坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年4月22日 主日礼拝「信仰の種がまかれると」

聖書 マルコによる福音書4章26〜34節
説教者 山岡創牧師

◆「成長する種」のたとえ
4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
◆「からし種」のたとえ
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
◆たとえを用いて語る
4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。



      「信仰の種がまかれると」
そろそろ夏野菜の苗を植えつける時期になってきました。ホームセンター等に行けば、屋外のコーナーには様々な夏野菜の苗が所狭しと並んでいます。


私も家庭菜園を趣味とする人間です。ここ6年ぐらい、夏野菜を育てる楽しみを味わってきました。この新会堂には、ちょうど2年前に移転しましたが、それまでは住んでいたアパートの隣の土地に3坪ほどの場所を借りて、きゅうりやナスやミニトマト等を育てました。我が家で食べる夏野菜はそれで間に合うぐらい、よく実が取れました。


こちらに引っ越してからは、近くになかなか借りれそうな土地がなく、駐車場の奥の端っこで、細々とやっています。それでも、やっぱり実が取れると嬉しいですね。


そのためには、植え付けの前に土を耕し、植えた後で水をやり、雑草を抜き、肥料をやり、と努力をします。その努力を野菜の方も知っている。愛情をかけると、その分応えてくれるような気がします。手を抜くと、それなりのものにしかならない。


けれども、手をかけていても、思ったようにできない場合もあります。昨年のナスがそうでした。病気と虫にやられて、あまり収穫がなかった。まだまだ未熟と言われれば、そうなのですが、思うようにいかないところが、野菜を育てる難しさだな、と感じます。詰まるところ、私の力ではなくて、やはり土と太陽の力、自然の力なんですね。



今日の聖書の箇所でも、「神の国」(26節)のたとえとして、主イエスも次のように語っておられます。

人が土に種をまいて、夜昼、寝起きしているうちに、種が芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(26〜28節)


主イエスの時代のパレスチナの農業は、今よりもっと自然任せでした。土作りをするわけではない、休ませていた土地に種をまき、表面をすき返す。特に水をやるわけでもない。パレスチナでは雨季と乾季がはっきりしていますから、雨季に合わせて種まきをし、後は自然の雨に任せるのです。


そういう意味では、当時の人々は、私たち以上に、「土はひとりでに実を結ばせる」という言葉がよく分かったのではないでしょうか。こちらが努力しても、どうにもならない面がある。土がひとりでに種を成長させ、実を結ばせる。実を結ぶ種もあれば、結ばない種もある。土に任せる、自然に委ねる以外にないのです。


ところで、この話は農業そのものの話ではなく、「神の国」を農業に譬えたものです。


「神の国」と言われると、なかなかイメージが湧かない。ピンッと来ないかも知れません。もちろん、それは日本とかアメリカとか、目に見える国ではなく、目に見えないものです。国と言うよりも"関係"と考えた方が分かりやすい。神さまと"私(自分)"との関係です。神さまに生かされ、愛され、受け入れられていることを知り、こちらも神さまを愛し、応えて生きていく関係です。ですから、それは私たちの胸の内に育まれる"信仰"と言い換えることができる。"信仰"と言われれば、私たちもイメージしやすいでしょう。


その信仰の元になるもの、信仰の「種」が私たちの胸の内にまかれます。それは、神さまが私たちを生かし、愛し、受け入れてくださるという福音です。神の御言葉です。福音、御言葉が私たちに語られる。私たちの内にまかれる。けれども、それを成長させるのは私たち自身ではなく、神さまなのです。「土はひとりでに」という言葉は、信仰は私たちが成長させるものではなく、神さまが育むものだということを示しているのです。


確かに、私たちは熱心に信仰生活をする時があります。礼拝を欠かさず守ります。祈り会にも出席します。教会で奉仕もします。日常生活の中で自ら聖書を読み、お祈りもします。それは言わば、水をやり、肥料をやり、雑草を抜くような作業でありましょう。    


もちろん、そのように信仰生活をすることは信仰が成長するために大切なことに違いありません。けれども、だからと言って自分が信仰を成長させたと考えるのは、おこがましいのではないでしょうか。神さまに"成長させていただいている"という感謝がなくなったら、信仰は信仰でなくなります。


それに、熱心に信仰生活をしていても、御言葉が胸に通らない、心にとどかない場合もあります。何かにつまずいて教会を離れてしまうこともあります。信仰が成長するというのは、私たち人間の力ではないのです。


しかし、逆に言えば、信仰が成長しているとは思えないようなところで、見えないところで、神さまは信仰の種を育んでくださっておられるのです。


先日の復活祭イースターに3名の方が洗礼をお受けになりました。お名前を挙げて恐縮ですが、O兄は、生まれ育ったご家庭がクリスチャン・ホームで、小学生の頃まで教会学校に通っていたと言います。信仰の種がまかれていたのです。けれども、その後教会を離れ、以来50年振りに教会を訪れ、洗礼をお受けになった。では、その50年間、小笠原さんの中で信仰は成長していなかったのだろうか。私はそうではないと思うのです。教会から離れている時にも、種は静かに寝かされ、発酵し、やがて芽吹く時を待っていたのでしょう。神さまがそのように成長させてくださっていたのです。教会というところには、そういう方が少なからずおられます。傍でその人を見守っている人間は、この人、なかなか求道心を持とうとしない、信仰が芽吹かない、成長しない、と焦るのですが、そういう時にも「土はひとりでに」、つまり神さまは成長させてくださっていると信じて待ち、祈り続けるのが、周りで見守る者にとってふさわしい信仰的な態度でもありましょう。


T.M.姉はお連れ合いのA.M.兄と義理のお母様がクリスチャンでした。けれども、自分が洗礼を受けることはないだろうと思っていた、と証しの時にお話くださいました。ところが、神さまの御言葉に触発され、誰に強制されたのでもなく、洗礼を受けたいと願うようになっていったと言います。いつの間にか、神さまがそのように導き、育ててくださっていたということでしょう。


T姉さんも、たまたま興味を持ってのぞいてみた千葉県の方の教会で、不思議な出会いがあった。そこで出会った友人とのつながりで、キリスト教精神で運営されているケアハウス主の園にお入りになり、毎日の礼拝を通して御言葉を聞き続けた。そして、ご肉親が亡くなられたことをきっかけに、もう頼るものは神さまだけと洗礼をお受けになった。やはり神さまが成長させ、導いてくださっていたのでしょう。


人の例を挙げるまでもなく、私自身、自分のことを振り返れば、神さまが成長させてくださっているとしか思えないのです。牧師の家庭に生まれ育った。高校受験の苦しみと成功をきっかけに洗礼を受けた。ところが、1ヶ月が経つか経たないかのうちに、洗礼を受けたことを"しまった!"と後悔するような、とんでもない信仰でした。信仰がまだまだ自分中心だったのです。自分の都合で洗礼を受け、自分の都合で後悔していたのです。その後、教会学校の奉仕をするようになって、子供たちに信仰を教える立場にあるからには、自分の信仰がしっかりしていなければいかんと思い、自分自身の信仰生活を熱心にするようになりました。けれども、その頃の私の信仰は、神さまの戒めを守ることが信仰だ、神さまの命じられることに従い、守り行うことで、神さまは自分を認めてくださるのだという信仰(?)でした。つまり、神さまの救いを信じると言いながら、自分の力で何かができて、結果を残すこと。そういう自分を神さまが認めてくださると思っていたのです。ですから、大学受験に2年続けて失敗し、目標も定まらず、うだうだ生きているような自分のことを、神さまもお見捨てになると絶望していました。けれども、その挫折と絶望の中で、神さまは、そのような人間をこそ愛してくださる、受け入れてくださることを知りました。神の愛を知りました。それがきっかけとなって献身を決意し、牧師になりました。牧師になってからも失敗がありました。人を愛さずに裁いていることが、人を受け入れず傷つけていることが、少なからずありました。本当に申し訳ないことですが、白紙に戻すことはできません。しかし、その度に神さまの赦しを味わいました。愛するとはどういうことか、教会を形作るとはどのようなことかを考えさせられてきました。

様々な出来事、経験を通して、神さまは私の信仰を成長させてくださったことを振り返って思います。もちろん、これからも神さまに成長させられる日々でありましょう。



神さまが信仰を成長させてくださるということで、御言葉からもう一つ示されることは、「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」と語られているように、信仰の成長にも段階があるということです。今お話した私自身の信仰成長を考えてもそうですが、いきなり成熟、円熟の域には達しません。最初はだれもが初歩からです。最初は頭で理解することしかできなかったことが、次第にハートで分かるように、恵みが実感として分かるようになってきます。最初は何のことやら理解できなかった聖書の言葉が、10年、20年後にはその味が分かるようになってきますし、また人生の時を経れば、同じ御言葉でも味わいが深く、まろやかになってきたりします。


だから、早合点をしないこと、焦らないこと、こんなものかと失望しないこと、分からないことは、いつか分かるときが来るまで、自分の心の引き出しにしまって寝かせておく、ぐらいの気持が大切だと思います。夜昼寝起きしているうちに、神さまが成長させてくださる、その神さまにお委ねする"気長さ"が必要です。信仰の成長に大切なのは、自分の熱心さ以上に、この気長さ、息の長さなのかも知れません。



もう一つの〈からし種のたとえ〉に聞いてみましょう。

土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。(31〜32節)

からし種は1ミリほどの、ゴマ粒のような、小さな種です。それが、成長すると高さ1.5m、大きなものでは3m以上にも成長するのだそうです。鳥が木に巣を作るというのは分かりますが、野菜に作るというのはめずらしいですね。でも、もっとも小さな野菜の種が、それほどに成長するということです。


御言葉という信仰の種も、からし種のように小さなもの、その人の内で、あるかなきか、あまり重要なものとして意識されない、2の次、3の次のようなものかも知れません。それよりも、仕事や子育て、勉強やクラブ活動、趣味やレジャーといったことの方が大きかったりします。けれども、一旦信仰の種が芽を出し、成長すると、自分の人生の土台となるほどに大きなものとなるのです。


自分にとって大きなものとなるだけではありません。「葉の陰に鳥が巣を作る」とありますが、「鳥」を家族や周りの人々と考えてみると、信仰を持った自分との関わりが、その人に大きな影響を及ぼすということではないでしょうか。信仰を持って、苦しみや悲しみがあっても、神さまにすがって、委ねて、感謝し、平安に、謙虚に生きている私たちの姿を人が見て、感じるところがあって、自分も信仰を得たいと思うようになるかも知れません。そうでなくとも、信仰によって私たちの胸に隣人を愛する愛が成長するとき、私たちは自己中心であった自分が家族を愛そう、周りの人を愛そうという思いに変えられていく。すると、その人にも神の愛が本当に小さな種ですが、とどいているかも知れない。


そのようにして、信仰、神さまとの関わり、神の国は、私たち自身の胸の内から外へ、家族や周りの人々との関係へと広がっていくのです。からし種のように、大きな信仰のつながり、愛の関わりへと成長していくのです。


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