坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年8月19日 主日礼拝説教 「命の光を持つ」

聖書  ヨハネによる福音書8章12〜20節
説教者 山岡 創牧師 


8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
8:13 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
8:14 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
8:15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
8:16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
8:17 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。
8:18 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」
8:19 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
8:20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。



          「命の光を持つ」
 私が神学生だった時に、こんな経験をしました。八王子のセミナーハウスで神学校の一泊修養会があった時のことです。私は、川越から自動車を運転して現地に行きました。そして、修養会も無事に終わり、夕方の帰り道、私は大宮に住む友人を送ることにしました。高速道路を使わず、一般道で帰って来ました。川越まで帰って来て、国道が込んでいたからかどうか、私は、少しでも短い距離を進んで時間を短縮しようとして、新河岸から南古谷への田圃の中の道を抜けることにしました。ご存じの方もおられるように、私得意の抜け道、脇道を進むパターンです。初めて走る道でしたが、方向には自信がありました。ところが、陽がとっぷりと暮れて、暗闇だったために、途中でどっちに進んでいるのか方向が分からなくなりました。めっちゃ焦りました。田圃の中の道を、あっちかな?こっちかな?と迷いながら走り、やっと大きな道に出て、道案内の青い標識を見て、自分がどこに向かっているのかを認識するのに30分はかかったと思います。友人を乗せていたこともあって、本当に冷や汗をかきました。
 日中であれば太陽の光があるので、時間と太陽の位置で、自分がどの方向に進んでいるのか分かるのですが、暗闇の中で全く方向感覚を失ってしまったのです。今はカーナビ(私はアナログな道路地図を見ながら行くのが好きですが)というものがあるので、夜でも迷わないでしょうが、30年前はそうはいきませんでした。

 明るい光の中を歩くのでなければ、私たちは道に迷います。主イエスは言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(12節)。
 時はユダヤ人の祭りである仮庵祭(かりいおさい)がエルサレム神殿で行われている時でした。祭りの最終日に“光の祭り”と呼ばれる特別な記念イベントが行われたようです。その記念イベントに合わせて、被(かぶ)せて、「わたしは世の光である」と主イエスは宣言したものと思われます。
 あなたがたユダヤ人は、神という光を持っていると思っているかも知れない。光の中を歩いていると思っているかも知れない。けれども、実はあなたがたは暗闇の中を歩いている。「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか」(14節)、見えていない。だから、世の光、真の光であるわたしのもとに来なさい。そうすれば、あなたの歩く道が、進むべき道が分かるようになるから‥‥。主イエスはこう言って、祭りに集まって来たユダヤ人たちを、また祭りの主催者であるユダヤ人たちをも、ご自分のもとに招いておられるのです。
 「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか」。私たちの生き方、人格、そしてアイデンティティーに関わる、深く、大切な課題です。“自分探し”という言葉を、時々、耳にしますが、それは自分の人生、自分がどこから来たのか、その根源を確認し、どこへ行くのか、その目標、目的地を見つけ、定めていく営みです。それがはっきりしなければ、私たちは迷います。あたふたします。不安を感じ、落ち着きと自信を持つことができません。「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか」を知るためには、カーナビではありませんが、人生の位置情報が必要です。ガイド(道案内)が必要です。光が必要です。そして、神を信じる私たちにとって、それは聖書であり、主イエス・キリストです。
 ユダヤ人も、「光」を持っていると思っていました。それは、私たちと同じく聖書です。彼らの場合、聖書を“律法”と呼びました。律法こそ、彼らを照らし、導く光でした。旧約聖書・詩編119編105節にも、「あなたの御(み)言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」とあります。また同じく130節では、「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」と詩編の作者は語っています。「御言葉」とは律法のことです。神の御言葉、律法こそ、ユダヤ人たちにとって「光」でした。

 ところが、神の御言葉、律法は、あなたたちにとって「光」になっていない、と主イエスは鋭く指摘します。それは、御言葉の開かれ方、聞き方が問題だということです。つまり、御言葉を、律法を解き明かして、人は、その真髄である神の御心を汲み取ります。命の真理、命の光を悟ります。けれども、あなたたちは神の御心を汲み取れていない、と主イエスは言われます。そして、あなたたちが汲み取れていない事実は、「あなたたちは肉に従って裁く」(15節)その様子から分かる、と主イエスは言うのです。
 直前の8章1節から始まる箇所に、姦通の現場で捕らえられた女性を裁く話が出てきます。仮庵祭のさ中、姦通の現場で捕らえられた女性が主イエスの前に引き出されました。律法には、姦通罪は石打ちの刑で死刑と定められていました。その掟を盾にとって、また女性を“人質”にとって、ユダヤ人たちは、主イエスに難題を持ちかけ、陥れようとしたのです。それはまさに、「肉に従って裁く」こと、つまり自分の感情、自分の価値観、自己本位な考えに従って人を非難し、裁く態度でした。
 確かに、律法には石打ちの刑と定められています。けれども、社会的に弱い立場にある人の諸事情を考慮せず、気持を考えずに裁こうとする。また、それを利用して主イエスを陥れようとする。そこには悪意しかありません。律法の中に込められた神の御心を汲み取って、律法を活用しようとする信仰が、人を生かそうとする心がありません。
 答えを迫る人々に、主イエスは、「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)と言われました。こう言われた時、人々は一人去り、二人去り、遂にすべての人が石を投げずに去って行ったと記されています。みんな、まさに律法が開かれる時に射し出でる「光」に照らされたのです。その光の下で、自分自身を見つめ直さずにはいられなかったのです。
 そしてそれは、裏を返せば、律法に込められた神の御心とは何であるか、改めて考えさせられる主イエスの言葉であり、光でした。神の御心は何か?この女性に対する主イエスの言葉によく表されています。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。
 主イエスが15節で、「わたしはだれをも裁かない」と言われたとおりです。文字通りに考えれば、この女性は石打ちの刑でしょう。けれども、そこには冷たい裁きがあるだけで、この女性の命を、これからの人生を生かそうとする温かい心がありません。罪を肯定するわけではありません。それは主イエスも忠告しています。けれども、罪を裁いて、同時にその人も殺してしまうのではなく、罪は裁いても、その人を生かすことを考えておられる。神の愛を、神の温かい御心を、その人が信じられるようにすることを考えておられるのです。
 そう、律法に込められた神の御心とは、“愛”だと、主イエスは汲み取っておられるのです。だからこそ、律法の中で最も重要な掟は?と問われた時、主イエスは、「心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22章37節〜)とお答えになり、また弟子たちには、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)とお教えになったのです。
 律法を、聖書の言葉を解き明かし、汲み取り、私たちの生活に、人間関係に、生き方に活かしていく上で、いちばん重要なポイント、神の御心は“愛”です。愛することです。どうすることが神を愛することになるか?どうしたら、その人を愛することになるか?祈り、考え、適用していくのです。
 主イエスは何よりも、神の愛を大切にされました。神の愛に従って、人を愛そうとされました。主イエスは、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っている」(14節)と言われましたが、それは、ご自分の命の根源は、神に愛されていることであり、また進むべき人生の目標、目的地は、神を愛し、人を愛することだと知っておられる、ということです。主イエスは神の愛に根差し、愛に生きておられるのです。そして、私たちがイエスを救い主と信じて従い、主イエスという光の下で歩くということは、私たちもまた神に愛されている存在であり、私たちも神を愛し、人を愛して生きるように造られたということを知る、ということなのです。

 主イエスに反発し、主イエスを殺そうとさえ考えていたユダヤ人のファリサイ派の人々は、あなたたちは律法を知らない、神を知らない、自分を知らない、と主イエスから言われた時、さぞ悔しかっただろうと思われます。カーッと腹が立ったと思います。主イエスをその場で捕らえて、引き据えたかったに違いありません。
 けれども、彼らは主イエスを捕らえませんでした。捕らえることができませんでした。その理由を、ヨハネによる福音書は、「イエスの時がまだ来ていなかったからである」(20節)と記しています。祭りのさ中であり、主イエスを支持する人々も少なくない。また自分たちの言い分が弱い等、様々な事情があったと思います。けれども、聖書はそれら一切を信仰的に捉えて、「時」がまだ来ていない、と私たちに教えています。
 先週13〜15日、埼玉地区中学生KKS青年キャンプが長野県佐久市の山荘あらふねで行われました。63名が参加し、私たちの教会からも16名が行きました。
 今回のキャンプは、〈備えていてくださる神さま〉とのテーマの下、創世記のヨセフ物語を学び、中学生、高校生、青年の3グループで、それぞれ物語の担当部分を決め、劇にして演じました。兄たちに妬(ねた)まれ、憎まれたヨセフが、エジプトに奴隷として売られ、ファラオの夢を解いたことで、エジプトの農業政策を任される大臣に任命されるという不思議な運命をたどります。けれども、ヨセフはまだ、自分がどこから来て、どこへ行くのか、“自分”を見つけていたとは言えません。やがて、世界に大飢饉が起こる中、ヨセフの兄たちが、エジプトに穀物を求めてやって来ます。そこで10数年ぶりに、ヨセフは兄たちと再会します。もちろん、兄たちはヨセフとは知りません。ヨセフの中には葛藤が湧き起こり、兄たちの心を試すような仕打ちをしますが、遂に兄たちの心を知り、恩讐(おんしゅう)を越えて兄たちと和解するのです。正体を明かしたヨセフは兄たちに言います。「‥しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。‥‥あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるために‥‥わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(創世記45章5〜8節)。
ヨセフと兄たちには、“和解の時”が備えられていました。その時が歳月を経て来ました。
 今回ヨセフ物語を学んで、キャンプの証しの時間、振り返りの時間に、自分の人生に悩んだり、迷ったりするけれど、神さまが自分の人生にもきっと、進む道を備えてくださっている、「時」を備えてくださっていると感じたと感想を述べる中高生、青年が少なからずいました。信仰を養う良いキャンプでした。
 主イエスの「時」とは何でしょう?それは、捕らえられ十字架に架けられる時です。この世の成功・失敗、幸福・不幸の価値観で考えれば、失敗であり、不幸であり、惨めな死です。けれども、その死の先に、神さまは復活の時、栄光の時を備えていてくださいました。そんな主イエスに私たちは従うのです。この世へと遣わされて生きるのです。決して良いことや、都合の良いことばかりではありません。けれども、神さまを信じ、主イエスに従って生きる私たちにも、神さまは、道を備えていてくださる。時を備えていてくださる。苦しみ悩みの意味を知る時を備えていてくださる。涙が喜びに変えられる時が来る。その恵みを自分の人生を信じて、私たちは進みましょう。



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