坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年2月25日 主日礼拝「人生の試みに遭う時」

聖書 ルカによる福音書4章1〜13節
説教者 山岡創牧師


◆誘惑を受ける
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』
4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」
4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


       「人生の試みに遭う時」
今日の聖書の箇所は、イエスさまがヨルダン川で洗礼をお受けになった後、「荒れ野」(1節)という場所で、「悪魔から誘惑を受けられた」(2節)お話です。


今、私たちの教会には今度のイースターに洗礼を受けるため、その準備をしている人が3人います。それは、とっても嬉しいことです。そして、私たちも嬉しいのだけれども、天の上では神さまと天使たちがもっと大喜びしているのです。人が神さまを信じて救われ、洗礼を受けることは天の喜びだ、神さまの喜びだと、聖書の別の箇所に書かれているのです。


ところで、洗礼を受けるということは、神さまを信じて生活することのスタートです。今までは、神さまの方を見ずに背中を向けていた。神さまを無視していた。神さまが自分と一緒にいてくれるなんて考えたこともなかった。神さまなんて信じていなかった。自分の力で生きていこうと思っていた。そういうふうに思って生きてきた人が、これからは神さまに顔を向けて生きる。神さまと一緒に、2人3脚で生きる。神さまを信じて生きる。そのように神さまを信じて生きていくことの正式なスタートが洗礼を受けるということです。


ところが、洗礼をお受けになった後、イエスさまは荒れ野で悪魔から誘惑を受けるのです。悪魔がイエスさまに、良いことではなく悪いことをさせよう、させようとするのです。洗礼を受けて、これからは神さまを信じて、神さまと一緒に生きていこうと思っていたのに、どうして悪魔が出て来ちゃうんでしょう?。おかしいじゃないか、と思うかも知れません。


ところが、本当に出て来るんですよ。悪魔はね、私たちが神さまを信じよう、神さまと一緒に生きていこうと思わなければ、出て来ないのです。ところが、私たちが神さまと仲良くし始めると、きっとやきもちを焼くんだろうね。そして、悪魔は何とかして、私たちと神さまの仲を壊そう、私たちを神さまから引き離そう、私たちの気持を神さまではなく悪魔の方に向けさせようとするんだね。


先生も高校生の時、16歳で洗礼を受けました。神さまを信じて、神さまと一緒に生きていこうと決心したんだ。そうしたら、出た出た、悪魔が。洗礼を受けてから1ヶ月も経たないうちに"しまったー!、洗礼なんて受けるんじゃなかった"って、悪魔が思わせるんですよ。"お前、サッカーやりたかったんだろう?。洗礼受けちゃったら、日曜日、サッカーの試合にいけないじゃん。やばいじゃん"って、悪魔が心の中で言うんですね。19歳の頃にも出ましたね。"お前、聖書の中に書かれていること、できないじゃん。そんなんじゃ、神さまはお前のことを愛してはくれないなあ"って、心の中で言うんですよ。そうすると、"ああっ、神さまは、ぼくのことなんか愛してくれないんだ"と気持が神さまから離れていきそうになるんです。牧師になった今でも、悪魔は時々出て来て、神さまから引き離そうと誘惑するのです。


もちろん、神さまと同じで、悪魔も目には見えません。黒い姿をした人がやって来て、"お前、神さまなんてどうでもいいじゃん"って言うわけではない。心の中で、そういう声がするんです。それが悪魔ですよ。だから、洗礼を受けて信仰生活を歩むということは、神さまと一緒に、平安と感謝に満ちて生活するだけではない。神さまから私たちを引き離そうとする悪魔との戦いでもあるわけです。その戦いに、イエスさまのように打ち勝って、本当の意味で神さまと一緒に生きていくのです。


イエスさまも洗礼をお受けになった後、荒れ野で悪魔が出た。悪魔の誘惑に遭った。イエスさまは荒れ野で40日間断食をして、信仰の修業をしたんだね。さすがにイエスさまでもおなかが減る。人間、おなかが減ると、ついイライラしてくるでしょう?。イライラして、つい言わなくてもいいことを言ってしまったり、誰かに当たったりしますね。悪魔が出やすいのは、そういう時なんだね。イエスさまの心の中でも声がした。"お前、神の子なんだろう?。どうしてお父さんの神さまは、こんなに腹を空かしているお前さんにパンの一つもくれないんだろうね?。そんな神さま、信じるのやめちゃいなよ。て言うか、あんた神の子なんだから、ちょちょいのちょい!と石をパンにしてみればいいじゃん"。


イエスさまは、"そうだ、悪魔の言うとおりだ。もう神さまを信じるのなんてやめてしまおう"と思ったでしょうか?。そうではありません。イエスさまはこう答えました。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(ルカ4章4節、申命記8章3節)。イエスさまは、聖書の言葉を思い出して、どんな時でも神さまの言葉を聞き、神さまを信頼して生きることだ大切だと言われました。こうしてイエスさまは悪魔の第1の誘惑を退けました。


しかし、悪魔は諦めません。次に悪魔はこう言いました。"お前さん、この世で一番偉くなって、みんながお前にひれ伏して、みんなが言うことを聞くようにさせたくないか?。この世で一番のお金持ちになりたくないか?。そうしたら楽しいぞ。俺のことを礼拝したら、その願いをかなえてやろう"。


みんなだったらどうする?。そりゃあ少しは、偉くなって周りからチヤホヤされてみたい、お金持ちになって欲しいものを何でも買いたい、という気持はあるよね。そういう気持が少しもない人なんて、たぶん一人もいません。でも、だからと言って、悪魔を礼拝して良いでしょうか?。


悪魔を礼拝するということは、悪いことをするということです。意地悪をしたり、うそをついたり、人をだましたりして、偉くなったり、お金持ちになったりしても、そこには本当の幸せはありません。


イエスさまは答えました。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(ルカ4章8節、申6章13節)。イエスさまはやはり聖書の言葉を答えて、どんな時でも神さまを礼拝し、偉くなったり、お金持ちになれなくても、正直に、誠実に生きることが大切だと言われました。こうしてイエスさまは悪魔の第2の誘惑も退けました。


しかし、悪魔はまだ諦めません。更に悪魔はこうささやきました。"お前、神の子だろう。神の子だって、みんなに信じてもらいたいだろう?。だったら、神殿の屋根の上から飛び降りて、俺が神の子だってところを見せてやれよ。何、けがなんて絶対しないから。だって聖書の中に、神さまが天使たちにお前のことを守らせる、って書いてあるじゃないか"。悪魔も悪賢いんだね。だって、聖書の言葉を持ち出して、聖書にこう書いてあるから大丈夫!なんて言って、だまそうとするんだよ。


でも、イエスさまは、そんな悪魔の作戦には引っかかりませんでした。イエスさまは自分勝手に聖書の言葉を考えたりはしません。やはり聖書の言葉で、「あなたの神である主を試してはならない」(ルカ4章12節、申6章16節)とお答えになりました。聖書にこう書いてあるからといって、本当にそうなるかと神さまを試して、ならなかったから、もう神さまを信じないなんて、そんなふうに聖書の言葉を読むことはしませんでした。こうしてイエスさまは悪魔の第3の誘惑にも打ち勝ちました。


イエスさまは荒れ野で、悪魔の誘惑に打ち勝ちました。「荒れ野」って、草も水もない、枯れた木がちょっとあるだけの、乾き切った場所です。でも、私たちの生活も、荒れ野みたいに、何にもない、何の喜びも、何の楽しみもない、あるのは苦しみと悲しみと不安だけ、という場合があります。そういうふうに、私たちの人生が荒れ野のようになっている時に、悪魔は私たちを神さまから引き離そうと誘うのです。


一人の子供がいました。その子のお父さんがとても重い病気になりました。でも、その子は神さまを信じて、"お父さんを治して下さい"と毎日、一生懸命にお祈りしました。けれども、お父さんは死んでしまいました。その子は、もう神さまなんか信じないと言って、教会に来なくなってしまいました。


神さまのこと信じていたのに、どうして!。とても悲しい。とても悔しい。その気持は、きっとみんなもよく分かるでしょう。でも、そういう時にこそ、悪魔は私たちを神さまから引き離そうと、心の中で作戦しているのです。


そういう時に、イエスさまの十字架を思い出してください。"私は神の子なのに、どうして十字架に架からなければならないのか。もう神さまなんて信じられない"とイエスさまが思っても、おかしくはなかったでしょう。でも、イエスさまは "神さまが一番良いと思うようになさってください"と祈りました。聖書の言葉によって、心から神さまを信頼していたからです。神さまに対する信頼を失ったら、私たちは心に希望を持って、光を持って生きていくことはできません。

どんなときでも どんなときでも 苦しみに負けず くじけてはならない

イエスさまの イエスさまの 愛を信じて

という讃美歌(改訂こどもさんびか/120、讃美歌21/533)がありますね。聖書の言葉をしっかりと聞いて、信仰を養われて、この讃美歌のような心で生きていきたいと思います。


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