坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年4月15日 主日礼拝「私たちの心は燃えていた」

聖書 ルカによる福音書24章13〜35節
説教者 山岡創牧師

◆エマオで現れる
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。



      「私たちの心は燃えていた」
我が家のダイニングにある食器棚のガラス戸には色々なものが貼り付けてあります。子供のクラブ活動の予定表、子供のお手伝いを定めたお手伝い表、ちょっとお気に入りの絵葉書など……お陰で中の食器が見えなくてガラス戸の意味がありません。


さて、その貼り付けてあるものの中に3枚の写真があります。私の写真です。そのうちの1枚は、私が人生で一番太っていた時の写真です。35歳頃のものです。なぜかひげも生やしている。他の2枚はその後でダイエットして、非常にすっきりとやせている時の写真です。やせている写真の1枚は、ニュージーランドに住んでいる私の弟だ‥‥と子供には言ってあります。


なぜそんな写真を貼っておくのかといえば、自分の健康上の目標と戒めのためです。私は太りやすい体質なのか、油断しているとすぐに太ります。そこで、写真を見て、ここまでならないようにと自分を戒め、こうなるといいぞ!と励ますわけです。


健康上よろしくないと思いますが、私は太っている時とやせている時で20キロも体重が違います。まるで別人です。だから、写真を見ながらよく思うのですが、太っている時の私に初めて会った人が、その後しばらく会わずにいて、次にやせている私とあったら、これは逆も然りですが、ちょっと同一人物だとは分からないだろうなあ、と思うのです。



さて、今日の聖書箇所に、こんな言葉がありました。

話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。(15〜16節)


主イエスなのに、どうして主イエスだと分からなかったのでしょうか?。復活した主イエスは著しく外見が変わってしまったのでしょうか。体重が20キロ減ったとか。何がクレオパともう一人の弟子の目を遮っていたのでしょうか?。


もちろん外見が変わったから、というような問題ではありません。イエスなのにイエスだと分からなかった。それは、主イエスが自分のそばに、自分と一緒にいるのに、一緒にいてくださると思えなかった、ということです。そこに、主イエスの復活とはどういうことなのかを考える糸口があります。


クレオパともう一人の弟子は、エルサレムから60スタディオン、約11キロほど離れたエマオという村へ向かって歩いていました。主イエスが十字架に架けられ殺された日から数えて「三日目」(21節)、日曜日の午後のことだったでしょう。彼らは主イエスに、「わたしたちはあの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけて」(21節)いたのです。ところが、望みをかけていた主イエスがイスラエル(ユダヤ人)の「祭司長たちや議員たち」(20節)に十字架につけられてしまい、落胆した彼らは、すべては終わった!と田舎へ引き上げるところだったのでしょう。


そこへ復活した主イエスが現れ、二人と一緒に歩き始められました。そして、二人が何を話しているのかお尋ねになるのです。そこで二人は、主イエスが十字架に架けられた「一切の出来事」(14節)を、主イエスに話して聞かせました。それが19節以下の部分であるわけですが、要するに先ほどもお話したように、イスラエルをローマ帝国の支配から解放する救世主として望みをかけていた主イエスが十字架に架けられて殺され、その望みが絶たれてしまった。もう終わりだ、というネガティブな、消極的な、絶望的な話なのです。その後で、主イエスを納めた墓が空だったということが語られていますが、後が続かない。そこで話がプツリと切れて終わってしまうわけです。


クレオパともう一人の弟子は、二人が自分の目で見て、聞いて、感じた三日間の出来事を、主イエスに話して聞かせました。ネガティブな話でした。


当たり前のことですが、私たちは出来事を語るとき、自分の視点で見て、感じた出来事を話します。クレオパともう一人の弟子もそうです。けれども、同じ出来事であっても、見る人によって話が全く違ってくるのです。視点が違うからです。


例えば、プロ野球が開幕しましたが、巨人・阪神戦で巨人が勝ったとします。その試合を見た人はたくさんいます。巨人が勝った巨人・阪神戦、同じ試合(出来事)を見ていても、巨人ファンであれば、"やったー!ばんざい!"と祝杯を挙げるでしょう。そして、誰かに巨人が勝った喜びをポジティブに話すかも知れません。けれども、これが阪神ファンの人だったらどうでしょう(ちなみに私はアンチ巨人ですが)。"やられたー、こんちくしょう!"と悔しがり、街角のゴミ箱でも蹴飛ばしながら家に帰るかも知れません。そして、あの場面でああしておけば良かったのだといった、分析と反省のような話になるかも知れません。


同じ出来事でも、見る人が違えば、見る視点が違えば、ずいぶん違う、全く違う話になってくるのです。クレオパともう一人の弟子が語った話もそうでした。十字架の金曜日から始まった三日間は、主イエスにかかると、全く違った話になってくるのです。



二人の弟子の語る話を聞き終わった後で、主イエスは大きなため息をつかれたことでしょう。「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてが信じられない者たち」(25節)よ……と。そして、改めて主イエスは、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」(27節)、つまり聖書の視点から、神の視点から、この三日間の出来事を、十字架の出来事をお語りになったのです。すると、クレオパともう一人の弟子に言わせると、"もう終わりだ"という、非常にネガティブな話が、主イエスにかかると、「苦しみを受けて、栄光に入る」(26節)という、希望に満ちた、慰めと励ましのあるポジティブな話に変わったのです。


主イエスが聖書全体にわたってお話になったことは、神さまの救いの歴史、救いのご計画でした。神さまがお造りになったこの世界で、神さまに背を向ける罪を犯したために祝福を受けられなくなった人間を救うために、神さまがアブラハムを選び、モーセを遣わし、預言者たちを送り、そして最後にご自分の独り子イエス・キリストをこの世にお与えになった。そのキリストは人間を救おうと望んでおられる神の愛を伝え、特に疎外されていた人々を愛して歩んだ。そして、最後に十字架に架けられたけれども、それは敗北とか挫折とか無駄死にとか絶望ということではなくて、それは(旧約)聖書に預言されていたように人間の罪を背負って死ぬという神の愛の究極の姿なのだ。だから、十字架は神の愛の輝きに、神さまが人を救う栄光に満ち溢れているのだ……。主イエスはきっと、そのようにお語りになったに違いありません。

そしてその時、二人の心は、絶望から希望へと燃え始めたのです。自分の視点、人間的な視点で見て、"もう終わりだ"と、望みを失い、意味を失った人生の物語が、神さまの視点、信仰的な視点で見たときに、神様の救いのご計画の中に組み入れられているものとして見えたのです。「苦しみを受けて、栄光に入る」希望の物語として息を吹き返したのです。



月刊誌『信徒の友』4月号に〈死生学を通して復活の希望を考える〉という対談が載っていました。その中で、精神科医の平山正実氏が、家族の死別という出来事が、それを味わった遺族の内で、絶望の話から受容できる物語へと変わっていくには、どんなことが大切かということを語っておられます。


そうするためには、ではどうすればいいか。つきつめると、死んだ人のメッセージを自分のものとして受け取り、それをこの世の人々のために生かすということだと思うのです。……ある学生は、介護していた人が闘病の後に亡くなるという体験をしました。その結果、彼はやがて介護士になりました。また、ある学校の先生は、配偶者を亡くしたことによって、生涯教育の中において、「生と死」の問題の語り部となりました。また、非常に熱心なクリスチャンであった連れ合いを亡くした方が、神学校へ行くようになりました。


その人は死んだけれど、その人の生きざま、死にざまが周囲の人に「受肉」する、あるいは残された者の「宝物」として再生したわけです。残された者の中に再生して生きているのです。そうすると、(愛する者との死別によって)分断されたストーリーがつながるわけですね。もう1回ストーリーができあがるのです。‥‥


その話を受けて、対談の相手である日本聖書神学校講師であり、牧師である高橋克樹氏は、苦しみや悲しみによって"もう終わりだ"と分断された人生の物語を、神さまの「大きな物語」につなげることが、つなげることで意味と希望を見出すことが大切だと語っています。


人間はみんな現実の生活の中で不安を抱え苦しんでいます。あるいは切れた物語をつなぐことができなくて悲しんでいます。……教会のすべきことは、そこに、神さまの「大きな物語」をきちんと示すことではないでしょうか。聖書にはその力があると思います。……


私はふと、生まれながら目の見えない人の目を主イエスが癒された聖書箇所を思いこします。この人が目が見えないのは、本人か親が罪を犯したためだ、罪の結果だとネガティブに捉えられていたことを、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)と、神の視点で捉え直されたのです。


苦しみ、悲しみ、絶望。普通に考えたら、そういうふうにしか捉えられない出来事を、神さまの「大きな物語」すなわち神さまの救いのご計画の中で捉え直す。この出来事を通してさえも、神さまは私を愛し、救おうとしておられるのだと信じて、捉え直してみる。簡単にできることではありません。時間がかかります。行きつ戻りつするでしょう。けれども、苦しみ、悲しみ、絶望として、自分の人生の物語から一度は分断された出来事が、信仰の視点で捉え直される時、それは意味のある、希望のある物語として、もう一度自分の人生の中につながれるのです。受け入れられるのです。終わりではない、絶望ではない、と。そして、それこそが"復活"なのだと受け取っても良いでしょう。


復活とは、一緒に人生を歩いてくださるイエスが、イエスだと分かることです。主イエスが自分と共にいてくださるのだと信仰によって気づくことです。それは、私たちを救おうとする神さまの愛を信じて、苦しみ、悲しみ、絶望の出来事が、それだけではなく、私の人生を生かすことのできる意味のある、希望のある出来事であると分かる、ということなのです。希望を取り戻して心が燃える、ということなのです。



主イエスの御言葉に心を燃やされた二人は、主イエスに一緒に宿に泊まるよう求めました。その請いを受けて、主イエスは一緒に家にお入りになりました。そして、主イエスがパンを裂かれた時に初めて、それが主イエスだと分かったのです。その途端に、主イエスの姿は見えなくなったと言います。不思議なことです。けれども、一つ言えることは、彼らの心の内に主イエスが宿られたということです。彼らの内で復活し、再生し、彼らの苦しみに、心が燃える希望をお与えくださったということです。


宿でのパン裂きは、主イエスの十字架の愛を表す聖餐式の象徴です。また、主イエスが「聖書全体にわたって」お語りになったことは、説教を指し示しています。


説教と聖餐、その二つを中心とする礼拝を通して、私たちは今、復活した主イエスと出会います。信仰による視点を与えられ、私たちの人生の苦しみの出来事人生から分断された物語が、意味と希望を与えられ、復活します。


私たちの礼拝が、私たちを復活させる希望の礼拝となることを心から祈ります。


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