坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年7月29日 主日礼拝説教 「石を投げられる者はいない」

聖書  ヨハネによる福音書8章1〜11節
説教者 山岡 創牧師 


8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」



          「石を投げられる者はいない」
 裁判員制度が2009年に始まって、およそ9年が経ちました。ご存じのように、この制度は、刑事事件ごとに、選挙権を持つ一般市民から無作為に選ばれた6名が、3名の裁判官と一緒に、被告人の有罪無罪の判決をし、具体的な罰則をも定めます、2016年12月までに、8673名が選ばれたということですから、現在では1万人前後の一般市民が裁判員に選ばれたであろうと思われます。もしかしたら、私たち坂戸いずみ教会の関係者の中にも、裁判員に選ばれたという方がおられるかも知れません。
 人を裁く‥‥嫌なものではないでしょうか。気が引けるものではないでしょうか。もし私が選ばれたら、そう感じるでしょう。法に則(のっと)って裁くとは言え、一人の人の判決と罰則の決定に、自分が関わるというのは、気の重い作業のように思われます。しかるべき理由があれば辞退もできますが、だれでも辞退できるわけではありません。だれかがこの務めを負わなければならないのです。
 とは言え、私たちが裁判員に選ばれることは、確率的にそれほど高くはありません。裁判員に選ばれずに生涯を終える人もたくさんいるでしょう。
 けれども、法的な裁きに関わらないからと言って、私たちが“裁き”という出来事に関わっていないかと言えば、そうではありません。むしろ、私たちは毎日のように、日常生活のレベルで、裁きに関わっています。物事や周りの人間が正しいか、正しくないか、その正邪、是非を判断しています。心の中で思うこともあれば、思ったことを言葉や行動に表わすこともあります。その際、私たちは、赦(ゆる)したり、受け入れたり、認めたりするよりは、非難し、否定することの方が多いのではないでしょうか。法的な裁きに関わることには躊躇(ちゅうちょ)するのに、日常的な裁きにおいては、平気で人を裁いているのではないでしょうか。それは、自分の方が正しいと、自分は正しい人間だと思っているからです。あるいは、自分にも非はあるとチラッと思っても、そんな自分を隠し、正当化したいという気持があるからです。

「先生、この女は姦通(かんつう)をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せ、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」
(4〜5節)
 一人の女性が姦通の現場で捕らえられ、神殿の境内で教えていた主イエスの前に連れて来られました。あるいは遊女(売春婦)であったかも知れません。
 律法の根本原則とも言える十戒には「姦淫してはならない」と定められています。姦通は重い罪でした。旧約聖書のレビ記20章10節以下、あるいは申命記22章22節以下には、姦通の罪を犯した者は、石打ちの刑で処刑されると、確かに書かれています。
 そのように律法に定められているのに、律法学者やファリサイ派の人々は、わざわざこの女性を主イエスの前に連れて来て、敢えて「あなたはどうお考えになりますか」と尋ねました。それは、「イエスを試して、訴える口実を得るため」(6節)でした。
 律法学者やファリサイ派は、主イエスに非難の目を向けていました。それは、主イエスが安息日に、病に苦しんで来た人を癒(いや)して、働いてはならないと定められている安息日の律法を破ったからです。更に、彼らがその行為を問いただすと、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(5章17節)と言って、ご自分は神がなさるようにしているだけだ、と答えたことを、彼らは“主イエスが自分を神と等しいものとしている、これは冒瀆罪(ぼうとくざい)だ”と感じたからです。そのために、彼らは、主イエスを殺そうとさえ考えるようになった、つまり主イエスを石打ちの刑にしてやろうと思うようになっていたのです。
 そのために、彼らは、主イエスを律法違反で訴える口実を得ようとしたのです。主イエスが女性を憐れんで、石打ちの刑にしてはならない、と言えば、律法違反となり、石打ちとはいかないまでも何らかの処罰をすることはできるでしょう。
 ならば、処罰されないために、石打ちの刑にせよ、と言えばいいではないか‥‥‥。いやいや、皆さん、そのように答える主イエスを想像することができますか?私たちは、そんな主イエスは見たくないのではないでしょうか。
 神殿の境内で主イエスの教えを聞いていたユダヤ人民衆も、そんな主イエスは見たくなかったと思います。特に社会的に弱い立場にある病人や罪人、徴税人や遊女らは、愛と憐れみを感じる主イエスの言葉と行動に希望を感じ始めたところでしたから、尚更でしょう。だから、もし主イエスが、律法に定められているとおり、石打ちの刑にせよ、と言えば、彼らはがっかりし、主イエスを見限るようになるかも知れません。
 どちらにしても、律法学者やファリサイ派の人々にはメリットがある。だから、彼らはわざわざ、この女性を主イエスの前に連れて来て、尋ねたのです。

 主イエスは思わずかがみ込みました。そして、指で地面に何かを書き始めました。本筋とは関係ありませんが、何を書いていたのか気になるところです。ある人は、“愛”と書いていたのではないか、と言います。律法の中で、いちばん大切なことは愛だと確認していたのかも知れません。また、ある人は“罪”と書いていたのではないかと言います。罪とは、果たして何を指して言うのかと考えておられたのかも知れません。何を書いていたかはともかくとしても、かがみ込んだといことは、その場にただ一人、引き据えられて、地面に膝をつき、手をついていたであろう女性と、視線の高さを合わせたということのように思われます。つまり、上から目線ではなく、その女性の立場に立って、その気持を汲み取られたのかも知れません。
 律法学者やファリサイ派の人々は、しつこく問い続けました。何も答えられない主イエスに、鬼の首でも取ったかのように、得意満面だったかも知れません。
 ところが、主イエスは身を起こして言われました。
「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
(7節)
 律法学者やファリサイ派をはじめ、その場にいた人々にとって、世界が一変するような一言だったのではないでしょうか。裁く者が、この一言で“裁かれる者”に立場が変わったのです。いきなり、神さまの前に立たされて、“お前は、私に対して罪を犯したことがないのか?”“罪のない者として、上からこの女性に石を投げられるのか?”と問われているかのような立場に置かれたのです。しかも、それは人が決めることではなく、自分が決めることです。自分で自分を見つめ直し、自分で判断することです。信仰とは、人に言われてすることではなく、聖書を読み、神の言葉を聞いて、神の前に、自分で自分を見つめ直し、自分で判断し、自分の言葉、行動、生き方を定めていく作業だと言えます。
 この一言の前に、年長者から始まって、一人また一人と立ち去って行きました。だれも、女性に石を投げる者はありませんでした。皆、自分自身を見つめ直した時、自分は罪を犯したことがない、自分は正しい人間だとは思えなかったのです。秘かに律法を破った者もいたでしょうし、律法に違反していなくても、心の中で神さまに背き、不誠実である自分を感じたのかも知れません。
 私たちが、だれかを裁く時に、忘れているものがあります。それは“神さま”です。人を裁く時、私たちはたぶん、神さまを意識していません。神さまを意識したらきっと、自分は間違いのない、正しい人間だとは思えなくなります。謙虚にならざるを得ません。自分は正しいという位置から、その視点で、人を裁けなくなります。神さまの前には、裁こうとしている相手と自分も同列の人間だと意識し、一方的なことは言えない、自分にも考え落ちがあるかも知れない、間違いがあるかも知れない、と考えるようになるでしょう。すると、私たちの裁きは、私たちの態度は変わって来ます。頭ごなしにモノを言わなくなります。ちょっと待ってみよう、判断を保留しようと思うようになります。自分の考えはこうだけど、相手の考えや気持を尊重して受け入れようということになったりします。それは、神を信じて生きている人間の立ち位置であり、落ち着きであり、また愛の生き方なのです。

 と思っていても、なかなかそのようにできないのが私たちの現実かも知れません。神さまがいつも、この辺(顔の右前)にいてくださればよいのですが、つい言ってしまう、ついやってしまう。
 私も何度失敗したか分かりません。家族関係や日常の人間関係だけではなく、教会生活もまたしかりです。人を裁いてしまったなぁ‥‥という覚えが、少なくとも何度かはあります。自分の考えはそれでいいのか、自分に落ち度や間違いはないのか、神さまを意識して祈って考えます。その時は、考えた上で、口に出し、行動しているつもりです。けれども、思い返すと、自分本位だったのではないか、自己正当化だったのではないか、愛がなかったのではないかと思うことがあります。言わずに飲み込めば良かったと思うことがあります。イエス様の〈放蕩息子のたとえ〉に登場する父親のように、何も言わずに待ち続ける、ということがなかなかできません。
 罪を考えるなら、それもまた罪です。律法を破る罪、法を犯す犯罪ではありません。でも、“罪”です。自分の生き方のズレです。愛がなく、人を傷つける現実です。それもまた、悔い改めて主イエスに赦しを願いながら、もう罪を犯さないようにと心がけていく以外にない。「わたしもあなたを罪に定めない」との神の愛と赦しをいただくことで、私たちは生きているのです。生きていくのです。一人ひとりと立ち去った人々に、主イエスは、怒りと憎しみの目ではなく、「あなたを罪に定めない」との思いを後ろから送っていたかも知れません。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)
 主イエスは、一人残された女性に、やさしく声をかけて送り出します。主イエスは、この女性の罪を知っています。私たちの罪も知っています。けれども、罪に定めない。自分を罪と定めるのは、自分の罪に気づく必要があるのは、あの放蕩息子のたとえ(ルカ15章)の弟息子と同じように、私たち自身です。神の言葉を心で聴き、神の前に生きていることを意識する時、私たちは自分の罪に気づきます。
 そのような罪人である私たちを、主イエスはご自分のもとに招かれます。受け入れ、愛してくださいます。待ってくださいます。用いてくださいます。愛と赦しと導きによって、私たちを何度も、人との関係に、人を愛するために「行きなさい」と遣わしてくださいます。
 「もう罪を犯してはならない」との派遣の言葉は、神の愛の下で、感謝して生きなさい、自分らしく生きなさい、人を愛して生きなさい、と言い換えてもよいのではないでしょうか。簡単ではありませんし、色んな思いもりますが、主イエスは日々、私たちを、人生の現場に、愛の言葉で送り出されるのです。



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