坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年7月14日 礼拝説教 「来年の実を期待する」

聖書 ルカによる福音書13章1〜9節
説教者 山岡創牧師

◆悔い改めなければ滅びる
13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
◆「実のならないいちじくの木」のたとえ
13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」


            
         「来年の実を期待する」 
 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえの血に混ぜた」(1節)。そのように主イエスに告げた人がいました。物騒(ぶっそう)な話です。現代であれば、ワイド・ショーのトップで取り上げられそうな出来事です。
 ユダヤ人にも、地域性(ちいきせい)がありました。神殿のあるエルサレムを中心としたユダヤ地方と、ガリラヤ湖の周りにある町や村によって構成(こうせい)されるガリラヤ地方です。「ガリラヤ人」というのは、ガリラヤ地方に住む人々のことです。そして、主イエスもガリラヤ人でしたし、今、主イエスの周りに集まっている群衆(ぐんしゅう)もガリラヤ人でした。
だれかは分かりませんが、ガリラヤ人がエルサレムに上京して、神殿で神さまを礼拝し、いけにえの動物を献(ささ)げていた時の出来事のようです。そのガリラヤ人たちを、ピラトが殺害(さつがい)した。ピラトというのは、当時ユダヤ人を支配していたローマ帝国から派遣(はけん)されていたユダヤ人を治(おさ)める総督(そうとく)でした。事件の真相はよく分かりません。ピラトの気まぐれであったのか、それともローマ帝国に対して反乱を起こそうとしている反逆者(はんぎゃくしゃ)と疑われたのか、しかし、殺されたガリラヤ人たちにとっては、災難(さいなん)であったようです。


 そういう事件の話を、何人かの人が来て、主イエスに告げた。「ちょうどそのとき」(1節)とあります。主イエスが群衆に話をしていた時です。何の話をしていたのか。裁(さば)きの話です。12章の終りにありますが、訴えられたら、相手と仲直(なかなお)りをしないと、裁判官のもとに連れて行かれて裁かれるよ、判決(はんけつ)が下って牢屋(ろうや)に投げ込まれるよ、という話です。しかも、それはたとえ話です。人間社会の裁判(さいばん)の様子を語りながら、神と人との関係を主イエスは語っています。罪を犯した人間は現実の裁判で裁かれるだけではなく、神さまにもその魂(たましい)を裁かれるよ、と教えていたのです。
 ちょうどその時、この事件の話が持ち込まれました。そう言えば、ガリラヤ人が神殿でピラトに殺される事件が起きた。それは神さまの裁きでしょうか? 彼らは何か罪を犯していて、その罪を、神さまがお裁きになったということでしょうか? 裁きの話をしていた主イエスに、人々はそんなふうに尋(たず)ねたのではないでしょうか。
 災難(さいなん)や不幸が起こると、“なぜ?”とその理由を問わずにはいられないのが、私たち人間の気持でありましょう。当時のユダヤ人は、人に災難や病、不幸な出来事が起こるのは、その人が罪を犯したためである。明らかな罪がなくても、隠(かく)れた罪があったのかも知れない。その罪を神さまが裁いて罰(ばつ)を与えられたのだ、と考えていたのです。いわゆる因果応報(いんがおうほう)の考え方です。そのように考えて、理由付けをしていたのです。
 けれども、主イエスは、そのとおりだ、とはお答えになりませんでした。
「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(2節)。
 主イエスは、同じことを、シロアムの塔(とう)が倒(たお)れて18人が犠牲(ぎせい)になった事件を挙(あ)げながら、繰(く)り返して言われました。念を押したと言って良いでしょう。
 人々は、他人が災難や不幸に遭う現実を目の当たりにしながら、自分に災難や不幸が起こらないことでホッとしていました。彼らには罪があったから、こうなったのだ。と言うことは、自分たちは罪がないから裁かれないのだ。災難や不幸に遭(あ)わずにいられるのだ。そう安易(あんい)に考えていました。
 けれども、主イエスは「決してそうではない」と言われました。あなたがたにも罪はあるのだよ。罪人なのだよ。彼らと同じなのだよ。だから、あなたがたも悔(く)い改める必要があるのだよ。心を新たにして神の言葉を聞き、神に従って生きる必要があるのだよ。そうでなければ、あなたがたも滅(ほろ)びることになる。こう言って、主イエスは、他人の罪ではなく自分の罪に、自分自身の生き方の問題性(もんだいせい)に目を向けさせようとしました。何かがあると、“これはこの人のことだ、あの人のことだ”と他人には当てはめるけれども、自分自身には当てはめて考えようとはしない私たちの意識(いしき)を注意されたのです。


 ところで、主イエスの言われたことをよく考えてみると、人は皆、罪人で、悔い改めなければ罪のために滅(ほろ)ぶ。ただ、その順番が早いか遅いかの違いがあるだけだ。そう言っておられるのでしょうか。そうだとすれば、主イエスもまた、人が災難や不幸に遭うのは、その人の罪のせいだ、というユダヤ人の因果応報の考え方と同じだということになります。そうだとすれば、私たちは、主イエスの教えに納得(なっとく)できず、救いを得られなくなるのではないでしょうか。
 私たちは、人生の歩みの中で、不条理(ふじょうり)な出来事に遭遇(そうぐう)します。災難や不幸に遭って、なぜそれが起こったのか、分らないまま生きていかなければならないことがあります。東日本大震災はその最(さい)たるものでしょう。そういう不条理な苦しみを感じているときに、それは、あなたの罪のせいだ、罰が当たったのだ、神の裁きだと言われても、決して納得できるものではありません。それこそ、他の人たちと何が違うんだ!どこが罪なんだ!と、更なる怒(いか)りと悲しみを、その人の心に引き起こすだけでしょう。
 主イエスは、ここでそんなことを言っているのではありません。ただ、自分には罪がないかのように思っている人々に、自分自身に目を向けるように、と言っておられるのです。決して罪と、現実の災難や不幸との因果関係を言おううとしているのではありません。
 別の場面で、主イエスが、生まれつき目の見えない障がいを負った人と出会った時に、言われた言葉があります。弟子たちはその人を見て、本人の罪のせいか、親の罪のせいか、と尋ねました。それに対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)とお答えになりました。罪のせいではない。では、何のせいか? 理由は分からないのです。理由が分からない、意味が分からない、そういう不条理な苦しみを、主イエスは「神の業がこの人に現れるためである」という言葉で拾(ひろ)い上げ、救(すく)い上げてくださいました。理由付けをしたくなるのが人間の性(さが)ですが、理由は分からないままでいい。だれのせいでもない。あなたのせいでもない。自分で背負わなくていい。分からないまま生きていい。いつかきっと神の業が現れる時が来る。“あの苦しみは、このためだったのだ”と納得できる時が来るかも知れない。その思いを胸に、生きていい。あなたは決して神に裁かれ、見放されているのではない。主イエスはそうお考えになっているのです。
 東日本大震災で亡くなった人を探して遺族(いぞく)にとどける、というボランティア活動をした、ある青年がいました。その青年は、自分が直接の不幸と悲しみに遭(あ)ったのではないけれど、酷(むご)い遺体を見続(つづ)けながら、“人が生きることに、果たして意味があるのか”と感じるようになって、心を病(や)んだといいます。その青年が、その迷いから立ち直るきっかけとなったのは、“すべてに時がある”という旧約聖書・コヘレトの言葉の1節だったと言います。その言葉によって、彼は、死を見つめることで、生きることの意味も分かって来るということに心を開かれたようです。“すべてに時がある”。その言葉は言い換(か)えるならば、「神の業がこの人に現れるためである」と同じではないかと思います。


 ですから、主イエスは、災難や不幸は罪のせいで、順番(じゅんばん)の違(ちがい)いを言っておられるわけではありません。自分の罪に目が向かない人、自分の生き方の問題を悔い改めようとはしない人を、諭(さと)そうとしたのです。そして、主イエスが言われた滅(ほろ)びとは、現実に起こる災難や不幸のことではありません。もっと深いものです。魂(たましい)の滅(ほろ)びと言うべきものです。神さまに心を向けて、神さまとの心の関係を改善するのでなければ、死んだ後で不幸をつかみ取るような、いや、それが場合によっては死ぬ前の人生にも結果としてつかみ取ってしまうような、そんな滅びを言っておられるのです。その滅びに遭(あ)わないように、自分自身を見直して悔い改めなさい、神さまとの関係を改善(かいぜん)しなさい、と主イエスは言われるのです。
 そして、悔い改めるには、もう遅(おそ)い、間に合わないということはないということを教えるために、〈実らないいちじくの木のたとえ〉をなさったのです。
 俗に“桃栗3年、柿8年”などと申しますが、いちじくは実がなるまでに、何年ぐらいかかる果樹だったのでしょうか。ともかく3年間、実がならなかったのです。そこで主人は怒ってしまって、切り倒(たお)せ、と雇(やと)っている園丁(えんてい)に命じます。ところが、園丁の方が辛抱強い。
「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥(こ)やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」(8〜9節)。
 肥やしをやって、実(み)が成るか1年待ってみましょう、と言う。この実というのは、悔い改めのことです。人が神さまに向かって、悔い改めて生きるようになる。そういう人生の実り、信仰の実りをたとえています。
 だから、悔い改めのチャンスがあるのは、この1年です。今年です。つまり、主イエスは今、悔い改めなさい。今、気づいているなら、分かっているなら、悔い改めなさい、と教えておられるのです。人生は“今”という時が常に、悔い改めの“旬(しゅん)”なのです。
 しかし、もし1年後に実がならなかったらどうなるでしょうか? 園丁は、約束ですから切り倒しましょう、と言うでしょうか。御主人様、肥やしをやって、もう1年待ってみましょう。そのように言うに違いないと私は思うのです。実がならなければ、その先もその先も、同じように言うのではないでしょうか。
主イエス・キリストとは、そういう方です。私たちに、神の恵みの言葉という人生の肥やしを与えながら、いや、ご自分の命さえ、私たちの救いのために与えながら、私たちが悔い改めて生きることを、辛抱強(しんぼうづよ)く、いつまでも待っていてくださるのです。そういう意味で、悔い改めるのに、もう遅い、もう間に合わないということはありません。神さまとの関係はいつでも取り戻すことができる。その上で、自分の人生をやり直すのに、いつになっても、何歳になっても遅いということは決してないのだと私は思います。主イエスの御言葉を聞いた私たちは、悔い改めながら生きることを忘れてはなりません。


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