおろそかになって来る。信じても何の解決にもならないと思い込み、委ねて歩むことを忘れ、信仰は棚上げされてしまうということもあるでしょう。


他人との比較競争という内なる問題も大きいと思います。私たちはどうしても自分と他人を比較してしまう。そして、優越感に浸ったり、劣等感に苛まれたりする。そのために信仰の目が曇って、自分が神の恵みの中で生かされていること、それこそ"世界で一つだけの花"であることを忘れて、傲慢になったり、感謝を忘れたりする。すなわち、信仰の目が覆いふさがれてしまうのです。


そのような現実の中で、種が良い土地に蒔かれて芽生え育ち、実を結ぶかのように信仰生活を歩むということは、実は簡単なことではないのです。



それでは、「良い土地」(8、20節)とは、どんな状態を言うのでしょうか。よくよく今日の聖書箇所を読んでみると、実は「良い土地」については何も説明がなされていないのです。20節に「御言葉を聞いて受け入れる人たちであり」とありますけれども、では、どういう条件なら御言葉を聞いて受け入れられるのか、良い土地の条件というものは何も示されていないのです。鳥を追い払い、石や茨を取り除けば良いのでしょうか。


実際の畑作業なら、そうすることもできます。けれども、私たちの問題として考える時、神の言葉に対する関心の薄さ、無関心という問題は、いかんともし難いものがあると皆さんも感じることでしょう。何かのきっかけで、自分がその気にならない限り、私たちは神の言葉を聞いて受け入れることはありませんし、また何がきっかけになるかは人によって違い、誰にも分からないのです。


また、家族が信仰に反対するのを説得するには時間が必要でしょうし、人生から何かを望む欲望を全く取り除くことは出来ないでしょうし、まして問題や心配のない人生、思い煩いのない人生など、あり得ないでしょう。思い煩うなと言われても、思い煩わずにはいられない要素に満ちているのが私たちの人生です。


とすれば、「良い土地」とは、神の言葉に関心がなければ始まらないのかも知れませんが、少なくとも、信仰生活に対する反対や欲望や思い煩いのない状態が「良い土地」だと言うのではないと私は思います。「良い土地」というものも、実は条件としては、「道端」であり、「石だらけ」のところであり、「茨の中」と同じなのだと思います。「良い土地」もまた、時には無関心なこともあり、信仰に対する反対があり、欲望や思い煩いが心に渦巻いているのです。だから、主イエスも、良い土地とはこれこれこういう条件の土地だ、とは言わなかったのではないでしょうか。


けれども、そのような条件下、そのような人生であっても、「御言葉を聞いて受け入れる」ことが起こり得るのです。御言葉を受け入れる人たちがいるのです。それはもはや、こうしたから御言葉を受け入れることが出来た、とは言うことの出来ない世界です。ハウツーの問題ではないのです。同じような思い煩いを抱えていても、同じような艱難を味わっていても、同じような境遇にあっても、信仰に目覚め、信仰に生きる人もあれば、そうでない人もいるのです。その点について、私たちは手を出すことができません。他人はおろか、自分自身のことであっても、無理くり信仰を持たせるようなことはできないのです。だから、そこは私たち人間の側ではなく、神さまの側の問題、神の領域だなあと思うのです。聖書がしばしば"聖霊が働く"という表現を使うのは、こういうことを表しているのだ、人の力の介在できない面での出来事を言おうとしているのだと思うのです。


だから、私たちは今日の話を聞いて、「良い土地」にならなくては、などと焦る必要はない。焦って良い土地になろうと努力してみても、実はどうにもならないことなのです。自分の力で、と肩肘張っても、私たちは救われない。自己満足にはなっても、神さまに救われることはないと思います。


この際、私たちの心に御言葉の種を蒔き、その御言葉を受け入れることができるように働きかけてくださる神さまに、"こんな私ですが、よろしくお願いします"とお委ねすること、反対や欲望や思い煩いもありますが、そういう中で、色んなことを、すべてを神さまに、よろしくと委ねて、自分の力を抜いてみる。自分で自分を変えようと気張るのではなく、神さまにお委ねして変えていただこうと願う。そこから開けてくる人生、開眼する世界というものがあります。


私たちは神の言葉に無関心な時があります。信仰を反対される時もあります。欲望や思い煩いが信仰の邪魔をする時もあります。けれども、そういう中で、神さまに委ねて平安に歩める時があるのです。いつもいつも、そうではないかも知れない。断続的で、思い煩いと平安の繰り返しかも知れない。けれども、神さまに委ねる平安を味わうならば、私たちの信仰は実を結んでいるのです。その時、私たちは「良い土地」なのです。"委ねて平安、感謝"という心境こそ、百倍の実りです。


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