坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年4月8日 主日礼拝「神に名を呼ばれたとき」

聖書 ヨハネによる福音書20章1〜18節
説教者 山岡創牧師

◆復活する
20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。
◆イエス、マグダラのマリアに現れる
20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。



       「神に名を呼ばれたとき」
マグダラのマリアには、なぜ天使が見えたのでしょう?。ペトロともう一人の弟子は主イエスの墓の中に、亜麻布と覆いしか見なかったのです。それなのに、マリアが墓の中をのぞくと、「白い衣を着た二人の天使が見えた」(12節)と記されています。同じ空っぽの墓をのぞいているのに、ペトロともう一人の弟子には見えず、なぜマリアにだけ天使が見えたのでしょうか。


その理由は定かではありません。けれども、私はこの不思議を思い巡らしながら、ふと私たちにはそういうことがある、ということに思い至りました。つまり、同じものを見ていても、心の目に映るものは違うということ。同じような体験をしていても、そこで感じること、気づくことが、人によって異なるということ。私たちには、そういう違いがあるのではないでしょうか。そして、その理由は一概には説明できないのです。


そして、それは信仰についても同じことが言えると思います。同じものを見ていても、似たような体験をしていても、そこで「わたしは主を見ました」(18節)と、主イエス・キリストと出会う人もいれば、出会わない人もいるのです。


今日の聖書箇所においても、そのことが言えます。ペトロともう一人の弟子は、空っぽの墓に「入って来て、見て、信じた」(8節)と記されています。何を信じたのかと言えば、主イエスの復活を、です。けれども、二人はマリアのように、復活した主イエスを見てはいません。出会ってはいません。ペトロともう一人の弟子が復活した主イエスと出会うのは、もう少し先のことです。ですから、ここを読みながら、信じるということ、信仰を持つということと、主イエスに出会うということとは、同じではない、ちょっと違うことなのだというふうに考えさせられています。


今日、3名の方々が洗礼をお受けになりました。本当に嬉しく思います。3名の方にはそれぞれ受洗に至った経緯や動機がおありでしょう。あるいは、主イエスと生きた出会いをしたと感じておられるかも知れません。しかし、洗礼はゴールではなく信仰のスタートです。つまり、信じたということです。まだこれから、山あり谷ありの人生の中で、主イエスとの生きた出会いが待っている。その出会いを通して、苦しみ悩む自分を、疲れ切っている自分を、落胆している自分を、また心の目が見えなくなっている自分を復活させる神の恵みを、神の御言葉を味わってほしいと心から願います。もちろん、これは3名の方だけではなく、ここに集っている私たち皆に言えることです。



マグダラのマリアは、復活した主を見ました。主イエス・キリストと出会いました。とは言え、最初から主が見えたわけではありません。復活した主イエスはマリアの後ろに立っておられました。彼女はふと人の気配を感じて後ろを振り返るのですが、それが主イエスだとは気がつきません。マリアは主イエスを見失っているのです。


マリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」(2、13節)と繰り返し語っています。ですから、彼女が主イエスを見失っていることは明らかです。けれども、この言葉は単に、主イエスの遺体がどこにあるのか分からなくなってしまった、という意味だけの言葉ではありません。神さまが主イエスの人生をどこに置いたのか、分からなくなってしまった。つまり、十字架刑という無惨な最期を遂げた主イエスの人生に、主イエスの教えに、どんな意義があったのかが分からなくなってしまったということです。それは裏返して言えば、そういう主イエスに従って来た自分の人生の意味も見失ってしまったということです。


ある意味で、順調に、まっすぐに生きてきた者が人生の壁にぶち当たる。どうしていいか分からない。しかし、まっすぐが良いと信じているその視点の先には、実は主イエスはおられないのです。主イエスは、そういうマリアの視線の前にではなく、後ろに立っていました。つまり、そういう人生の視点とは全く反対の方向、反対の生き方を主イエスは示しておられるということです。主イエスの歩みもまっすぐではありませんでした。十字架という苦しみ、挫折を味わわれました。しかし、そういう挫折や紆余曲折の歩みの中に、勇気や希望や平安を見出していく視点こそ大切なのだと、復活した主イエスは教えておられるのではないでしょうか。それこそが復活なのだ、と。


そんなことを考えておりましたら、〈こころの友〉4月号に載っていた、丹治めぐみさんという信徒の方の文章が目に留まりました。


(高校2年の)4月の第一日曜日、イースターに洗礼を受けました。洗礼を受けて新しい私になったからには、欠けたところがないように、しっかり生きよう。そういう決意で、勉強やクラブ活動、あらゆることにがんばる日々が始まりました。ところが、だんだん苦しくなって、12月には学校に行けなくなってしまいました。その前の月までは何とか続いたがんばり屋さんの生活は破綻し、心身ともに疲れ果てて行き着いたのは病院のベッドでした。……肩に力を入れず、のんびりやってごらんなさいと言ってくださった担任の先生のことばで気が楽になり、そのあとは卒業まで楽しい学校生活でした。キリスト教徒として歩み始めて、すぐにつまずいたのはなぜだろうと考えることは避けていました。考えようとするまで、長い時間がかかりました。


あのころ、キリスト教徒として生きることを選んだのだから、その決断にふさわしい自分になるようにがんばろう、そう心に決めていました。「私が、私が」という気持で、心を踏み固めていたのです。‥私の心は「私」でびっしりと埋め尽くされ、聖書のことばが心に落ちて芽を出すことも根を張ることもなくなっていたのでしょう。選んだのは私ではなく、ひたすら招かれ、捉えられていただけでしたのに。人に支えられていることも、人を支えることも忘れていました。強くなりたいと願いながら、弱くなっていたのだと思います。


‥‥あれからほぼ30年、どうにか教会から離れなかったのは、不思議なことです。その不思議は、神の愛です。どれだけ多くをゆるされ、生かされていることか。


教会の春は、十字架で命を失ったイエス・キリストの復活を祝うイースターと共に訪れます。落胆が希望に変わるその不思議に招かれる時が、まためぐって来ます。


丹治さんもマリアのように、後ろを振り向いたのだと思います。キリスト教徒としてがんばろう!、それはまっすぐ生きようとする意識です。尊い志ではあるのです。けれども、そのようにばかり生きられない。失敗し、挫折し、苦しみ悩んだその中で始めて、主イエスに支えられ、受け入れられ、自分自身が復活するということが見えたのです。それが、復活の主が見えるということでありましょう。



マグダラのマリアもまた、後ろを振り向いた時、主イエスが見えました。けれども、最初はそれが主イエスだとは気がつきませんでした。2度目に振り向いた時、主イエスが立っておられるのが見えました。それは、2度目の時には、主イエスが「マリア」(16節)と彼女の名前を呼んだからでありましょう。


主イエスが名前を呼ぶということの中には大きな意味が込められています。それは、主イエスを通して、神さまが私たち一人一人の名前を親しく心に留め、呼んでくださるということです。そこには、私たち一人一人が、一人の人間として存在を認められ、受け入れられ、生かされているという、"いのちの真理"の意味が込められています。


同じ〈こころの友〉4月号に、キリスト教カウンセリングセンター所長である賀来周一氏の、こんな言葉が記されていました。


保護者会などで、筆者がお母さんたちに申し上げる言葉があります。「子どもがお母さんからもっとも聞きたいと思っている言葉は、『あなたはわたしが産んだ子だから絶対大丈夫だ』という言葉ですよ」と。‥‥能力を重視する世の中からは、決して聞くことのない言葉でもあります。しかし、この言葉を聞いて育つ子は、どんなことがあってもめげることはないでしょう。なにしろ、生きる土台が保証されるのですから。


生きる土台が人間の外側からではなく、内側から保証される。これは、人間にとって生きていく上で欠くべからざる、大切な事柄でありましょう。お母さんは、ある意味で神さまの象徴です。究極的には、私たちはこのメッセージを、私たちに命を与えられた神さまから聞くのです。それによって、私たちは、自分が生きていてよいのだ、この世界は自分の存在を歓迎しているという安心、すなわち"いのちの真理"を自分の胸に抱くことができるのです。


「マリア」という呼びかけには、この"いのちの真理"が込められています。私たちも一人一人、自分の名前を神さまから呼んでいただける、大切な存在です。どんなことがあっても、自分が神さまから認められ、受容され、生かされている存在だと信じていきましょう。その時、私たちは復活します。


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