坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年8月5日 主日礼拝説教 「何を根拠に信じるか」

聖書  ヨハネによる福音書8章12〜20節
説教者 山岡 創牧師 


7:40 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、
7:41 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。
7:42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」
7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。
7:44 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。
◆ユダヤ人指導者たちの不信仰
7:45 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。
7:46 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。
7:47 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。
7:48 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。
7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」
7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。
7:51 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」
7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」



          「何を根拠に信じるか」
 ユダヤ人の仮庵(かりいお)の祭りの際に、神殿の境内で群衆を教え、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(40節)と呼びかけた主イエスを巡って、群衆の間に対立が生じました。それは、イエスを信じるか、信じないかという対立でした。
 主イエスが自分から、“私はあの預言者だ”と言ったり、“私はメシアだ”と宣言したわけではありません。主イエスご自身は、祈りと聖書から確信した、父なる神の救いの御心(みこころ)を、神の愛を、群衆に伝えようとしているだけです。それが、神さまからご自分に与えられた使命だと確信して行動しているのです。その教えを聞き、その行動を目の当たりにして、人々が二つに割れたのです。
 信仰とは、不思議な心の世界です。例えば、数学の1+1=2のように、法則性があって、すべての人が同じ答えを出すわけではありません。同じことを聞き、同じものを見ていても、出て来る答えが違います。そこに、客観的な証拠があるわけではありません。あくまで、本人が信じるか否かの主観的な態度、意思決定だということです。
 俗に“鰯の頭も信心から”と言われます。節分に、柊(ひいらぎ)の小枝に鰯の頭を指して戸口に挿し、魔除け、鬼除けとした風習に由来する諺(ことわざ)です。鰯の頭でも、そういう宗教的効果があると信じれば、とても尊いものに見えることから、信仰心の不思議さをたとえています。鰯の頭を信じるか否か、そこに客観的な根拠はありません。まさに信じるかどうかです。
 それでいて、いや、それだからこそ、信じた者に大きな力を与えます。導きを与えます。慰めを、励ましを、安心を、希望を与えます。
 私たちは、どうしてキリスト教を信じたのでしょう?どうしてイエスを自分の救い主と信じたのでしょう?どうして、自分を導き支える神と信じたのでしょう。改めて自分の信仰生活を振り返ってみると、自分でも不思議に思うのではないでしょうか?なぜ信じたのだろう?何がきっかけだったのだろう?‥‥一度、証しという形で文章にまとめてみても良いと思います。たぶん一つ言えることは、私たちの中に、信仰のリアリティがあったということ、信じるに足る現実的な救いの実感があったということ、それが、私たちをして信じさせる要因ではないでしょうか。
 スコットランドの牧師、神学者であったフォーサイスという人は、信仰を次のように譬えました。
 信仰とは、キリストが幻影でなくして、神のリアリティであるという確信に、われらの魂と未来のすべてをゆだねる大冒険である。(『フォーサイスと現代』6頁)
 宗教なんて、何の証拠もない、幻のようなものだと人は言うかも知れません。確かにそうです。けれども、幻に向かって危険を犯す、無駄なことをするような営みの中で、神のリアリティを見つけた時、主観的かも知れないけれど、現実的な救いの実感を感じた時、危険で無駄な営みは、人生を賭けるに足る大冒険に変わるのです。あるいは、ただ習慣的に営んで来た信仰生活が、喜びと感謝と賛美に満ちあふれた大冒険に変わるのです。

 リアリティを感じる。宗教を信じる上で、私たちがイエスを救い主と信じる上で、最も重要な要因です。
 日本基督教団が毎月発行している『こころの友』という伝道新聞があります。以前にもお話したことがありましたが、その中に、[ロッケン牧師の歌舞伎町の裏からゴッドブレス!]というシリーズが連載されています。8月号に、とてもおもしろい内容が掲載されていました。
 このシリーズを書いている関野和寛牧師(日本ルーテル東京教会)は、牧師仲間4人でロックバンドを組み、“牧師ROCKS”というライブ活動を行っていました。“よく来たな、テメエら!俺たち聖職者の限界も、お前らの限界も、今日ここでぶっ壊そうぜ!アーメンだろ!?”と関野牧師のMCも絶好調なあるライブの日、ふと見ると、観客に交じって3歳ぐらいの男の子がいました。耳をつんざくような轟音の中で、男の子は目をまん丸にして、ステージを見ていました。
 そして、ある日曜日の朝、教会のドアが開いて、見ると、小さな男の子が、肩からは子供用のギター、首には十字架のネックレスを付け、“アーメン!”と叫んでいるではありませんか。それは、あの夜のライブに来た3歳の男の子でした。
 お母さんと一緒にライブハウスに行ったこの男の子は、すっかりロックの虜になり、“僕も牧師になる!”と言い出したのだそうです。彼の中では、牧師=ロックの演奏者でした。関野先生は思わず、“ありがとう!牧師になろうな!”と言って男の子の肩を抱きしめました。
 その後、お母さんはクリスチャンになり、男の子は牧師を目指して、日々ギターの練習に励んでいるということです。
 読んでいて、思わず笑みがこぼれるような“偉大なる勘違い”です。けれども、確かなことは、その夜のライブで、この男の子はまさに、自分の魂と未来をすべてかけようと思えるリアリティと出会ったということです。もしかしたら、将来本当に、牧師になるかも知れません。
 リアリティは、人の魂を揺さぶります。人を動かします。祭司長たちやファリサイ派の人々に、主イエス逮捕のために遣わされた下役たちも、主イエスに神のリアリティを感じたのです。“神がこの人と共にいる”と感じたのです。その実感が、「今まで、あの人のように話した人はいません」(46節)という言葉となって表れています。ここに神がいる。この人と共に神がおられる。理屈抜きの直感のために、下役たちは、主イエスを逮捕することができませんでした。

 けれども、祭司長たちやファリサイ派の人々をはじめ、信じようとしない人々の心はかたくなでした。その理由は、主イエスがガリラヤ出身であるということでした。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」(41〜42節)。信じようとしない一部の群衆と、祭司長・ファリサイ派の人々によって、2度繰り返して言われています。
 確かに、旧約聖書・ミカ書5章1節に、救い主メシアがベツレヘムで生まれることを預言する内容が記されています。マタイによる福音書2章のクリスマス物語でも取り上げられていました。彼らは、聖書の預言、聖書的な根拠を理由に、イエスを信じることを拒みました。
 けれども、彼らは本当に真摯に、虚心になって、聖書を読んでいたのでしょうか?そうではありません。ヨハネ福音書3章で、主イエスを訪ねたことのあるニコデモが、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」(51節)と異を唱えました。律法とは旧約聖書のことです。聖書に基づいてニコデモは意見をしました。にもかかわらず、彼らはそれを聞こうとはしませんでした。要するに、彼らの聖書の読み方は自己本位なのです。聖書を読む前に、自分の中に考えや願望があって、それに合う聖書箇所は取り上げるけれど、合わない箇所は否定するといったスタンスなのです。主イエスに対しても、“イエスをメシアと信じたくない”という感情的な思いが先にあって、その思いから、自分を正当化する聖書箇所だけを取り上げているのです。それでは、いくら聖書を読んでいても、神のリアリティを感じることはありません。

 私たちは、人生の様々な場面で神のリアリティを感じます。そういう中で、神のリアリティを最も感じるのは、主イエスが語られる御(み)言葉を通して、だと思います。例えば、仮庵の祭りで主イエスが呼びかけられた「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7章37節)との御言葉に、本当に“自分”が呼びかけられているようなリアリティを感じて、主イエスの言葉に心の渇きを癒されるような実感を感じることが、信仰の世界にはあります。痛んだ魂、傷ついた魂、疲れた魂は、主イエスの救いを求めて、虚心に主イエスの御言葉を聞くのです。
 私は、牧師の家庭で生まれ育ちました。物心ついた時に、神とイエス・キリスト、信仰は当たり前の世界に生きていました。けれども、信仰が生活化、習慣化していても、自分の心を揺さぶるような神のリアリティと出会っていたわけではありません。16歳で洗礼を受けた時も、決してこのリアリティを感じていたとは言えません。
 そういう信仰生活の中で、人生に挫折(ざせつ)し、悩み苦しんでいた20歳の時に、私は、主イエスの御言葉を通して、神のリアリティと出会いました。生きている価値がないと自分を否定した私が、“あなたは生きてよい。ダメ人間のままで生きる価値がある”という命の真理というべきものを捜し当て、理屈抜きに“そのとおりだ、アーメン”と実感したのです。そのリアリティが、私の信仰を、私の人生を、根底のところで常に支えています。
 私たちは、何をもって神を信じるのでしょう?イエスを救い主と信じるのでしょう?客観的な根拠などありません。聖書を通し、教会を通して、主観的に、主イエス・キリストの救いのリアリティ、愛のリアリティと出会う時、私たちは、神を信じる者、主イエスを信じる者とされるのです。



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