坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2013年8月4日 礼拝説教(聖餐式) 「何をやるべきか」

聖書 ルカによる福音書13章10〜17節
説教者 山岡創牧師

◆安息日に、腰の曲がった婦人をいやす
13:10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
13:11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
13:12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、
13:13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
13:14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。
13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
13:17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。


            
         「何をやるべきか」
 「安息日」(1節)というのは、ユダヤ人にとって非常に重要な日でした。ユダヤ人が神の掟として大切に守っている律法、その中心である十戒という10個の掟の中に、この安息日のことが定められています。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」
(出エジプト記20章8〜10節)
 旧約聖書・創世記のはじめに、神さまが天地をお造りになった話がありますが、神さまはそれを六日間でなさいました。そして、七日目には神さまもお休みになったのです。神さまがお休みになった日、すなわち「主の安息日」です。そして、人も神さまにならい、七日目に休むことが定められました。このようにして、エジプトで奴隷にされ、毎日、過酷な労働を強いられていたユダヤ人の先祖たちに、神さまは休みの日を設けてくださったのです。
 だから、ユダヤ人はこの日、自分たちを過酷な労働から解放してくださった神をたたえて礼拝します。地域ごとにある「会堂」(1節)に集まって、祈りと賛美、律法の朗読とその説教を中心とした礼拝を、神さまにささげるのです。
 この伝統が、キリスト教の教会にも受け継がれました。だから、私たちも毎週、教会に集まって礼拝を守ります。ただし、ユダヤ人の安息日は七日間の終わりの土曜日ですが、私たちは日曜日に集まります。それは、主イエス・キリストが復活なさったのは日曜日であり、私たちクリスチャンは、キリストの復活を祝って礼拝を守るからです。


「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた」(10節)とあります。安息日の礼拝において、主イエスは律法を説教し、教えておられたのです。
「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」(11節)と言います。
 私は2度、腰痛になったことがあります。1度目は中学3年生のとき。原因不明の痛みのために、半年間、まともに運動ができず、私はサッカー部でしたけれども、3年生最後の夏の大会を棒に振りました。2度目はつい最近。4月にインフルエンザを患い、礼拝を休んで皆さんにもご迷惑をかけましたが、インフルエンザが治ったと思ったら、いきなり腰痛になっていました。走ると痛い。中腰になると痛い。畑で鍬(くわ)を振ると痛い。私は30年以上も前の腰痛の記憶がよみがえりまして、長引いたらいやだなあ、慢性になったらいやだなあ、と思っておりました。幸い思ったほどでもなく、段々走れるようになり、畑仕事もできるように回復して来ました。でも時々、左の腰をトントンと叩いているのは、まだちょっと痛いからです。
 腰が曲がっていたというこの女性の症状がどんなものであったかは、定かには分かりません。けれども、周りの人が当たり前のようにできることを、この女性はできなかったでしょう。自分だけが周りの人のように生活することができない。それが18年間も続いている。その悲しみがどれほどであるか、想像することもできません。そして、腰が曲がっているために、痛みの苦痛もあったと考えることができます。痛みの辛さ、普通に生活できない悲しみ。
それだけではありません。腰痛というのは90%原因不明だと言われますが、この女性の腰の症状も原因不明だったでしょう。2千年前の時代ですから、今よりももっと、病の原因は分からなかったでしょう。原因不明の病を、当時のユダヤ人は悪い霊の仕業だと考えました。11節にも「病の霊に取りつかれている」とありました。では、どうしてそのような悪い霊に取りつかれるのか?その人が罪を犯したからだ、と言うのです。何か罪を犯したために、その人は悪い霊に取りつかれ、呪われて病になったのだと考えました。だから、病の痛み、普通に生活できない悲しみだけではなく、周りの人々から、“あの人は神に背いた罪人だ。神に見捨てられた人間だ”と白い目で見られるという疎(そ)外感、精神的苦痛が加わりました。それが18年間も続いたと言うのです。
主イエスは、会堂で、この女性の存在に目を留めました。痛み、悲しみ、そして疎外される苦痛が18年間も続いていたこともお知りになったでしょう。だから、主イエスは、この女性を憐れみ、呼び寄せて、「婦人よ、病気は治った」(12節)と言って癒(いや)してくださったのです。多くの痛み、悲しみ、苦しみの束縛(そくばく)から解放してくださったのです。
「女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した」(13節)と言います。私たちは、病や痛みを抱えたとき、健康であることがどんなにありがたいことかを知ります。歩ける。しゃがめる。物を持てる。それまで当たり前のようにできて、何のありがたさも感じていなかったことが、どんなに感謝すべきことだったか。そして、健康が回復して、またできるようになったとき、大きな喜びと感謝を感じます。この女性も、その喜びと感謝を味わって、神を賛美したのです。


 ところが、この癒しの出来事を、素直に喜ばない人がいました。会堂を管理し、礼拝を司(つかさど)る「会堂長」(14節)でした。彼は喜ばないどころか、腹を立てさえしました。そして、その腹立ちを主イエスにではなく、群衆にぶつけました。
「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうが良い。安息日はいけない」(14節)。
 会堂長の腹立ちの理由は、もうお分かりでしょう。それが安息日に行われたからです。神さまにならって休むべき安息日に、病の癒しという仕事をすることが、安息日違反に当たり、神さまに背くことだと思ったからです。会堂長という指導者としての立場とプライドもありますから、掟を守ることに忠実で、厳格であったのです。
 ところが、主イエスは、会堂長の言葉をもっともだと認められるどころか、にべもなく言われました。
「偽善者(ぎぜんしゃ)たちよ、あなたたちはだれでも、牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(15〜16節)。
 この女性を、積年の苦しみ、悲しみから解放するのは“今”なのです。出会った今なのです。1日の猶予(ゆうよ)もならない。安息日だから、掟を守るために癒すのは明日にしよう、とか、18年間患って来たのだから、それが1日遅れても大したことではない、とか、そういう考えは主イエスの頭にはないのです。目の前で苦しみ、悲しんでいる人を1日でも早く、1刻でも早く解放してあげたい。平安にしてあげたい。神の愛を届けたい。実現したい。主イエスの内にあるものは、ただその一点です。その心が何より、信じる私たちには嬉しいのです。
 律法の中で最も重要な掟は何ですか?と聞かれたとき、主イエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22章37節〜)とお答えになりました。律法の真髄は“愛”にある。神を愛し、人を愛することにあると主イエスはお考えでした。愛こそが神の御(み)心、その愛を貫くためには、他の掟を破ることすらあったのです。もちろん、掟や決まりは徒(いたずら)に破って良いものではありません。混乱を招きます。しかし、律法は、愛に裏付けられ、運用されることで初めて、生きたもの、血の通ったものとなるのです。愛のない律法、愛のない正しさ、主イエスはそれを偽善と呼びます。


 律法は人を救えない。正しさは人を救えません。人を救うのは正しさではなく、愛なのです。私も、曲がりなりにもクリスチャンとして、牧師として、このことを主イエスから教えられました。失敗しながら、少しずつ学んで来ました。もちろん、愛を学ぶのに終わりなどありません。完璧などありません。
 今、私たちの周りで、建前(たてまえ)の正義がまかり通っていることはないでしょうか?いや、自分自身の中で“これが正しい”と思い込んで、理屈をつけて、押し通していることはないでしょうか?愛を行うのに躊躇(ちゅうちょ)していることはないでしょうか?教会のこと、教団のこと、また自分自身のことで、思い当たること、思い出すことが、幾つかあります。けれども、今日ここでは、敢(あ)えてその例を挙げることはやめにしようと思いました。
 ここに招かれて、礼拝に集っている一人ひとり、きっと思い当たること、思い出すことがあるはずです。そしてもし、愛をないがしろにして、自分勝手な正しさを押し通そうとした偽善の罪に気づかされたなら、あの会堂長のように恥じ入る者でありたいと思うのです。逆切れして、いよいよ自分の正しさを主張するような者ではありたくない。その自己主張の果てにあるものこそ、主イエスを十字架に架けるという罪です。いや、もう既に、私たちは何度も主イエスを十字架に架けているのかも知れません。
 今日の聖書箇所の直前、13章の前半に、悔い改めの話がありました。今はだめでも来年、実を実らせるという話がありました。主イエスが望んでいるのは、悔い改めの実を結ぶことです。自分の言葉に、行いに恥じ入るということは、悔い改めることの第1歩ではないでしょうか。詰まらないプライドや意地は主イエスの前に捨てて、素直に恥じ入る。その心がきっと神さまに喜ばれます。愛することにつながります。


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