坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年3月11日 主日礼拝「命を失う者は、命を救う」

聖書 ルカによる福音書9章18〜27節
説教者 山岡創牧師

◆ペトロ、信仰を言い表す
9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
◆イエス、死と復活を予告する
9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
9:27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」


        「命を失う者は、命を救う」
「神からのメシアです」(20節)。主イエスの問いかけに、ペトロはそう答えました。メシアとはユダヤ人の言葉であるヘブライ語で"油を注がれた人"という意味で、特別な使命のために神さまによって選ばれた人のことを言います。当時、ユダヤの人々は、メシアという存在に、ユダヤ人の独立国家を復興し、ローマ帝国の支配から解放する救世主としての働きを期待していたようです。


このメシアという言葉、ギリシア語に直すと私たちにお馴染みの"キリスト"という言葉になります。ですから、ペトロは主イエスに向かって、"あなたは神からのキリストです"と答えたことになります。キリストとはイエス・キリストの苗字、セカンド・ネームではありません。キリストとは救世主、救い主という意味の称号であり、イエスをそういう方だと信じた時にのみ、イエス・キリストと呼ぶことができるのです。その意味では、「神からのメシアです」と言ったペトロの答えは、"イエスをキリスト、救い主と信じます"という信仰告白だと言うことができます。


今、私たちの教会では3名の方がイースターでの洗礼式に向けて備えをしています。それは、この"イエスをキリスト、救い主と信じます"という信仰告白のための準備だと言い換えても良いのです。今まではイエスをキリスト、救い主などとは信じていなかった。イエスをキリストとして遣わされた神さまを信じていなかった。けれども、これからはイエスをキリストと信じ、イエスによって神さまを信じ、信仰による新しい人生を歩み始める。その新たな門出のために備えているのです。


イエスを救い主キリストと告白し、洗礼を受け、信仰生活を歩み始める。ただし、大切なことは洗礼を受けて、クリスチャンになったという外側の形ではありません。どのように信じるか、という信じ方の問題、そして、その信仰によって、どのように生きるか、という生き方の問題こそ大切です。と言うのは、同じように"イエスをキリスト、救い主と信じます"と信仰告白をしても、信じ方が違う場合がありますし、それによって生き方も違って来るからです。ともすれば、主イエス・キリストの望まない信仰生活になってしまう場合もあり得るのです。


ペトロが「神からのメシアです」、あなたこそキリストです、と答えた時、主イエスは決して手放しで喜ばれませんでした。むしろ、「弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じた」(21節)と記されています。どうしてでしょう?。それは、人々の間に、否、弟子たちの間にさえ、メシアという存在に対する誤解があったからです。人々が考えているようなメシアとして信じられることを、主イエスは望んでいなかったからです。


当時の人々は、メシアという存在に、ユダヤ人の独立国家という意味の"神の国"を打ち建て、ローマ帝国の圧制・支配から自分たちを解放する救世主、英雄像を期待していました。そういうメシアを、ユダヤ人のために神さまが送ってくださると待ち望んでいたのです。非常に現世的な信仰でした。弟子たちもまた、主イエスについて行ったら、主イエスが国を建てた時、自分たちも主イエスに継ぐ地位と権力を得ることができると期待していたのです。つまり、彼らが信じるメシアとは、現世的な力を持つ存在であり、その力によって、国を建てたり、地位や権力を与えたり、病気を治したり、富を得たり、というように現世的なご利益を約束してくれる方でした。


メシアをそういうふうに信じると、人の生き方は自然と現世的なご利益を望む生き方になります。自分の願いが叶うこと、問題が解決されること、苦しみが取り除かれることを安易に期待し、"今の自分"と真正面から向かい合い、見つめ直し、人生の置かれたところで地に足をつけた地道な生き方ができないようになっていきます。表面的な成功や解決ばかりが人生の幸せだと勘違いするのです。そして、その期待が叶わなければ、神さまに不満を感じ、人生に不平を浴びせるような生き方になるでしょう。


主イエスは、ご自分がそのようなメシア、キリストとして信じられることを望みませんでした。人々が、そのようなメシア、キリストをご自分に期待して、現世ご利益的な生き方に陥ることを喜ばれませんでした。なぜなら、主イエスが、これこそ神の御心と信じて進もうとしている道は、人々の期待とは全く違っていたからです。

ご自分のことをメシアと呼び、人々に話すことを弟子たちに戒められた後で、主イエスはご自分が歩む道をお話になりました。

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22節)


ご自分の歩む道は、多くの苦しみを引き受けていくような道だと主イエスは言われました。それは、ユダヤ人の長老、祭司長、律法学者といった権力者、宗教指導者たちから排斥され、十字架に架けられて、殺されるに至るような苦しみです。主イエスは、当時の形式的な内面性の失われた宗教と信仰生活を批判し、その煽りのために社会の中で軽蔑され、疎外されていた徴税人や遊女、罪人と言われた人々に、信仰による内面的な喜びをもたらされました。しかし、そういう主イエスの宣教活動、生き方は当然、主イエスが批判した、形式的な内面性の失われた宗教と信仰生活のトップに立って指導している長老、祭司長、律法学者たちに煙たがられ、否定され、排斥される宿命にあったのです。けれども、主イエスはご自分の歩む道を神の御心と信じて、神の御心に従って生きる決意をなさっているのです。そのために降りかかる苦しみは甘んじて引き受ける覚悟をなさっている。しかし、神の御心に従い、苦しみを背負って歩んだその先に、必ず大切なことが見えてくる。良かったと心から思えるものが見えてくる。本当の人生の姿が見えてくる。「復活」という言葉に象徴される何かが見えてくる。主イエスは、そういう道を歩む、と弟子たちに宣言されたのです。


そのようにお話になった後で、主イエスは弟子たちに言われました。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(23〜24節)


「自分の十字架」とは何でしょうか。主イエスは、長老、祭司長、律法学者たちに排斥され、十字架に架けられて処刑されました。そして、その後の教会の時代においても、主イエスについて行く者、主イエスを信じる者は、ユダヤ人から迫害され、ローマ帝国からは許可していない宗教を信じる者として、十字架に架けられ処刑されるという殉教死の問題があったのです。だから、背負うべき「自分の十字架」というのは、ストレートに言えば、殉教して十字架に架けられ殺されるということでした。


ですから、そこで信仰の道を貫くかどうか迷いが生じるのは無理からぬことです。貫けば十字架刑で死ぬことになる。けれども、信仰を捨てれば、命が助かる。だから、少なからぬ人が、この問題を突きつけられて、信仰を捨てたことでしょう。


しかし、信仰を守り抜こうと志した人々は、主イエスが語られた「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」との御言葉を思い起こして、お互いに励まし合ったのでしょう。教会は、やがてこの世が全く新たに生まれ変わり、神に国、神の世界が到来すると信じていました。やがて主イエス・キリストが、「自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るとき」(26節)が来ることを、「神の国」(27節)が到来することを信じていました。だから、この世で、信仰を捨てることで自分の命を救いたいと思う者は、やがてこの神の世界が到来する時には、この神の世界に生きる命をいただくことはできない、失ってしまう。逆に、命を失っても、主イエス・キリストを信じる信仰の道を貫く者は、来るべき神の世界で命を与えられ、神の世界に生きる救いに浴することができる。人間は、たとえローマ帝国の皇帝のように、全世界を手に入れ、その栄華と権力を得たとしても、主イエス・キリストを信じず、来るべき神の世界で平安に、幸いに生きることができなければ、何の意味もないではないか。そう信じて互いに励まし合い、「自分の十字架を背負って」歩もうとしたのです。


しかし、今日、そのような殉教の心配のない現代日本人である私たちにとって、主イエスについて行くということ、自分の十字架を背負う、とはどのようなことでしょうか?。


23節に「日々」という言葉があることに注目しましょう。これは、マルコによる福音書の同じ言葉にはありません。つまり、ルカは「十字架を背負う」ということを「日々」のこととして日常化しているということです。ルカによる福音書が書かれた時代には、もう余り十字架に架けられて殉教という心配がなかったのかも知れません。殉教死という問題が薄れる中で、自分の十字架を背負うということを「日々」の事柄、日常的な事柄として捉え直しているのです。私たちも同じでありましょう。


背負うべき自分の十字架は、日々の事柄、日常的な事柄としてあるのです。では、その十字架がどのような性質のものかと言えば、それはやはり背負いたくない事柄です。主イエスは、長老、祭司長、律法学者たちに捕らえられ、十字架に架けられる前夜に、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22章42節)と祈っています。"ゲッセマネの祈り"と呼ばれる祈りです。主イエスにとっても十字架は、決して歓迎できるようなものではなく、できれば取りのけてほしいもの、避けたいもの、逃げたいものだったのです。


私たちにも、日常生活において、避けたいもの、逃げたいもの、できれば神さまに取り除けてほしいものがあるでしょう。それは、病気であったり、仕事のトラブルであったり、家族の問題であったり、人間関係の摩擦であったり、老いの問題であったり、人それぞれ様々でしょう。


避けたい、逃げたい、取り除けてほしいと願うこと自体が悪いとは思いません。問題や苦しみ悲しみに遭えば、そう思うのが自然な気持であり、本音です。私たちは、弱音を吐かずに、あるいは心に思わずに生きられるほど強くはありません。


けれども、大切なことは、現実にはその問題がなかなか解決しない、避けられない、取り除かれない時にどう生きるか、です。私たちは、そうなることを求めて宗教信仰にすがったりするのですが、信仰とはそれほど自分に都合の良い、万能なものではないのです。その時、社会や他人のせいにして不平を言ったり、虚無な気持で諦めたりして、自分の十字架を背負う覚悟を決めなかったら、私たちの人生は不幸であり、救われないでしょう。十字架があるから救われないのではなく、十字架を背負う覚悟が決まらないから救われないのです。それは、私たちの中に、十字架は不都合であり、受け入れたくないという気持があるからです。


だから、主イエスは「自分を捨て」なさい、と言われるのです。自分にとって不都合だとか、嫌だとか、そういった気持は当然あるのですが、それを捨てなければ、それを一旦脇に置かなければ、自分の十字架は背負えないのです。


ですから、主イエス・キリストが、この十字架を取りのけてほしいという自分の願いを捨てて、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られたように、神さまの御心を信頼して、神さまが自分の人生になさるそのままにお委ねして、"よろしくお願いします"という信仰で生きる。その信仰によって、信仰が養われることによって、私たちは少しずつ、自分の十字架を、諦めず、不平を言わず、潔く、平安に生きていくことができるように変えられていくのです。

置かれたところで咲きなさい。仕方がないと諦めてではなく、咲くのです……


という誌がありますが、私は、自分の十字架を背負うとは、こういうことだなあ、自分が置かれた人生において、ここにも花を咲かせることができると信じて、精一杯生きることだなあ、と思うのです。そして、そういう生き方を良かったなあ、と感謝できる、そういう中でも神さまを信じて平安を感じられることが、救いということではないでしょうか。


先週、鶴ヶ島市の広報をいただいて読みました。その中に、今日も礼拝の後で障がい者のデイケア施設であるぽてと工房のクッキーを販売させていただきますが、そのぽてと工房の母体となった〈出会いの会ぽてと〉といた団体に、立ち上げの時から関わってこられた岡村さんという方の記事が載っておりました。この方は、数年前に筋萎縮性側策硬化症(ALS)という難病におかかりになりました。全身の運動神経が次第に侵され、筋肉が萎縮していく進行性の病で、まだ原因が解明されておらず、有効な治療手段はありません。しかし、岡村さんはご自分が思いもかけず煩うことになったこの病気に絶望せず、学校等、様々な場所で「生命の向かい合う」メッセージを語っておられます。そのメッセージが、鶴ヶ島市の広報に掲載されていました。


その文章の中に、次のような一節がありました。

これからどう生きていけばいいのか、そんな思いで写真を整理しているときに、その写真の中から、思い出の中から、こんなに楽しく、いい時間を過ごしてきた自分に思い当たり、このままで生きていることが、これからもよりよい自分らしい、いい生き方なのだろう、ということを確信いたしました。


"このままで生きていくことが、自分らしい、いい生き方なのだろう"という言葉には、その時、自分が置かれたところを引き受けて生きていく、自分の十字架を背負って生きていく、それが自分の人生にふさわしい、自分の人生に足をつけた、本来的な生き方なのだという思いがあふれています。この方は、クリスチャンではありませんが、ある意味でクリスチャン以上にクリスチャンらしい生き方をされていると感じます。私たちは、キリストに招かれて、こうして教会に集まる者です。そして、聖書と信仰を通して"救い"を教えられ、その恵みに浴します。キリストは、十字架を背負う生き方を指し示します。私たちのために最善をなしてくださる神さまの御心を信頼して、諦めず、人のせいにせず、自分の人生の十字架を背負うことを教えます。そして、そのように生きるとき、そこに、これで良かったと、自分らしいと思える感謝と平安がいつか見えてきます。それが人の救いなのだということを、私たちは信仰によって確信して歩むのです。


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