坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年6月3日 主日礼拝 「この方の服に触れれば」

聖書 マルコによる福音書5章24〜34節
説教者 山岡創牧師

5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」


      「この方の服に触れれば」
今日の聖書箇所に記されている主イエスの癒し物語を読みながら、やはり思うことは、どうして主イエスはご自分の服に触れた者を捜したのか、ということです。ご自分から神の癒しの力が出て行って、誰かが癒されたのです。誰かは分からないけれど、誰かが癒されて、きっと喜んでいるのだから、それでいいではないか……というだけでは、主イエスは終われなかったようです。弟子たちが、捜すのは無理です、となだめても、主イエスは懸命にご自分の服に触れた者を捜されました。


どうしてそうまでして服に触れた者を捜されたのでしょう?。お礼も言わずに立ち去ったその人に感謝してほしかったからでしょうか。それとも、こっそりと主イエスの力だけを盗んで利用するかのようなやり方が許せなかったのでしょうか。そうではありません。

あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。(34節)


と彼女に告げるためでした。

この女性も、どうしてまたそのようなやり方をしたのだろうかと思われます。群衆にまぎれて、隠れて触れるようなことをせず、多くの人々がそうしているように、主イエスの前に出て行って、自分の病気の事情を話して、癒しをお願いすれば良いのに、と思います。

ところが、彼女は堂々と主イエスの前に出て行くことができないのです。それは、彼女が患っている病にその理由があります。「十二年間も出血の止まらない女」(25節)と彼女の病が記されています。おそらくそれは、女性に特有の子宮出血が慢性化したものであると考えられます。ユダヤ人が奉じている律法の中で、旧約聖書・レビ記15章によれば女性の生理は汚れと見なされています。そしてそれが生理期間中以外の出血であっても、やはり汚れと見なされました。律法では、神さまは聖なる方であるから、神の民も汚れを取り除くこと、汚れを清めることが重視されます。また、自分が汚れている時は、社会にその汚れを持ち込んではならない。他人に汚れを伝染させてはならなかったのです。
だから、主イエスの周りに群衆が押し迫っている状況下では、彼女は主イエスの前に堂々と出て行くことはできなかったのです。自分の病と汚れが人々に知れれば、彼女はその場から追い立てられてしまうでしょう。下手をすれば群衆の怒りを買って袋叩きに遭うかも知れません。


それが、彼女が群衆にまぎれ、隠れて主イエスの服に触れた理由です。そうまでしても彼女は病気を癒されたかったのです。体から出血が止まらないということは、疲れやめまい、体から力が出ないという体調を慢性的に味わっていたということです。"やろう!" "がんばろう!"と思っても、体が言うことを聞かない、力が湧いてこないという現実は、どんなに歯がゆい、苦しいものだったでしょうか。そういう状態を12年間も味わい続けてきたのです。


しかも、医者がいると聞けば、治りたい一心で、どんなにお金が掛かっても飛んでいって見てもらったに違いない。けれども、一向に良くならず、かえって悪くなってしまった。その上、全財産をそのために使い果たしてしまったというのです。
加えて、宗教的に汚れと見なされ、社会から隔離され、人々から疎外されるという孤独の苦しみがあります。


そのように苦しみ悩む一人の女性が、主イエスの名前とその活動の噂を聞いたのです。主イエスによって多くの病人が癒されている、と。その噂を聞いた彼女が、これが最後の望みとばかりに、“溺れる者は藁をつかむ"かのような必死の思いで、何も言わず、汚れのことを隠し、周りの人々をたばかってでも、主イエスに近づこうとした。その気持は、私たちにもよく分かるでしょう。


「この方の服にでも触れればいやしていただける」(28節)。そんな必死の気持で彼女は主イエスに触れ、その願いの通りに彼女の病は癒されたのです。そこで、彼女は、周りの人々に事情がばれないように、静かに立ち去ろうとしたのです。ところが、主イエスが振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」(30節)と周りを見回し始められたのです。


どうして主イエスは、この癒しの出来事をそっとしておかず、だれが触れたかを懸命に捜されたのでしょうか?。それは、最初に申しましたように、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と彼女に告げるためでした。
もし、ここで主イエスが彼女を捜し当て、彼女にこの言葉を告げなかったとしたら、彼女は心ひそかに病が癒されたことを主イエスに感謝はしたでしょうが、自分の「信仰」(34節)には気づかずに終わったでしょう。そして、その信仰を通してこそ、神さまが彼女に働いて救ってくださったのだとは気づかずに終わったでしょう。つまり、もし主イエスが彼女に告げなかったら、彼女は病が癒されたという出来事を“信仰による救い"だとは気づかないままに、自覚しないままに終わったことでしょう。


主イエスにしてみれば、彼女に、この出来事が、ただ単に病の癒しということではな
く、“信仰による救い"なのだと気づいてほしいのです。信仰を通して神さまが働きかけて下さった出来事であると、もっと言えば、神さまがこの“私"と共にいてくださることが示された出来事であると分かってほしいのです。と言うのは、主イエスは彼女に、そして彼女と同じように信仰を持つ私たちに「安心」を与えたいためです。


「安心して行きなさい」。主イエスがくださる「安心」とは、どのような安心でしょうか?。普通、安心と言えば、心配や不安のない心境のことでありましょう。病が癒されている。問題が解決されている。苦しみが取り除かれている。だから、私たちは安心するのです。


けれども、私たちの人生は自分の思うままには行きません。どんなに祈り願っても、病は癒されない、問題は解決しないことが少なからず、しばしばあります。そのような時、私たちは心配します。不安になります。けれども、そのような不安・心配の、もう一歩先にある安心、もう一段深いところにある安心を、主イエスは彼女に、私たちに与えようとしておられるのです。それは、神さまが共にいてくださる故の安心です。


現実には、問題がある、苦しみ悲しみがある、病がある。けれども、それらを抱えながら生きている私たちと共に、神さまが共にいてくださる。病や問題や苦しみ悲しみを抱えてはいても、私たちの人生は、神さまの大きな、あたたかい手の中で、大事に包まれて、支えられてある。だから、“神さま、こんな私ですが、よろしくお願いします"と、すべて「ありのまま」(33節)を神さまに申し上げて、お委ねすればよい。そこに、普通の安心とは違う、“信仰による安心"が生まれてくるのです。この安心を得ているということこそが、救われているということなのです。
主イエスは、この“信仰による安心"を与えようとして、彼女を捜し、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と告げられたのでしょう。


(K.M姉が、4月のイースター明けから全く歩けなくなりました。それまでも1年ぐらい、足が前に出なくなった、出なくなったとおっしゃっておられましたが、原因は高齢による筋肉、骨の衰えだと、ずっと思われていました。ところが、原因は血流の問題だということが分かって、分かった時には、もう治らない、元には戻らないという状態でした。非常にショックであったろうと思います。日曜日の礼拝と夕礼拝、木曜日の祈祷会と欠かさずに出席していたK.M姉にとっては、来られなくなって本当にさびしいことだと思います。ご本人も、それが一番残念だとおっしゃっていました。
そんなK.M姉ですから、私はなるべく病床訪問を心がけています。そして、病床訪問のある時、K.M.姉は、こう言われました。“今回の出来事も、信仰があったからこそ、さほど驚かず、絶望せずに受け止めることができた。神さまが、もう頑張らなくていいよ、と言って下さっているのだ"と。もちろん、心配や不安が全くないわけでは決してないと思います。けれども、それらを超える落ち着きが、信仰による安心があるのです)
信仰による安心、主イエスは何よりこれを、私たちに与えたいと望んでおられます。


ところで、そのような安心が、それを通して与えられる信仰とは、一体どのようなものでしょうか。私たちは、さぞや立派な信仰だろう、立派な信仰でなければ安心は得られないと思われるかも知れません。


ところが、今日の聖書箇所に記されている内容を見る限り、彼女の信仰は立派と言えるかどうか、疑問を感じるのではないでしょうか。彼女の信仰は、素朴と言うか、単純と言うか、悪く言えば迷信的で、ご利益的です。それは、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しを信じ、悔い改めて、この主の恵みにお委ねして、何の功績もないままに救われる。そして、その恵みに感謝して、主に応えて生きると、私たちが普通教えられている信仰とは全く違います。


彼女の信仰は、ただ癒してほしいという一途な思いで、主イエスにすがりつくような、まさに"溺れる者は藁をもつかむ"ような思いです。ただ"神さま、助けてください"という一念があるだけです。


けれども、主イエスは、そんな思いは正しい信仰ではない、などとおっしゃらないのです。「あなたの信仰」と認めてくださるのです。
信仰とは何でしょうか。聖書を読んで、しっかりと勉強して、教理的に正しい信仰が、必ずしも「信仰」とは言えないような気がします。考えが足りず、欠けたところだらけでも、"神さま、助けてください"という真剣な、一途な思いこそ大切ではないでしょうか。
真剣な、一途な信仰こそ、神さまが共にいてくださる安心に通じるものではないでしょうか。


記事一覧   https://sakadoizumi.hatenablog.com/archive
日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P  http://sakadoizumi.holy.jp/