坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年9月2日 主日礼拝説教 「神に教えられたとおりに」

聖書  ヨハネによる福音書8章21〜30節
説教者 山岡 創牧師 


8:21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
8:22 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、
8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
8:24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
8:25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。
8:26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」
8:27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
8:30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。




          「神に教えられたとおりに」
 「わたしはある」(24節)。今日の聖書箇所に2回出て来ました。よく分からない言葉です。でも、今日の聖書箇所を読んでいて、何かとても重要な意味があるのだろうということは、文脈からして感じられることと思います。
「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(24節)と主イエスはユダヤ人たちに言われました。つまり、「あなたは、いったい、どなたですか」(25節)と問う人に対して、主イエスは、“「わたしはある」という者だ、そのように信じなさい”と求めておられるのです。
 そう言われても、「わたしはある」ということは、やっぱりよく分からない。どう信じてよいか分からない、と思われるのではないでしょうか。

 実は、「わたしはある」というこの言葉、旧約聖書の中で、神が使われた表現なのです。出エジプト記3章で、モーセが“あなたはどなたですか”と尋ねた時、神が、「わたしはある」と自己紹介された言葉なのです。
 モーセのことは知っている方も多いでしょう。新約聖書の中にも、しばしばその名前が登場します。ヨハネ福音書8章5節にも出て来ました。神の掟である律法を、ユダヤ人に仲介した人物です。だから、モーセと言えば律法と、“律法の象徴”としてその名前が出て来ます。
 モーセは、ユダヤ人(ヘブライ人)の子として生まれ、エジプトの王女に拾われ、育てられました。やがて、エジプトの国で奴隷として虐(しいた)げられている自分の同胞たちを救いたいと考えるようになります。そして、行動を起こしますが、最初の企ては失敗し、エジプト人を殺してしまったモーセは、国外へ逃亡します。モーセはミディアンに逃げ、そこでエテロという人に拾われ、その娘と結婚し、エジプトのことなど忘れたかのように数十年、穏やかに生活します。
 ところが、40年経って、モーセが荒れ野で羊の群れを放牧していた時、神はモーセに現れ、エジプトで苦しめられている同胞を救い出せ、とお命じになります。そこで、モーセが、“あなたを遣(つか)わした神は何という名前か?と同胞たちから尋ねられたら、何と紹介すればよいですか?”と尋ねた時、神は「わたしはある」とお答えになったのです。
「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また『イスラエルの人々にこう言うがよい。《わたしはある》という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(出エジプト記3章14節)。
 そのように、神が荒れ野でモーセに自己紹介した「わたしはある」という言葉を、主イエスは、ご自分をユダヤ人たちに自己紹介するのに使ったということになります。つまり、主イエスは、ご自分を神と等しい者として自己紹介しているということです。それをもう少しソフトに言えば、「わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」(26節)、「父に教えられたとおりに話している」(28節)とういことになります。つまり、わたしが話している教えは、神の御心(みこころ)そのものだ、神の御心と同じだ。そういう意味で、主イエスは神と同じ、神と等しい、ということだと言ってよいでしょう。例えば、Aさんという人がいて、その人の弟子が、Aさんに教えられたことと同じことを話していれば、それを聞いた私たちは、“Aさんが言ったのと同じことを言っている”と思い、あたかもAさん自身が、そこにいて語っているかのように感じることがあるでしょう。神と主イエスの関係もそういうことです。

 それでは、「わたしはある」という言葉そのものの意味はどんなことでしょう?「わたしはある」という日本語訳は、新約聖書原典のギリシア語の“エゴー・エイミー”という言葉が訳されたものです。これは英語で言うと“I am(アイ・アム)”という言葉です。普通はI am a teacher(わたしは教師です)というふうに、I am の後に何か言葉が入ります。そうでなければ、本来、意味をなさないのですが、神さまは敢えてご自分をそのように自己紹介されました。それを、新共同訳聖書では「わたしはある」と訳したのです。
 わたしはある。わたしは確かに存在する。わたしは存在の神だ。命そのものの神だ。そんな、強い主張が込められているように感じます。
そこで、“存在”という概念から思い起こしたことですが、I am の“am”はbe動詞と言います。それに対して、人が行動する場合の動詞はdo 動詞です。そして、言うなれば、命のあり方には二つあって、それはbeとしてのあり方と、doとしてのあり方です。beingとdoing、“存在”としての命と“行動”としての命です。
そして、神さまがどちらの命のあり方に重きを置いているかと言えば、それは存在としての命でしょう。ご自分を I am と自己紹介される神さまは、私たち人間の命のあり方も、I am としてのあり方、つまりbe動詞のあり方、beingとしての命だとささやきかけておられるのではないでしょうか。別の言い方をするならば、私たちの命は、行動すること以上に、存在することに大きな意味があるのだと、神はその名前によって語りかけておられるのではないでしょうか。
これをする(do)から価値がある。これができなければダメ。こうでなければならない‥‥‥。私たちは、他人を、あるいは自分を、そのような価値基準で見がちです。けれども、神さまが見ている命は、そうではないのです。あるがまま(be)の命、存在(be)としての命です。
けれども、私たちは、行動するという価値基準に、“できる”か“できないか”という基準に重きを置き、こだわり、縛られます。その姿が如実に表れているのが、8章の最初の話でしょう。
姦通の現場で一人の女性がつかまりました。モーセの律法によれば、この女性は石打ちの刑で死刑です。ユダヤ人たちはこの女性を引っ張り出して、主イエスに、「どうお考えになりますか」と迫りました。つまり、ユダヤ人たちが考えているのは、行動という基準です。この女性は、律法を守ることができず、姦通をしてしまったという行動です。律法という行動基準を満たしていないから、この女性の命には価値がないと考えているのです。宗教的に表現すれば、この女性は“救われない”と考えているのです。
ところが、主イエスは、激しく訴えるユダヤ人たちに、“では、あなたたちも本当にその行動基準を満たしているのか?”と問い返しながら、この女性に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8章11節)と言って、この女性を罰さずに送り出しました。
この主イエスの言葉、まさに「父に教えられたとおりに話している」ということではないでしょうか。主イエスは、この女性を律法という行動基準で見ていないのです。律法に定められた行動を“できたか”“できないか”で裁かないのです。その行動を全く問題にしないというわけではありません。「もう罪を犯してはならない」と言っておられますから。でも、それでこの女性の命の価値を決めていない。あるがままに、大切な命と見ておられる。神さまに愛されている存在として見ておられる。それはまさに、「わたしはある」と言われる神さまの御心そのもの、教えられたとおりの言動でしょう。

 この主イエスの教え、価値観、信仰が分からなければ、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)ということになります。主イエスが達している信仰の域に、行くことができないということになります。人は、存在していること自体に本来の価値がある。できる、できない、その行動にかかわらず、神さまに愛されている大切な存在である。それが分からず、自分も他人も愛することができず、行動によって自分も他人も見て、裁いていたら、そういう生き方はまさに“罪”であり、そのままでは「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(21節)のです。
 「下のものに属している」(23節)とは、まさにこのことです。この世に属している、神でないものに属しているということであり、それは、神の愛を知らず、行動にこだわり、縛られた生き方をしているということです。
 それに対して、「上のものに属している」(23節)とは、主イエスの教えによって生きている、父なる神の御心を知って生きている、ということです。できる、できないに関わらず、ありのままに、自分が神さまに愛されている存在であることを知っている。存在として命に価値があることを知っている。だから、喜び、感謝し、神さまを賛美して、軽やかに生きている。それが、上のものに属している、主イエスに従って生きている、ということなのです。

 主イエスが、「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」(30節)と最後に記されています。その直前に、主イエスは、「あなたたちは、人の子(=主イエス)を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ‥‥が分かるだろう」(28節)と言われています。これは、主イエスを十字架の上に上げて、殺す時ですが、それはまだ来ていません。主イエスが十字架にお架かりになった時(後)、その出来事を、自分の罪のために、この方が十字架に架り、命を捨ててくださったと受け止める者は、主イエスを通して示された神の救いの御心を、神の愛を、そして主イエスが「独り子である神」(1章18節)を信じる者となるでしょう。「わたしはある」と言われる主イエスが、インマヌエルの神であること、世の終わりまで共にいる(ある)神だと信じる者となるでしょう。
その時が来るまでは、主イエスという方が、いったいどなたなのか、主イエスが神と同じ「わたしはある」という方だということが、本当に分かって信じた、とは言えないでしょう。けれども、主イエスの言葉に“何か”を感じたことは確かです。人の命について、生き方について、何か大切なものを捜し当てた人も、中にはいたのではないでしょうか。
 私たちの信仰とて、ある意味、彼らと同じです。疑いの残る信仰です。曖昧模糊(あいまいもこ)とした信仰です。浅い信仰です。パーフェクトな信仰ではありません。いや、パーフェクトな信仰などありません。けれども、主イエスの言葉に、何かを感じた、“神”を感じた。それでよいのです。そこから始めましょう。そこから、「わたしはある」と言われる主イエスと、共にいると言われる主イエスを信じて、一歩一歩進みましょう。



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