坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年2月18日 主日礼拝「自分の秤によって」

聖書 マルコによる福音書4章21〜25節
説教者 山岡創牧師

◆「ともし火」と「秤」のたとえ
4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」



       「自分の秤によって」
イエスさまの時代、夜になって暗くなった部屋を明るくするものは「ともし火」でした。お皿のような割と平たい入れ物に油を入れて、そこに芯を置いて火を灯す。今は、そういうともし火を、まず見かけなくなりましたけれども、キャンプ等の際に、油を入れて使うランプが、これに近いものでしょう。そういうともし火を灯すのは何のためでしょう?。言わずと知れたことです。

主イエスはこう言われました。

「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。(21節)


若い人では「升」を知らない方もいるかも知れません。升というのは、液体や穀物の量を量る入れ物のことで、たいていは木でできた四角い形をしています。現代で言えば、計量カップみたいなものです。私はあまり行ったことがないので見たことがありませんが、居酒屋さんに行くと、たぶん"升酒"と言って、本来は使い方が違うのですが、升に日本酒を盛って飲ませてくれるサービスをしている店もあるのではないかと思います。


この升の下にともし火を置く。つまり、升をともし火の上にかぶせる。子供の頃、ローソクの火にコップをかぶせるとどうなるか、という実験をしたことがあるかと思います。ローソクにコップをかぶせると、やがて酸素がなくなって火は消えます。ともし火を消すときに、油芯がくすぶらないように、升をかぶせて消したのです。


ともし火を灯して持って来るのは何のためか。わざわざ灯した火に升をかぶせて消すためではない。もちろん、寝台の下、ベッドの下といった陰に置くためでもない。一番部屋を照らすことができる場所において、暗くなった部屋を明るくするためです。



ところで、ともし火の話は一つのたとえです。このたとえを話した後で、主イエスは次のように言われました。

隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」(22〜23節)

なんだか"なぞなぞ"みたいですね。私にとっても、最初読んだときは謎でした。何を言いたいのか、よく分からないのです。ともし火は本来、燭台の上に置いて、暗い部屋の中で誰の目にも明るく輝いて見えるものだ。それと同じように、今は升の下、寝台の下に置かれているかのように隠れている、秘められているけれど、それはともし火のように明るく輝くものなのだから、やがてはあらわになる、公になる、はっきりするものがあると主イエスは言われるのです。さて、それは一体何でしょうか。


ところで、今日の聖書箇所の最初の21節に「ともし火を持って来るのは」とありましたが、これは聖書の原文(ギリシア語)に忠実に訳すと、"ともし火が来る"という訳になります。しかし、ともし火に足が生えて、自分で歩いて来るわけではないので、「持って来る」と意訳したのです。けれども、停電などで真っ暗になったとき、向こうから懐中電灯を持った人が近づいて来る場面を想像してみれば、真っ暗な中で人は見えず、光だけが見えますから、まさにともし火そのものが近づいてくる、ともし火が来る、と言ってもおかしくはないのです。主イエスはむしろ、真っ暗な人生の闇の中で、あなたがたを照らし、明るくする光のようなものがやって来るのだ、今はまだ分からないかも知れないけれど、それは必ずやって来るのだと言いたかったのではないでしょうか。


少し謎々が解けて来たことでしょう。ともし火が来る。そう言われて思い出す聖書の箇所があります。同じマルコ福音書に記されていた1章15節の言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。これが主イエスのメッセージの要点、中心であると以前にお話しました。


やって来るともし火とは、近づいて来る「神の国」であり、「福音」の言葉そのものだと考えてよいのではないでしょうか。


今日の聖書箇所の後に、「神の国」のたとえが2つ続きます。実はこの4章は、主イエスが「神の国」を語っている箇所だと言って良いのです。先週、4章前半の〈種を蒔く人のたとえ〉から私たちは福音を聞きました。神の言葉、福音の種が人の心の内に蒔かれる。それが人の内で信仰へと成長し、平安と感謝という信仰の実を結ぶ。しかし、言い方を変えれば、それはその人の内で「神の国」という実を結ぶことだ、神の言葉がその人の内で神の国となり、その人は心の内に神の国を持つようになる、と言い換えても良いのです。その人の心のうちに神の国がやって来るのです。ですから、〈種を蒔く人のたとえ〉もまた「神の国」のたとえだと言ってよいのです。


これら3つの神の国のたとえに挟まれて、今日の〈ともし火〉のたとえはある。そう考えると、やって来る「ともし火」とは「神の国」のことだということが見えてきます。


けれども、この「神の国」はまだ隠れている、秘められていると語られています。どうしてでしょうか?。


先週の〈種を蒔く人のたとえ〉の中で、腑に落ちない言葉があると感じた方もいらっしゃることと思います。それは、10節以下の言葉です。弟子たちがたとえの意味を尋ねた際、主イエスはこう言われました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」。たとえとは、分かりにくいものを分かりやすく説明するためのものです。けれども、この御言葉によれば、たとえで語ることによって、かえって神の国は隠され、秘密になるようなことが言われています。おまけに旧約聖書イザヤ書6章の預言まで引用して、認めず、理解できず、赦されないようになるためだなんて、そんなことなら最初から語らなければいいじゃない、どうせ語るなら、認められるように、理解できるように、赦されるように語ってよ!という気持になります。これはどういうことでしょうか。


もちろん、たとえというのは、分かりにくいものを分かりやすくするために語られるのです。しかし、たとえそのものが分かっても、たとえによって"何が"語られているのか、4章の場合は「神の国」が語られていること、そして"神の国とはこういうことだ"と理解しなければ、たとえは何の意味もなくなります。更に言えば、神の国を頭で理解しても、それを自分の内に起こる(信仰的)出来事として受け止め、自分の人生を、自分の生き方をこの神の国に当てはめていく、つまり"自分を委ねる"のでなければ、神の国の持つ恵み、人を生かす本当の力は、その人には隠されていることになります。


マルコ福音書が書かれた時代、主イエスがお語りになった「神の国」の福音を宣べ伝えても、無関心な人、理解しない人、理解しても自分のこととして受け止めない人が多かったのでしょう。そのような現実を表す言葉として、10節以下は記されているのだと思います。



しかし、主イエスは諦めてはおられません。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので公にならないものはない」と、希望を持って神の国の福音を語り続けておられるのです。


だから、隠されている神の国の恵みがあらわになるために、秘められている神の国の人を生かす力が公になるために、主イエスは、「何を聞いているかに注意しなさい」(24節)と言われるのです。

あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(24〜25節)


何を聞いているのか。神の国のたとえを聞いているのです。人を内側から生かす神の国の福音を聞いているのです。それは、あなたを生かし、救う福音だから、自分の人生を当てはめ、自分自身を委ねるような聞き方、生き方をしなさい、と言うのです。


ところが私たちは、神の国の福音に自分を当てはめ、委ねるよりも、反対に、自分の願いや考えに当てはまるものを神さまに求める、という面があるのではないでしょうか。


つまり、私たちは自分の内に、自分の「秤」を持っている。考え方とか、価値観とか、見方とか、好みとか、願いとか、そういった秤を持って生きている。そして、その秤で量れるものは受け入れるけれど、その秤に見合わないものは認めない、理解しない、受け入れないのです。「升」というのは液体や穀物を量る秤だと申しましたが、私たちの内側には、そういう升のような秤があって、それにピッタリ入るようなものを求めている。そして、その升に多すぎても少なすぎても文句を言うのでしょう。


だから、自分の内にある秤が、神の国の恵みと力を量れる秤でなければ、私たちは、神の国の福音を聞いても、どんどん失われていくわけです。けれども、私たちの秤が神の国に適う秤であれば、福音を聞くたびに、いよいよ理解は深まり、神の国に委ねて平安と感謝が増し加えられていくでしょう。



この、神の国の恵みと力を量る秤、すなわち"信仰"、それは、私たちが虚心に神の国の福音を聞き続け、そして生活し続ける中で、私たちの内に形作られていく、私たちの秤は、神の国の恵みと力を量ることのできるものに変えられていく、と思うのです。


弟子たちがそうでした。弟子たちは、4章で〈種を蒔く人のたとえ〉の隠された恵みを説明されている。けれども、彼らがそれを認め、理解し、赦されていたかと言えば、決してそうではなかったのです。4章の終わりで、嵐に揺られる舟の上で、怖じ惑っていた態度から、そのことが伺われます。うだつの上がらなかった彼らが、主イエスについて行くことで偉くなれると思い、この世の偉さ、地位、権力‥‥そういったものを求める価値観で、主イエスのお語りになる神の国の福音を聞いていたのです。主イエスがこの世に神の国を打ち立てた時、自分たちは主イエスに次いで偉くなれると‥。そして、彼らは次第に傲慢になっていきました。


けれども、そういう彼らの生き方が挫折する時が来ました。主イエスが捕えられ、十字架に架けられたからです。彼らの願いが砕けただけではありません。彼らは、主イエスを裏切り、見捨てて逃げ去り、関係がないと否定したのです。その時、彼らは自分自身に挫折したのです。


けれども、その後で初めて、主イエスが語り続けてきた「神の国」が見えてきたのです。あらわになってきたのです。自分の力では、もはや生きていくことができない自分。支えられなければ生きていくことができない自分。赦されなければならない自分。けれども、そんな惨めな、罪深い自分が、神の愛に包まれて、支えられてる。赦されている。受け入れられている。主イエスが十字架にお架かりになって、自分たちの裏切りの犠牲となってくださったのは、この神の愛を示すためだったのだ、ということに目が開いたのです。これこそが、神の国が来るということだと、自分で引き寄せ、つくり出すのではなく、向こうから神の国が来てくれることだと気づいたのです。自分の内にともし火が灯るということだと悟ったのです。その時、弟子たちの胸は愛と平安と感謝に満たされたのです。


弟子たちの内にある「秤」は変えられました。神の国の恵みにふさわしいものに変えられました。私たちの内にある「秤」も、キリストは造り替えてくださいます。神の国が私たちの内側に来るように、私たちの胸が平安と感謝に満たされるように、変えてくださいます。福音を虚心に聞いて、歩み続けましょう。


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