坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年3月4日 主日礼拝「愛の大きさで分かる」

聖書 ルカによる福音書7章36〜50節
説教者 山岡創牧師

◆罪深い女を赦す
7:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
7:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
7:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
7:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
7:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
7:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。


         「愛の大きさで分かる」
ギョッとするような光景だったと思います。私たちだったら、"何をするんですか?"と、びっくりして足を引っ込めたに違いない。周りにいた人たちも息を飲んだことでしょう。それぐらい、女のしたことは常識から外れた、異常な行為でした。


彼女は、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め。自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(38節)のです。


この時、主イエスはファリサイ派の人シモンの家で食事の席についていました。食事の席と言っても、私たちが見慣れているようなテーブルと椅子があったわけではありません。当時のユダヤ人の食事は、床に料理を置いて、その周りに人々は寝そべり、頬杖をついて食事をしたと言われています。女が後ろからイエスの足もとに近寄ることができたのは、そういう形で食事をしていたからです。



想像してみてください。丸く寝そべって食事をしていたら、一人の女が部屋に入って来た。何かと思って注目していると、その女は主イエスの足もとにしゃがみ込み、嗚咽を漏らし始めた。目に涙があふれ、その涙が主イエスの足を濡らす。彼女は主イエスの濡れた足を自分の髪の毛でぬぐい、その足に接吻をし始める。そして、その後で主イエスの足に香油を塗った……。終始、彼女は泣き続けていたかも知れません。それは何の前置きもない、説明もない、無言の行為だったでしょう。同席していた人々は、その異様な光景、異常な行為を、息を呑んで見守ったに違いない。



けれども、主イエスはその女のなすがままにさせていたようです。それは、彼女の行為そのものに驚くよりも、彼女の異常な行為の裏にある気持に、彼女の涙の内に潜む思いに目を注いでておられたからだと思います。



彼女にしてみれば必死だったに違いありません。37節に、彼女は「罪深い女」と記されています。彼女がどんな罪を抱えていたかは定かにはわかりません。彼女が誰で、どんな罪を抱えていたのかは分かりません。しかし、彼女がこの町でどんな仕打ちを受けていたかは推測できます。その罪のために神さまの祝福を受けられない人間として軽蔑され、差別されていた。そのために肩身の狭い思いをし、苦しみ悩んで生きていたに違いありません。


そのように生きていた彼女が、主イエスという人の噂をどこかで聞いたのでしょう。それは、イエスという方は自分たちのような罪深い者にも神の恵みを語り聞かせ、受け入れてくださる方だという噂でした。しかも、その方が今、自分の住む町に来ており、ファリサイ派の人シモンの家で食事をしている。それを知った彼女は、主イエスの許に行って、自分の胸をふさいでいる罪の重荷と苦しみを告白したいと思ったのでしょう。罪深い自分だと分かっていながらも、憐れんでほしかったに違いない。その気持は、同じルカ福音書18章にある主イエスの譬え話の中で、徴税人が、神殿の一番後ろで、顔を伏せ、自分の胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(18章13節)と祈ったのと同じ気持だったと思います。


分かっていてもできない、どうにもならないことが私たちにはあります。それを責められ、裁かれたら、私たちには立つ瀬がない。居場所がない。そんな惨めな気持、不安な気持を、どこかで、だれかに"つらかったね"と受け止めてもらいたい。"あなたは赦されているよ"と赦してもらいたい。"あなたは、それでいいんだよ"と受け入れてもらいたい。そして、ここに行けば、そういう暖かさ、そういう優しさをいただくことができるに違いないと信じて、彼女は、主イエスの許に赴いたのでありましょう。


しかし、主イエスの許に来たとき、主イエスの姿を見たとき、彼女の思いは胸に詰まって言葉にはなりませんでした。あふれ出る涙になりました。涙を流しながら、ただ香油を塗るという行為になりました。彼女は、自分の胸に渦巻いていた思いの10分の1も告げることができなかったでしょう。


けれども、主イエスは、その涙と無言の行為の内に、彼女の気持を察し、受け止めてくださったのです。だからこそ、「あなたの罪は赦された」(48節)と、彼女の気持に応えてくださったのです。「安心して行きなさい」(50節)と平安を告げて下さったのです。



けれども、それでは納まらない人がここにいました。主イエスを食事に招いたファリサイ派の人シモンです。


ファリサイ派というのは、ユダヤ教の一宗派ですが、神の掟である律法を厳格に守ることを旨とする人々でした。そのように生きることで、神の国にふさわしい者と神さまから認められ、救われると信じて、彼らは熱心に律法を守りました。そして、そのような熱心さの裏返しとして、私たちにもありがちなことですが、律法を守れない人々を非難し、軽蔑し、そのような人は神さまから認められないと見なして差別し、交際を絶っていました。


シモンもファリサイ派の一員でしたから、それこそ「罪深い女」が許可もなく自分の家に入ってきたとき、とんでもないことだと思ったことでしょう。けれども、彼は、主イエスがこの女をどのように扱うかを見てやろうと試す気持になったのかも知れません。そして、主イエスが彼女のなすがままにさせている様子を見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(39節)と心の中で非難したのです。


主イエスは、彼女が「どんな人か」察したと思われます。「罪深い女」だと分かったと思います。けれども、「罪深い女」だから、裁いて、絶交すべきだと考えるシモンと、主イエスは全く反対の考えを持っておられた。「罪深い女」だからこそ、愛して、赦して、受け入れようという父なる神の御心のままに生きておられたのです。


その父なる神の御心を知らせようとして、主イエスはシモンに一つのたとえをお語りになりました。当時、1日労賃が1デナリオンと言われていましたが、500デナリオンの借金のある人と50デナリオンの借金のある人が、金貸しからその借金を帳消しにしてもらったら、「どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」(42節)という話です。


そう問われれば、だれでも分かる。ちなみに、私は試しに、我が家の子供にこの話をして、問いかけてみたら、やっぱりシモンと同じように答えました。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」(43節)と。


だれにでも分かるのです。ただ、問題はそのたとえ話を自分のことだとは考えないところにあるのです。私たちも少なからず、そういうことがあるのではないでしょうか。


そのように答えたとき、シモンは、この話が、まさか自分のことを指しているとは思わなかったに違いありません。なぜなら、シモンは、この罪深い女よりも自分の方が多く神を愛していると思っていたからです。神の掟を熱心に守っている自分の方が、掟を守らずに罪を犯している彼女よりも、比べ物にならないぐらい神を愛していると自負していたでしょう。


ところが、主イエスはこのたとえ話の後で、実は神さまのことをより多く愛していたの\はファリサイ派の人シモンではなく罪深い女の方だと、彼にズバリと言われたのです。なぜなら、彼女の方が神さまに対する自分の借金の多さ、つまり自分の罪の大きさを知っていたからです。言葉では表せないほど、涙で語る以外にないほど、自分の罪に葛藤し、苦しんでいたからです。弁解も言い分けもない。自分は正しいと主張することもできない。もはや「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と、自分の内をすべてさらけ出して、ただただ神の憐れみにすがる以外にないと、魂を砕かれていたからです。


つまり、彼女は悔い改めていたのです。そして実は、悔い改めることこそ神さまを愛することなのです。ファリサイ派の人シモンは、神の掟を守ることが神さまを愛することだと信じていました。そして、熱心な信仰生活と行いの故に自分は神さまに喜ばれる立派な人間だと思い上がっていました。しかし、それは神の恵みに対する感謝ではなく、自分の力に対する自己満足であり、陶酔でしかなかったのです。そうではなくて、自分自身に矛盾を感じ、限界を感じ、行き詰まりを感じ、挫折を感じ、罪を感じ、自分の思い上がりとエゴを砕かれて、"神さま、こんな私を憐れんでください"と神さまの憐れみにすがり、委ねる。そのように砕かれた魂を持ってする悔い改めこそ、神さまの喜ばれる献げ物であり、神さまを愛することなのです。



罪深い女は、自分の罪の大きさを知っているが故に、多く愛しました。激しく悔い改めました。では、神の掟を熱心に守っていたシモンには罪はなかったのでしょうか。そうではありません。自分は正しい人間で、神さまに赦され、憐れまれる必要などないと自惚れている傲慢な思いと、その思い上がりから他者を見下し、裁いて生きている態度こそシモンの罪でした。シモンにも罪はあるのです。ただ彼はそれに気づいていない。


それでは、シモンの罪は気づかないほど小さなものだったのでしょうか。罪深い女の罪と比べると、彼女の罪の方が大きく、シモンの罪の方が小さかったのでしょうか。そうではありません。罪の大きさとは客観的に計れるものではないのです。ただ、自分が独り、神の前に立って自分の内側を見つめ直すときに、見えて来るのが罪の大きさです。


既に隠退された牧師で藤木正三という方が、神の前に立って知る罪について、その著書の中で次のように書いておられます。

人の罪だけを見ている時は、私たちはその人を裁いています。そして、その人の前に立っています。自分にも同じ罪があると思うに至った時は、私たちは反省しています。そして、自分の前に立っています。人の罪より自分の罪の方が大きいと思うに至った時は、私たちは罪そのものを見ています。そして、神の前に立っています。その際、自分の罪が人のよりも小さく見えたり、同じ程度のものに見えている間は、まだ神の前に立っていないと注意しましょう。神の前とは、自分の罪が人の罪より必ず大きく見えるところですから。(藤木正三『福音はとどいていますか』神の前、より)


だから、その意味ではシモンは神さまを信じているようで、実は神さまの前に立って生きてはいないのです。その信仰生活は熱心なようで、実は空虚です。神さまと向かい合って、自分の内側を掘り下げていないからです。自分の内を、自分の罪を知らないからです。自分の罪の大きさを知らないが故に、砕かれた魂の底で神の憐れみと出会っていない、本当の意味で神と出会っていないからです。「赦されることの少ない者は愛することも少ない」(47節)のです。



神さまに赦されていた者、赦しにおいて神と出会っていた者は、ファリサイ派の人シモンではなく、罪深い女でした。彼女は神の前に立っていました。自分自身に崩折れて、ただ神の憐れみにすがりました。その悔い改めを、主イエスは、「わたしに示した愛の大きさ」(47節)と見なしてくださいました。悔い改めという、主イエス(神)への愛に生きるとき、その人はもう既に赦されているのです。その悔い改めの思いが大きいほど、後で気づく神の赦しの愛も、また大きいのです。

この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。(47節)。


愛の大きさで分かること、それはその人が神の前に立っているということです。神の前に砕かれているということです。そして、もう既に大きく、深く赦されていることです。


私たちは、気づいていると否とに関わらず、皆、罪深い者でありましょう。それを赦され、受け入れられ、愛されているから、こうして生きていることができるのだと私は思います。その恵みを悟るとき、私たちは「安心して」(50節)生きることができるようになりのです。


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