坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年4月1日 主日礼拝「わたしと一緒に楽園にいる」

聖書 ルカによる福音書23章32〜49節
説教者 山岡創牧師

23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
◆イエスの死
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。



     「わたしと一緒に楽園にいる」
この礼拝堂の正面に、二つの椅子があります。説教者と司会者の席です。これらの椅子も、礼拝堂にある他の道具と同じく、川越少年刑務所の木工部で作ってもらいました。他の家具と同じく、こちらで形と寸法と基本の材料を指定したら、デザインに関しては、あちらにお任せしています。


今年度の前半でしたか、これら二つの椅子が出来上がって来て、初めて見たときにはアッと思いました。椅子の背に十字架の形が彫り抜かれているのです。こちらでお願いしたわけではなく、あちらのアイデアであり、お計らいです。そして、礼拝堂の正面、左右にこれらの椅子を置いてみた時、すぐに今日の聖書箇所を思い起こしました。私の背後にある壁面の十字架と2つの椅子の背に彫り抜かれた2つの十字架。それは、主イエス・キリストの十字架を中心にして、左右に2本の十字架が立っている今日の聖書の場面を象徴しているかのようです。たぶん、これらの椅子を初めて礼拝堂で見たとき、皆さんの中で同じように感じた方も少なからずおられたことでしょう。図らずも、2つの椅子は、この礼拝堂において、そのような象徴、シンボルとなりました。


だから、これらの椅子は機能的には説教者と司会者の椅子なのですが、信仰的に、象徴的に見るならば、これらは主の十字架の右と左に立つ2本の十字架、罪人の十字架であると受け取ることができます。


今、この椅子に座るのは私だけです。礼拝が始まる前、ほんの少しの間、私はこの椅子に座ります。その時、ふと考えるのです。私は果たして、どちらの犯罪人、どちらの罪人と重なり合うのだろうか、と。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)と自分の罪を省みず、主イエスをののしった罪人なのか。それとも、そのように罵った罪人をたしなめ、自分の罪を、自分の内側を見つめながら、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)と語りかけた時、主イエスから「楽園」(43節)を約束された罪人なのか。一体あなたはどちらなのかな?と、この椅子から問われるのです。


この内なる問いかけは、私だけでなく、皆さんも問われるべきことだと思います。この礼拝堂に入り、この椅子を見る時、自分は今、一体どちらなのかと考えてみてほしい。


もちろん私たちは法律的に刑罰を受けなければならないような犯罪人ではありません。しかし、神の前に立つとき、私たち一人一人は罪ある者であると聖書は見なしています。そして、罪ある者を裁くのではなく、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と赦し、救うことが神さまの御心なのだよ、と、これまた聖書は語っているのです。


けれども、折角の神さまの救いを、私たち自ら、一方の犯罪人のように放り投げてしまうような生き方をしてしまっているかも知れないのです。だからこそ、私たちは、神さまの前に、主イエス・キリストの十字架の前に、自分を問われ、絶えず自分自身を見つめ直すことが大切ではないでしょうか。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(39節)


実は、このようにののしったのは十字架に架けられた犯罪人の一人だけではありません。「議員たち」(35節)もあざ笑って、同じように言いました。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」


「兵士たち」(36節)も主イエスを侮辱して言いました。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」


これらの人々に共通していることがあります。それは、「自分が何をしているのか知らない」(34節)ということです。主イエスが十字架の上で祈っておられる通りです。


自分が何をしているのか知らないなんて、そんなことがあるわけないじゃないか!と思われるかも知れません。確かに、ある意味で彼らは自分が何をしているのか知っています。議員たちとは、ユダヤ人の最高法院議員のことで、ユダヤ人の宗教と政治の指導者たちです。祭司や律法学者や長老といった人たちが、この議員になっていました。彼らは、彼らが定め、指導しているユダヤ教の礼拝や信仰生活を真っ向から否定し、独自の宣教活動をしておられた主イエスを、目障りな人間と思い、自分たちの宗教指導に反する、イコール神を冒涜する者として抹殺しようとしているのです。

また、兵士たちというのはローマ帝国のローマ人兵士たちです。当時、ローマ帝国は地中海周辺一体の諸国、諸民族を支配していました。ユダヤ人もその一つでした。反逆は許されませんでした。兵士たちは「ユダヤ人の王」(37、38節)として帝国に反逆を企てた反逆者として主イエスを処刑しようとしています。


そして、犯罪人の一人は、十字架刑という絶体絶命のピンチにおいて、腹癒せから主イエスをののしっています。


皆、自分が何をしているか知っています。けれども、彼らが知っているのは表面的なことではないでしょうか。彼らは自分がしていることの内面的な意味を知らないのです。なぜなら、自分の内側を見つめていないからです。自己本位な者、自己中心な者は、自分の内側を客観的に見つめようとはしません。神の目で見ようとはしません。だから、自分のしていることが、自己本位な、自己中心なカラーで色濃く覆われていることに気づかないのです。


議員たちは、主イエスの言葉に耳を傾けず、自分たちの宗教指導を弁護し、自己正当化し、それに反対する主イエスこそ神を冒涜する者だと一方的に見なして攻撃しています。その独善的な自分の姿を知りません。その罪を知りません。


兵士たちは、日ごろ上司が厳しく、安月給で、またユダヤの田舎に飛ばされているという鬱憤を、処刑者を侮辱したり、からかったりすることで晴らしているのです。鬱憤やストレスを晴らすために、他人を辱める。それは、人として堕ちた姿です。しかし、彼らはそういう自分の内面性を知らない。


犯罪人の一人もまた、処刑されるという自分の不運を呪い、その不満を外にぶつけるだけで、自分が犯してきた罪の数々を数えようとはしません。


これらの人々にもう一つ共通していることは、他人を攻撃することです。相手が悪い、社会が悪いと不平不満をぶつけたり、鬱憤を晴らすことで、自分を守ろうとする点です。


ですから、「自分が何をしているのか知らない」ということは、自分の内側を見つめず、自分がしていることの内面的な意味を知らずに、他人を非難したり、攻撃している、ということです。



けれども、驚くべきことに、主イエスは、彼らのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(34節)と祈っておられます。十字架に架けられるという非難、攻撃を受けながら、痛みを負いながら、それでも彼らを赦そうと、愛そうとしておられます。この祈りの言葉に、十字架の上での姿を通して、神さまの御心が見えてきます。


ある神学者が、主の十字架は、2人の罪人の十字架に対して同じ距離に立っている、一方に近く、他方には遠く離れて立っているわけではなく、この2人の真ん中に、主の十字架は立っていると語りました。それは、私たち人間が、自分が何をしているのか知っているといないとに関わらず、神さまの側では、それを知っている者も知らない者も、等しく赦そうとしておられる、赦しておられる、愛しておられるということなのです。神さまは、私たちが「自分が何をしているのか知らなく」ても、もう既に赦してくださっている、愛してくださっている。主イエスのたとえ話の中で、放蕩息子の帰りを待ち続けていた父親のように、私たちを赦し、愛しているのです(ルカ15章11節〜)。それが、私たちに対する神さまの御心です。親心です。


けれども、残念ながら私たちは、神の大きな赦しと愛に気がつかない。人生の放蕩、内面的な放蕩をしている間は気づかない。放蕩息子が行き詰まってハッと我に返り、自分自身を見つめ直して、父親の許に帰ろうと思ったように、犯罪人のもう一人が十字架刑という絶体絶命の状況に置かれて、自分の罪の当然の報いと思ったように、私たちも、静かに自分の内側を見つめ直してみる、そして見つめ直して悔い改め、神さまの憐れみを願うのでなければ、この神の赦しと愛に目が開かれることはないのです。心から深く、神の恵みと出会うことはないのです。



すべての人が自分自身を見つめず、主イエスをののしる中で、もう一人の犯罪人だけが、静かに自分の内を見つめていました。彼一人だけが、十字架の主の前に、神の前に、自分の内を見つめていたと言えるでしょう。

既に隠退された藤木正三という牧師先生の著書の中に、〈神の前〉と題された、次のような一文があります。

人の罪だけを見ている時は、私たちはその人を裁いています。そして、その人の前に立っています。自分にも同じ罪があると思うに至った時は、私たちは反省しています。そして、自分の前に立っています。人の罪より自分の罪の方が大きいと思うに至った時は、私たちは罪そのものを見ています。そして、神の前に立っています。その際、自分の罪が人のよりも小さく見えたり、同じ程度のものに見えている間は、まだ神の前に立っていないと注意しましょう。神の前とは、自分の罪が人の罪より必ず大きく見えるところですから。(藤木正三『福音はとどいていますか』神の前、より)

だれと比べるのでもなく、他人や社会のせいにするのでもなく、犯罪人のもう一人は、神の前に自分の罪を見つめていたことでしょう。もはや言い訳することも、逃れることもできない。自分の罪を認めて、当然の報いを受けるしかない。彼はそれを受け入れる覚悟して、最後に一言、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(43節)と言った。それは、人生の最後の最後に、自分自身を見つめ直し、悔い改める思いになることができて良かった、との告白だったと思います。


ところが、その時、思いもかけなかった救いを彼はいただいたのです。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)


「楽園」とは何でしょうか。それは、自分の内を見つめて、自分の罪の深さを知り、心から悔い改めて祈るときに、魂の奥底で知る神の赦し。こんな自分をさえ神は愛していてくださったと知る喜び。それによって生まれる平安こそ、私たちの"魂の楽園"なのです。


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