坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2011年7月24日 初雁教会講壇交換礼拝「良い物をくださる」

聖書 マタイによる福音書7章7〜12節
説教者 山岡創牧師     <初雁教会にて>

◆求めなさい
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

        「良い物をくださる」   
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7節)。
 ここに、神さまのすばらしい約束が示されています。求めれば与える、という神の約束です。主イエスが語られた山上の説教の中の一つの教えであり、当時の弟子たち、群衆に対してだけではなく、私たちに対する恵みの約束でもあります。

 ところで、私が牧会しております坂戸いずみ教会のすぐそばに、ヤオコーというスーパーがあります。先日、そのヤオコーで買い物をしておりましたら、小さな子どもが“買って、買って!”とせがむ声が聞こえて来ました。見ると、男の子が父親にせがんでいます。その声は、私が買い物をしている間中、響いていました。皆さんも時々見かける光景でありましょう。
 その父親がその後どうしたか、分かりません。けれども、私は今日の聖書の御(み)言葉、特に、この7節を黙想しながら、その時のことを思い出しまして、私に必要なのは、あの幼児のように、父なる神に向かって、本気で、懸命に求めることではないだろうか?ふとそう感じました。自分は本気で、神さまに何かを求めているだろうか。神さまが与えてくださる、という信仰によって求めているだろうか。その信仰を問われたのです。
 私たちは、今日の御言葉を前にして、どう思うでしょうか。この約束を信じて、素直に受け止めるでしょうか。そうではないかもしれません。
 私たちは、心のどこかで、“イエスさま(聖書)はそう言うけれど、神さまに祈り求めたって、現実にはそうそう与えられるもんじゃないよ”と思ってはいないでしょうか。そう思って、本気で、真剣に求めようとはしない。そして、現実的にあり得そうな範囲の中で、自分の力で実現可能な範囲の中で、“これなら可能じゃないか”と予想して、その範囲の中で、“神さま、与えてください”と祈っている。つまり、神さまを信頼せずに、この世の力、人間の力、自分の力に頼っている。それは現実的ではあっても、信仰的ではありません。賢いのかも知れませんが、主イエスの求めている生き方ではないのです。
 主イエスは、「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(8節)と繰り返し念を押してくださいました。その御言葉に、ひとかけらであっても本気を以って信じ、愚かにも従って行く。そこから“信仰の第一歩”が始まるのです。スタートで本気にならなければ、その先の信仰の恵みも味わうことはできません。
祈り求めることには、何のディメリットもありませんし、だれに迷惑をかけるわけでもありません。とかくの思いや計算は脇に置いて、毎日本気で祈り求める。自分が与えられたいと願うものを求める。そういう信仰者でありたいと思うのです。

 とは言え、本気で、懸命に求めても、現実には、すぐに与えられるわけではありませんし、すべてが叶(かな)えられるわけではありません。祈り求めて与えられたならば、“神さま、感謝!”です。私たちは、そういう恵みを数多く味わいたいのです。
でも、求めても与えられないとき、私たちはどう考えれば良いのか。真剣に祈り求めれば求めるほど、それが与えられなかったときのショックも大きいでしょう。そんな時、私たちは、“こんなに信じて祈ったのに、どうして神さまは聞いてくださらないのか。もう神さまなんて信じられない”という気持になってしまうことがあります。それが分からないわけではありません。けれども、それほどに神さまに対して本気になっているのなら、そこで信仰を失ってしまうのはもったいない。短兵急(たんぺいきゅう)です。その先にある信仰の恵みを、ぜひ知ってほしい。
先ほど、ヤオコーで幼児が父親に“買って、買って”と、せがんでいたという話をしました。あの後、父親はどうしたでしょう?子どもが求める物を買ってあげたかも知れません。ならば、子どもは大喜びだったでしょう。けれども、別の物が与えられたかも知れませんし、買ってもらえなかったかも知れません。その場合、子どもは“どうして買ってくれないんだ。お父さんは意地悪だ”という怒りや悲しみを、しばらくは感じることでしょう。
では、立場を変えて父親の心を考えてみましょう。父親は、意地悪で買わないのでしょうか?そんな父親はいません。もしそうだとすれば、もはや父親ではありません。
 買って与えないとしたら、どうしてでしょうか。それは、買って、買ってとねだるものをすべて買い与えていたら、我慢のできない我がままな人間になってしまう、我が子がだめになってしまう、と思うからです。我が子に良かれと思って、与えない。だから、父親から見れば、与えないということが、かえって「良い物を与える」(11節)ことになるのです。
 9節以下で、主イエスは、そういう父親の心を示しています。
「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」(9〜11節)。
 人間の父親の心を示しながら、まして天の父は、私たち一人ひとりに、それ以上の思いを持って計(はか)らってくださっているのだ、ということをお教えになります。パンを欲しがる子供に石を与える父親はいない。でも、与えられるのはパンではないかも知れない。でも、それは「良い物」に違いないのです。
 だから、求めたものが与えられないとき、私たちはこう考え、信じることができれば幸いです。一つは、求めたものが与えられるには、もう少し時間が必要なのだと信じて、忍耐する。もう一つは、自分が求めているものは、神さまが与えてくださろうとしている「良い物」とは違う。神さまは「良い物」を与えようとして、別のものを備えてくださるのだ、と。
 J・ロジャー・ルーシーというカトリックの神父の詩が、この信仰の心を究極的に表しています。それは、ニューヨークのリハビリテーション・センターの壁に刻まれていると言います。もしかしたら、この人自身が、苦しいリハビリの中で、どうして神は求めるものを与えてくださらないのかと苦しみ悩みながら、やがてこの信仰に達した、この心境を悟ったのかも知れません。


大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
    謙遜を学ぶようにと弱さを授(さず)かった。
  より偉大なことができるように健康を求めたのに、
    より良きことができるようにと病弱を与えられた。
  幸せになろうとして富を求めたのに
    賢明であるようにと貧困を授かった。
  世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、
    得意にならないようにと失敗を授かった。
  人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
    あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。
  求めたものは一つとして与えられなかったが、
    願いはすべて聞き届けられた。
  神の意に沿わぬものであるにかかわらず、
    心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。
  私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。
             (J・ロジャー・ルーシー)
 求めたものは一つとして与えられなかったが(としても)、“願いはすべて聞き届けられた”。いつの日か、私たちもこのような信仰を与えられて、まさに「良い物」を与えられて、このように告白することができたら、と思います。

 そのために、今、私たちの信仰生活に必要なことは何か?
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(12節)。
と主イエスはお教えになります。求めるものは与えられる。自分が人にしてもらいたいと求めるものを、反対に人に対してすることによって、この真理を深く学びなさい、聖書の真髄を深く学びなさい、と主イエスは言われるのです。
 ところで、私たちは、この教えにちょっと違和感を感じないでしょうか。私たちはたぶん、相手の気持ちを考えて、人がしてほしいと思うことを、人にしなさいと教えられていることと思います。そこからすると、自分が人にしてもらいたいと思うことを人にするのは、ズレが生じるのではないか、相手が欲していないことをしてしまう場合があるのではないか、そんな思いも抱きます。
 けれども、私は、ディボーション講座の際に、この御言葉にとても納得しました。坂戸いずみ教会では、昨年度からディボーション講座という会を行っています。普段の生活の中で、聖書を読んで黙想し、神さまが何を語りかけ、求めておられるか、自分なりに聴き取るためのトレーニングです。講座の時は、それぞれ自分が聴き取ったことをプリントに書いて来て、分かち合いをします。御言葉の深い恵みに溢れた、とても良い会です。
 ある会で、今日の聖書箇所を取り上げたとき、ある信徒の方が、自分が「人にしてもらいたいと思うこと」は何だろう?と考えてみて、次のように思ったと言われました。
 人に信頼してもらうこと、共感してもらうこと、分かってもらうこと、認めてもらうこと、覚えていてもらうこと、ゆるしてもらうこと、笑顔で挨拶してもらうこと、とがめずに黙って聞いてもらうこと。
 私は、これを聞いたとき、“本当にそうだ。それは私も人にしてもらいたいことだ”と感じました。そして、それは逆に、人もしてほしいこと、人も嬉しいと感じることに違いないと思ったのです。
 今お話ししたことを一言で言うなら、それは“愛”ですね。愛を与えてほしい。だから、自分も人に愛を与える。それはまさに、「律法と預言者」の真髄、主イエスが、聖書の真髄は、神を愛することと隣人を愛することだと言われた教えに適(かな)います。

 人にしてもらいたいと思うことを、人にもする。その実生活の中で、天の父の御心を深く学び、天の父が、私たち求める者に「良い物」をくださると信じる信仰を養われて行きましょう。

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