坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年7月15日 主日礼拝説教 「渇いている人はだれでも」

聖書  ヨハネによる福音書7章37〜39節
説教者 山岡 創牧師 


7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。



          「渇いている人はだれでも」
 昨日は坂戸いずみ教会で埼玉地区の青年の集まりがありました。と言っても、メイン・イベントは、高麗川の土手でのバーベキューで、当教会で準備をして、すぐそばの土手に向かい、最後に帰って来て、3時頃、閉会礼拝をしました。
 昨日は、今年の夏一番と言われるほどの暑さでした。のどが渇くことを予想して、バーベキューの時、青年部で用意したペットボトルの他に、教会のクーラージャグに麦茶を作って持って行きました。各自、個人的にも飲み物を持って行くようにと言われて、私も500ミリのペットボトルを2つ持って行きましたが、それ以外に、麦茶を紙コップで10杯ぐらい飲んだのではないかと思います。バーベキューだったこともありますが、本当にのどが渇きました。

 とは言え、私は、猛烈な喉の渇きというものを体験したことがありません。聖書の民であるイスラエルの人々が、砂漠や荒野で体験したような喉の渇きは、知る由もありません。渇きは、彼らにとって死活問題でした。
 モーセに導かれて、エジプトの奴隷状態から脱したイスラエルの人々は、カナンの地を目指して荒れ野を旅しました。その途中で、しばしば喉の渇きに苦しみ、こんなことならエジプトに留まっていれば良かったとモーセに不平を言いました。その度にモーセは祈り、神さまの返事をいただき、岩を打って水を出し、人々を救いました。
 そのように、荒れ野の旅の途中、神さまから水をいただいて救われたという出来事を記念するために、仮庵(かりいお)の祭りの中で、水を与えるイベントが行われていたようです。
 仮庵の祭りは7日間続きました。「祭りが最も盛大に行われる終わりの日」(37節)、この水注ぎの記念行事も盛大に行われたかも知れません。その時です。主イエスが「立ち上がって、大声で」(37節)言われました。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」
(37節)
 祭りの中で、神殿に参拝する人々に、祭司たちが水を与えていたことでしょう。それとは全く別に、“わたしが水を与える。その水を飲みなさい”と言い出されたのです。主イエスが与える「水」は、もちろん飲み水ではありません。人間の心の渇き、内なる渇きをいやす「霊」(39節)です。
 私たちの渇きは二つあります。一つは、身体的な渇きであり、喉が渇き、体が水分を欲します。そして、もう一つは内面的な渇き、心の渇きです。それは生活や仕事の上での様々な問題や人間関係のストレス等によって引き起こされ、私たちの心は満たされず、不安や痛みを感じます。その痛みを和らげ、不安から安心へと私たちの心を変える霊的なもの、つまり神さまからの贈り物を主イエスは与えるのです。それは、一言で言えば“神の愛”です。

 ヨハネによる福音書の中に、既に、この渇きを癒された女性の物語が出て来ました。4章にあるサマリア人の女性の物語です。
サマリア人の女性と主イエスとの出会いは、主イエスがガリラヤ地方に帰る途中で起こりました。立ち寄られたサマリアの町シカルで、主イエスはのどの渇きを覚え、町の真ん中にある井戸辺に座っていました。そして、水を汲みに来た女性に、「水を飲ませてください」と頼みます。そこから会話が始まり、やがて彼女は、主イエスが語る「生きた水」を求めるようになります。
 ところが、主イエスは、水の話からガラリと話題を変え、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と彼女に言われました。夫はいないと答えた彼女に、主イエスは、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と言い当てます。その後、女性との対話はさらに続き、遂に彼女は、主イエスを信じ、救い主がおいでになったと、町の人々に伝えに走るのです。
 この人は、どうしてイエスのことを救い主と信じたのでしょうか?それは、自分の「ありのまま」を話すことができ、その「ありのまま」を否定されず、受け入れられたからではないかと思うのです。
 主イエスが彼女の行ったことを言い当てた時、主イエスはこう言われました。「あなたは、ありのままを言ったわけだ」と。つまり、彼女はその時、自分の「ありのまま」を話すことができたのです。そして、自分の「ありのまま」を、主イエスは非難せず、受け入れてくださったのではないでしょうか。
 それまで、人に自分の「ありのまま」を話すことなど彼女にはできなかったでしょう。5人の夫と連れ添い、6人目と同棲している彼女の生活には、相当に苦しくつらい事情があったでしょう。愛に深く傷ついたかも知れない。それでも愛に飢え渇く胸の思いがあったと想像されます。彼女なりの言い分もあったでしょう。けれども、世間の人々は、彼女のうわべの生活ばかりを見て、あの人はふしだらな女だ、と噂し、白い目で見ていたのではないでしょうか。彼女の胸の内を聞いてくれる人はだれもいなかったのではないでしょうか。まれに、相手を信じて話してみても、非難され、否定され、彼女の心は傷つき、いよいよ閉ざされたかも知れません。だから、彼女はだれも水を汲みに来ない日中に、だれにも会わない日中に水を汲みに行くことを習慣にしていたのです。
 ところが、そこに主イエスがいた。「水を飲ませてください」との言葉がきっかけとなって、不思議な会話が始まり、気づいたら彼女は、自分の「ありのまま」を話していたのではないでしょうか。そして、そういう自分の「ありのまま」が聞かれ、受け入れられる喜びを味わったに違いありません。
 つまり、彼女は主イエスを通して、「生きた水」をいただいたのです。“神の愛”をいただいたのです。ありのままを否定せずに聞いてもらう、受け入れてもらうことで、安心をいただいたのです。その愛は、彼女の心の内で、“安心”が湧き出て流れ出す泉となって、その後も彼女の心の渇きを潤し続けたことでしょう。そのような神の愛を飲みなさいと、主イエスは、内なる渇きを覚えている人を招かれるのです。

 ところで、主イエスがそのように届けてくださる「生きた水」とは、「ご自分を信じる人々が受けようとしている“霊”」(39節)だと言われています。“霊”というのは、私たちにとって、分かったようで分からない、捉(とら)え難(がた)いものではないでしょうか。霊というのは、単に心の問題とか精神的な事柄のことではありません。私(たち)と神さまの関係において、つまり信仰によって心に与えられるものだと考えたら良いと思います。
 それで思い出したのですが、昨日の埼玉地区の青年の集まりで、UさんというS教会の青年と初めてお会いしました。1年ほど前に、関西から仕事の関係でこちらに来て、S教会に通うようになったとのこと。以前はどちらの教会に行っていたのですか?と尋ねると、N教会とのことでした。私は、N教会の牧師であるO先生のお話を、以前に聞いたことがあり、とても印象に残っているとお話しましたら、とても喜んで聞いてくれました。
 7、8年前になるでしょうか、私が日本基督教団の伝道委員をしていたとき、その関係の研修会が大阪であり、O先生が“高齢者と教会”といったテーマでお話をしてくださいました。その中で、先生が、ご自分の教会の婦人たちのことをお話してくださったのですが、ある時、年配の婦人たちが数名集まって、何やら愚痴話をしている。歳をとって、あちこちが痛くなってきた。今までできたことが、あれもこれもできなくなった。神さまと教会の役に立てない。そんな話をため息交じりに語り合っている。それを聞いていたO先生は、こんなことをお話されたそうです。“確かに、皆さんは、歳と共に体は衰えていくでしょう。けれども、反対に霊性はとても成長する時なのですよ。今まで、皆さんは自分の力で、あれもできた。これもできた。だから、神さまを信じてはいても、神さまにより頼むよりも、自分の力を頼りにしているところが大きかったでしょう。けれども、今、自分の力がだんだん頼りにならなくなってきた。そういう時こそ、神さまにより頼む祈りが強まり、神さまにお委ねする安心を感じ、神さまに生かされている喜びが最も湧いて来る時なのですよ。だから、皆さんの霊性は今、とても成長する時で、神さまの恵みを心から証しできるのです”。それを聞いたご婦人たちは、本当にそうですね、と深く納得された‥‥というお話を思い出しました。
 “霊”というのは、神さまとの関わりにおいて感じるもの、働くものであり、私たちは何より、神の霊の働きによって“神の愛”をいただきます。その愛が、私たちに、ありのままの自分が受け入れられている、“私はこれでいいんだ”と自分を受け入れる安心感をもたらすのです。そして、信仰による安心は、自分らしく生きる自信につながります。

 話は変わりますが、先日7月8日に東松山市で市長選挙が行われました。結果は、森田光一氏が再選(三選)しましたが、対立候補として、安富歩さんという東大教授の方が立候補されました。この方は、ご自分がトランスジェンダー、つまりご自分の性に不一致、違和感を感じる人間だということを公にしている方です。先日の教会掃除の後、お茶をいただいている時に、その話を聞きまして、敗れはしましたが、票数は約19000対7000だったということでした。想像するほど大差でもなく、ともすれば社会的差別を受けやすい事情を持った方が7000の人の支持を得たということを聞いて、ちょっと安富さんに関心が湧きまして、インターネットで調べてみました。
 東大教授という肩書を負って、男性として生きて来た安富さんは、自分の体形に悩み続けて来たといいます。ある時、パートナーに勧められて、女性の服を着てみたら、自分の体形にフィットしただけでなく、とても安心を感じたと言います。それは、両親から植えつけられてきた“男だからこうしなければならない”というプレッシャーからの解放だったと言います。やがて安富さんは女性の服装で公の場にも立つようになり、今回、東松山市長選に立候補されたのです。
 安富さんはこう言います。
 システムからはみ出す自分を認めること。それが息苦しさから抜け出す一歩だよ。
(小野美由紀、『愛の履歴書』より)
 安富さんは、ありのままに、自分らしく生きる安心を見つけました。
 私たちクリスチャンは、ありのままに、自分らしく生きる生き方と安心を、この世でいちばん、主イエスから教えられ、与えられている人間ではないでしょうか。主イエスの御(み)言葉に導かれて、ありのままの自分で、自分らしく生きてよい、という「生きた水」を、私たちは常に与えられるのです。



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