坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年5月13日 主日礼拝「自分の家に帰りなさい」

聖書 マルコによる福音書5章1〜20節
説教者 山岡創牧師

◆悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす
5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
5:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
5:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
5:6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
5:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
5:12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
5:13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
5:14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
5:15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
5:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
5:20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。



       「自分の家に帰りなさい」
主イエスと弟子たちがガリラヤ湖の南東側にあるゲラサ人の地方に着いた時、真っ先にやって来たのは「汚れた霊に取りつかれた人」(2節)でした。


「汚れた霊」、16節以下では「悪霊」と言い換えられています。「汚れた霊」「悪霊」、そんなものが本当に存在するのか?、少なくとも現代においては、そんなものは存在しない、存在するとは信じられない……私たちはそう考えて、聖書の話と自分たちの現実との間に大きな隔たりを感じてしまうかも知れません。


けれども、「汚れた霊」「悪霊」という言葉に隔たりを感じる前に、その「汚れた霊」「悪霊」に取りつかれているという人の状態に注目してみてください。


まず、この人は「墓場を住まいとして」(3節)いた、と記されています。つまり、町なかで人と一緒に暮らすことができなかったのです。いわゆる一般的な社会生活ができなくなっている、あるいは社会から隔離されている状況です。


なぜ彼は社会生活ができなかったのでしょう?。5節に、「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」と言います。所かまわず大声で叫び、また自分を傷つける自傷行為をしていたのです。


だから、周りの人々は、そんなふうに所かまわずに大声で叫び、暴れられては困るので、あるいは自傷行為をするその人の体と命を守るために、足枷や鎖で縛ったのでありましょう。


今日においても、そういう人が身内の中に出ると、一昔前は"座敷牢"のようなところに閉じ込めて、周りに迷惑をかけないように、他人に見られないようにすることもあったようです。また、病院でも場合によってはそのような人を拘束することがあると聞いています。


けれども、この人は恐ろしいほどの力で鎖を引きちぎり、足枷を砕き、誰にも拘束されない墓場に行き、叫び続け、自分を傷つけていたのです。


現代で言えば、心の病であるとか、精神の障がいと見なされる状態でありましょう。現代では、その原因は脳の欠損であるとか、脳内のホルモン分泌がアンバランスになっているためであるとか考えられます。けれども、今から2千年も昔の時代には、どうしてそのような行動をするのか、訳が分からないのです。そこで、当時の人々は訳の分からない人間の現象を何とか理由付け、納得するために、「汚れた霊」「悪霊」の仕業であると考えたのです。当時の人々とて、「汚れた霊」「悪霊」を見たわけではありませんし、その存在を実証できたわけでもありません。ただ、人間の理解不能な、異常な行動を目の当たりにして、その原因・理由を、そのように考えたのです。


だから、今日の聖書の話は、私たちの現実と隔たっているどころか、「汚れた霊」「悪霊」という表現に囚われなければ、私たちの現実にも極めて通じている物語なのです。


現代にも、昼夜分かたず叫び続けるような人の状況、自傷行為をしてしまうような人の現実があります。そのために苦しみ悲しんでいる人が少なからずおられますし、またその人の周りで悩み苦しんでいる身内の人々が数多くおられます。時には絶望しそうになり、放り出してしまいたくなることもあるでしょう。あるいは、そこまででなくとも何らかの理由で社会生活ができない状況に追い込まれることだってあります。そのような現代の私たちの苦しみに、主イエスが関わってくださる、神さまの救いがとどいて来る、慰めに心が満たされる、今日の聖書箇所はそういう物語なのです。

汚れた霊に取りつかれた人は、主イエスを見るなり、大声で叫びました。

「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」(7節)

「かまわないでくれ」という言葉は元々、"あなたと私には何の関係もない"という意味の言葉です。私はこの言葉に、人との関係の断絶という苦しみを見ます。


昼夜を分かたず叫び続けたり、自傷行為をしてしまうような人は、自分に自信が持てなかったり、自分を見る人の目を気にしたりすることもあって、人との関係をうまく持つことができないことに非常に苦しむのではないでしょうか。そして、周りの人々も、そういう人やその家族と関わるのは不快だ、面倒だ、と感じて、離れていってしまうことも少なからずあるでしょう。そうなると、その人とその家族とは、社会の中で、周りの人との関係が断たれ、深い孤独の苦しみに陥るのではないかと思います。


汚れた霊が「かまわないでくれ」と言ったのは、表面的には、主イエスに自分たちをこの人から出て行かせるな、という意味でしょうが、その一言は、そのような人が社会の中で周りの人々との関係を断たれ、孤独に陥っていく、大きな苦しみを暗示しているように、私には思われます。



けれども、主イエスはひるみません。主イエスは、汚れた霊に取りつかれた人に対して、「名は何というのか」(9節)とお尋ねになったのです。


私たちもそうですが、相手に名前を尋ねるということは、"これからあなたとの関係を始めますよ"という意思の現れです。ですから、ここで主イエスは、この汚れた霊に取りつかれた人に関わろう、関係を持とうと考えておられるということです。


面倒だから、不快だからと周りの人々が関係を断っていくその中で、主イエスは、この人に自ら関わろうとされるのです。しかも、名前を尋ね、名前を呼んで関わろうとされています。


"名は体を表す"という格言がありますけれども、名前を尋ね、名前を呼んで関わるということは、その人と全人格的に関わるということを象徴しています。簡単に言えば、その人を"一人の人間"として認める、ということです。その人の一部だけを見て、これができないから、ここがおかしいから、そこが気に入らないからと言って否定するのではなく、その人を全体的に見て、良いところを探す努力をしながら、その人を受け入れていく。究極的には、その人がどんな人であっても、拒絶することなく、一人の人間として認め、関わっていくということでありましょう。


主イエスは、社会がその人を否定し、周りの人々が拒絶する中で、その人を認め、受け入れ、関わろうとなさるのです。そして、主イエスとの人格的なつながりによって、孤独は癒され、人と親しく関わる喜びがよみがえってきます。



ところで、主イエスによる救い、信仰による救いとは何でしょうか。今日の物語によれば、この後、レギオンと名乗った「汚れた霊」の大群が豚の中に追い出され、すると取りつかれた豚の群れが狂ってしまい、湖になだれ込んで死んでしまったが、その人は「正気」(15節)になった、と記されています。もはや昼夜を分かたず叫び続けたり、自傷行為をしたりしなくなったのです。それが、主イエスによる救いとして描かれているのですが、それでは、現代人である私たちが主イエスによって救われるとは、どういうことでしょうか。

正気ではない状態が、心の病や精神の障がいであるとして、例えば心の病が主イエスの恵みの御言葉を信じることによって癒される場合もないわけではありません。けれども、信仰を持ったからと言って、心の病や精神の障がいが必ず癒されたり、回復したりするわけではありません。むしろ、そうはいかない場合の方が圧倒的に多いと思います。


それでは、現代に主イエスによる救い、癒しはないのでしょうか。そうではありません。私は、主イエスが、この"私"の名を尋ね、名を呼んで、全人格的に関わってくださるところに、人間として認められる喜びが、また孤独の癒しがあると思います。つまり、社会に否定され、周りの人から拒絶され、孤立しているような自分を、主イエスを通して、神さまは見捨てず、一人の人間として認めてくださっていると信じるところに、喜びと孤独の癒しが生まれてきます。自分は、ここで、こうして、このままで生きていて良かったのだ、という喜びを、そして相手が自分をそのように認めて、関わってくださる孤独の癒しを、信仰によって実感することができるようになるのです。


病や障がいが回復するに越したことはありません。けれども、現代においては、自分が"一人の人間"として認められ、自分でも自分を受け入れられるようになること、そして社会や周りの人々との関係を断たれた孤独が癒されるということは、とても大切な人間の救い、人間の癒しであると、私は思うのです。



そのように考えてみると、そのような人々への教会の関わり方、私たち一人一人の関わり方も見えてきます。私たちは、心の病を癒したり、精神の障がいを回復させたりすることは、なかなかできません。けれども、相手と関わりを持つことはできる。人と人として関係を持つことはできる。その人を、一人の人間として全人格的に認め、ありのままに受け入れて、関わることができます。主イエスの救いの業に、私たちも参加し、貢献することができます。否、そうすることを通して、自分自身の痛んだ心を癒されることがある、自分自身が「正気」にされることもあるのではないでしょうか。


ゲラサの人々は、湖で溺れ死んでいる豚を見、悪霊に撮りつかれていた人が正気になり、服を着て座っているのを見て、驚き恐れて、主イエスに、この地方から出て行ってもらいたいと言い出しました。ある意味で無理もないことと思います。しかし、自分たちの地方から主イエスを追い出すという表面的な行為は、自分たちの生活の中から、主イエスのように、愛を持って人と関わるという生き方を除外するということを象徴してはいないでしょうか。たとえ不快な相手でも、不都合な相手でも、面倒な相手でも、その人と関わっていくことが、人としてふさわしいことがある。大切な場合もあるのです。


私たちは、面倒なこと、不快なことには、なるべく関わりたくないという気持があります。それは人の心としては自然なことかも知れません。けれども、それは必ずしも「正気」とは言えないのではないでしょうか。どこかに、自分が損をせず得するようにという自分中心な計算がある。そのような自分中心の欲望や計算の醜さ、愛のなさに気づかされて初めて、私たちは「正気」であると言うことができると思うのです。


主イエスは、ゲラサ地方から出て行くことになりました。悪霊を追い出され、正気にされた人は、主イエスと一緒に行きたいと願いました。しかし、主はこう言われました。

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(19節)。


主イエスはなぜ、この人のお供を許さなかったのでしょうか。それは、ご自分を追い出すようなこの地方に、自分の生活の中から愛を持って人と関わることを排除するような人々の中に、なおこの人を残していくことで、ご自分が表した神の愛を残していきたかったからではないでしょうか。その人の姿を見て、愛を持って人と関わることの大切な意味を、人々に忘れてほしくなかったからではないでしょうか。


現代において、様々な局面で、忙しい生活を送っていると、ついつい私たちは心の余裕を失いがちです。そうすると、面倒なこと、不都合なことには、なるべく関わらないようにと考えます。けれども、その面倒、不都合が、隣人を愛する業であるならば、この世に愛の花を咲かせていく働きとして、今日の御言葉を思い起こし、自分のできる範囲で少しでも担わせていただきましょう。愛とは、無関心、無関係にならないことです。


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