坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年5月6日 主日礼拝「信仰による"凪"」

聖書 マルコによる福音書4章35〜41節
説教者 山岡創牧師

◆突風を静める
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った


       「信仰による"凪"」
「向こう岸に渡ろう」(35節)。主イエスは弟子たちに、そう言われました。何気ない言葉のように感じます。


けれども、「向こう岸に渡ろう」という言葉に、ハッとさせられるものがあります。と言うのは、"人生の向こう岸"に渡るということは決して容易なことではないからです。私たちは、勇気がないために、あるいは安閑として現状にとどまりがちではないでしょうか。1歩踏み出さなければ、漕ぎ出さなければ……と思いつつ、なかなかそれができずに、こちら側の岸に留まってしまうのです。あるいは、漕ぎ出してみても、途中で困難な嵐に遭ったり、向こう岸がどこにあるのか見えなかったりします。そのような私たちに、"人生の向こう岸へ渡ろう。私があなたの舟に一緒に乗るから"と、主イエスが励ましてくださっている言葉のように聞こえて来るのです。



「向こう岸に渡ろう」。主イエスは弟子たちに言われました。今まで、湖のほとりに集まって来た群衆に、主イエスは舟の上から教えておられたのです。だから、何か思うところがあって、そのまま舟を出させたとしても不思議ではありません。主イエスは、癒しを求めて群がり寄って来る群衆から一時離れようと考えたのかも知れませんし、あるいは湖の向こう岸の人々にも福音を宣べ伝えようと思い立たれたのかも知れません。


けれども、渡っている途中で突風が起こりました。ガリラヤ湖は地形上、そのような突風が起こることがしばしばあったようです。舟が波をかぶって水浸しになるほどの激しい突風でした。弟子たちは慌てふためいたでありましょう。


今日の物語は決してフィクションではないと思います。実際、弟子たちが主イエスと共に舟を漕いでいて、途中で突風に遭ったという経験をしたに違いありません。それがこの物語の原体験なのですが、けれども、福音書を書いたマルコは、ただ単にそういう出来事があったということを伝えようとしたわけではないでしょう。マルコは、湖の上で嵐に遭うという出来事を、私たちの人生に、私たちの信仰生活に譬えて、そこから何か大切なことを伝えようとしているに違いないのです。


私たちの人生は、湖の上を舟で渡る船旅にも譬えられるものです。そして、その船旅はいつも晴れていて、順風満帆というわけではなく、思いがけない突風に出くわすことがあるのです。仕事上のトラブルや家族の問題、人間関係の悩み、そういった逆風のために前に進めず、押し戻され、沈みそうになる経験をするのです。



突然の突風に、弟子たちは慌てふためき、右往左往していました。けれども、そのような風と波に揺られる舟の上で、主イエスは、と見れば、何と船尾の方で平気で眠っておられたと言うのです。まるで"どこ吹く風?"といった感じで、ご自分には無関係であるかのように眠っておられたのです。弟子たちにしてみれば、"何と薄情な!" "自分たちのことを見捨てるつもりか!"と感じたことでしょう。


主イエスとは実際、そのように薄情な方なのでしょうか?。そうではありません。これは、私たちが人生の困難や悩みに遭う時、まるで神さまが私たちを救うために何もしてくださっていないかのように感じてしまう私たちの気持が映し出されているのではないかと思うのです。


悩みや困難に出会ったとき、私たちは助けを求めて神さまに祈ることがあるでしょう。その祈りが聞き届けられたかのように、悩みが取り除かれ、困難が解決する場合もあるでしょう。けれども、そんなふうにうまく行くとばかりは限りません。むしろ、そう簡単には問題は解決せず、悩みが取り除かれないことがしばしばあります。いや、事態がますます悪化することだってあります。


そんな時、私たちはともすれば、"神さまを信じているのに、こんなに祈っているのに、どうして神さまは助けてくださらないのか。神さまは私のことなんてどうだっていいのだ"と感じてしまいます。苦しみ悩みの時に、神さまは何もしてくださらない、沈黙しているんだ、眠っているんだと、つい感じてしまう。そういう私たちの側の気持が、主イエスが嵐の舟の上で眠っているという描写で描かれているのではないでしょうか。



嵐の舟の上で眠っている主イエスの姿を見つけた弟子たちは、主イエスに訴えます。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38節)


おぼれてもかまわないわけがないのです。落ち着いて考えれば、そんなことはすぐに分かることです。けれども、弟子たちのこの言葉は、私たちも陥りやすい人生態度を示しているように感じます。


弟子たちが主イエスにイライラする気持が分からないではありません。けれども、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言い草には、"私たちがおぼれたら、先生、あなたのせいですよ"という責任転嫁のニュアンスが感じられるのです。


舟は一体、誰の舟でしょうか?。主イエスの舟でしょうか?。そうではありません。弟子たち自身の舟です。自分の舟、自分の人生です。自分の人生なのですから、自分で引き受けて、自分が責任を持って担って行く以外にありません。"私"の人生は"私"以外の誰も、代わりに生きることはできないのです。


それなのに弟子たちは、自分の人生を自分で引き受けて、向かい合おうとせず、主イエスのせいだと、その責任を転嫁しているように、主イエスに当たっているように思われるのです。


私たちにもありがちではないでしょうか。人生の困難な問題に、自分が苦しみ悩んでいる。不安を感じている。必死になっている。そういう時、すぐ隣に、まるで何の悩みも問題もないかのように平気な顔で生きている人を見ると、つい腹が立ってくるのです。当たりたくなるのです。文句の一つも言いたくなるのです。この人が悪い、あいつのせいだ、社会のせいだと、つい自分の人生の責任を他へ転嫁して、自分の問題として引き受けて生きることから逃げたくなってしまうのです。


無理もないと思います。私たちの人生は決して軽くはありません。けれども、自分の人生と向かい合うことを避け、担って行こうとしなければ、何も始まらない、何も変わりません。人のせいにし、自分で負おうとせず、逃げれば逃げるほど、私たちの人生は重くのしかかってくるのではないでしょうか。


勇気のいることです。忍耐を要することです。大変なことです。けれども、自分の人生を真正面から見つめ、逃げずに引き受けて生きていく時、人生の「向こう岸」へ渡る道が開けてくると思うのです。


そういう意味で、主イエスを信じる、神を信じる、とはどういうことでしょうか。それは、超自然的な奇跡を信じたり、悩みや困難が神の力によって目に見える形で解決されると信じると言うよりは、主イエスが嵐に遭う弟子たちの舟の中に共にいてくださったように、私たちの人生という舟の中にも神さまが共にいてくださることを心の支えとして、自分の人生と向かい合い、逃げずに引き受けていく心を持つこと、そのように生きていけるよう、弱い私を助けてくださいと祈りながら生きること。それが、信じるということではないでしょうか。



ある若い女性が家族との関係に苦しんでいました。感情の起伏の激しい父親に苦しめられ、心に傷を負い、自分の怒りの感情をコントロールできず物に当り散らしていました。洗礼を受けても、すぐに事態が好転したわけではなく、彼女はそんな自分を恥じていました。しかし、彼女は聖書を読み、祈り、親の目ではなく、神さまが自分をどのように見ているかを第一に考えることにしました。すると、しばらくして、自分の悪癖一つさえ変えることができない自分でも、神さまは全く変わらずに見捨てず、愛してくださることに気づきました。すると徐々に、悩んでいた癖をやめられるようになったと言います。今も父親の状態は変わりませんが、勇気を持って自分から父親に心を開くようになり、彼女の変化によって母親との関係が良くなってきました。今、彼女は、悩みを抱えた友人たちのよき相談相手となり、神さまからの豊かな賜物を生かして生き生きと基督の恵みを伝えている……そんな話を最近読みました。(こころの友5月号より)


この女性もまた、人生の突風、嵐に遭っていました。そんな中で、神さまが自分の人生と共にいてくださることを信じて歩み始めた。そして、どんな時でも神さまが自分を愛してくださることに、聖書を通し、祈りを通して気づいたのです。その安心、その喜びが、彼女を自分の人生、自分の現実に立ち向かわせる支えになったのだと思います。彼女の家族関係が全く良くなったわけではありません。長い時間が必要でしょう。否、父親との関係が良くなることはないかも知れません。けれども、彼女は神さまを信じて、自分の人生に向かい合っているのです。


その時、彼女の人生は、風はやみ、波は静まり、「凪」(39節)になっていたのです。人生の表面は、風が吹き、波が逆巻いているかも知れません。けれども、彼女の内面は共にいてくださる神の愛によって凪いでいたのです。平安になったのです。


私たちも、嵐の海で、それでも舟を漕ぎ進めなければならないことがあります。神さまを信じて、自分の人生を引き受けていくところに、信仰による凪ぎが生まれます。

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