坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年9月9日 主日礼拝説教 「あなたは自由になる」

聖書  ヨハネによる福音書8章31〜38節
説教者 山岡 創牧師 


8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。
8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」



          「あなたは自由になる」
 先週の礼拝で聞いた御(み)言葉の最後の言葉30節には、「これらのことが語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」とありました。けれども、これらの人々の信仰はどうなのか?疑問が残るとお話しました。曖昧模糊(あいまいもこ)とした信仰、浅い信仰だと言いました。でも、信仰はそこから始まる、とも申しました。
 どうして、これらの人々の信仰について、このように思ったのか。それは、話がここで終わりではないからです。「信じた」で完結したのではなく、ユダヤ人と主イエスとの信仰問答が、この後も続くからです。しかも、主イエスの言葉を否定する方向へ、不信仰へと続きます。そして、8章の最後、39節では、「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げてイエスに投げつけようとした」という有様で、一連の話は終わっています。彼らは一旦は信じたのですが、その信仰は残念な結果に終わっているのです。

 どうして、そのような信仰に終わったのでしょうか?今日読んだ聖書箇所の最初で、主イエスはこのように、信じた人々に語っています。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(31節)。
 主イエスを一旦は信じたということから言えば、彼らは主イエスの「弟子」と呼べるかも知れません。けれども、弟子の中にも“本当の弟子”と、そうでない弟子がいる。そういう意味で、彼らは“本当の弟子”にはなれていなかった、主イエスの言葉にとどまることができなかった、ということではないでしょうか。
 では、本当の弟子とはどんな信仰を持っているのでしょうか?32節で、こう言われます。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。
本当の弟子とは、主イエスの言葉にとどまる人です。そして、主イエスの言葉にとどまるならば、その人は真理を知ります。つまり、神の御心を知ります。そして、真理を知った人は自由にされるのです。この自由を味わった人こそ、本当の弟子だと言ってよいでしょう。
 ところで、皆さんの中で、洗礼を受けた後で“しまった!”と感じたことがある人はいないでしょうか?“失敗した。受けるんじゃなかった”と自分の洗礼に後悔することがある。その理由は様々でしょうが、その一つは“縛られた”と不自由さを感じることでしょう。
 実は、私がそうでした。私は、高校に入学した直後のイースターに洗礼を受けました。高校受験も無事に終わり、神さまに感謝して、喜んで洗礼を受けました。けれども、1ヶ月と経たないうちに、私は“しまった!”と感じました。と言うのは、その頃の私はサッカー少年で、“サッカー第一優先”に考えていました。もちろん、高校の部活はサッカー部に入りました。けれども、洗礼を受けたからには、日曜日は礼拝を優先しなければならないのではないか。日曜日にも部活や試合に参加したいのに、それができないのだろうか。私は葛藤しました。太い鎖で、イエス様に縛られたように感じました。
結局、私は日曜日も部活を優先しました。自分の心に折り合いをつけるために、夕礼拝や祈り会に出席しました。決して喜んで出席していたとは言えません。
そんな信仰で出発した私が、今、こうして牧師になっています。主イエスの言葉を宣べ伝える人間になっています。神の「真理」を、「自由」を宣べ伝える人間になっています。自分では、しまった、失敗したと思うような洗礼であっても、神さまの目から見れば、きっとその人に最もふさわしく、いちばん良いタイミングで与えられた洗礼の時、信仰のスタートだったのです。
だから、最初の信仰が、浅く、曖昧模糊とした、迷える信仰であっても、いいのです。そこから“本当の弟子”を目指して進めば良いのです。自分の知恵や力ではなく、聖霊なる神さまが自分の内に働いて、助けてくださる。そのことを信じて、イエス様の言葉を聞き続ければよいのです。いつか、真理を知り、自由を味わう時が来ます。本当の弟子にさせていただける時が、きっと来ます。

 「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。
 さて、「真理」とは何でしょうか?そして、「自由」とはどんな生き方をすることでしょうか?自由の反対は、不自由です。そして、今日の御言葉では、不自由という状態は「奴隷」という言葉で表わされています。
 ユダヤ人は、「今までだれかの奴隷になったことはありません」(33節)と主イエスに答えました。けれども、主イエスが言おうとしていることは、そういう意味ではありません。主イエスは、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(34節)と言われました。つまり、現実にだれかの奴隷でなくとも、その人が何かに縛られたような生き方をしていたら、それは奴隷のような生き方、不自由な生き方だと言っているのです。
 あなたがたは「罪の奴隷」だ、罪に縛られている、と主イエスは言いました。それはどういう生き方をしているということでしょうか?罪とは、いわゆる犯罪とは違います。神の掟である律法を破ることが罪だと、単純には言えません。主イエスが考えている罪は、それとは少し違います。
 罪とは、「真理」を知らないということです。真理によって与えられる「自由」を知らず、不自由な生き方をしているということです。
 先週の礼拝で、命のあり方には、being としてのあり方と、doing としてのあり方と、二つあるとお話しました。存在としての命と、行動としての命です。そして、神さまがどちらの命のあり方に重きを置いているかと言えば、それは存在としての命だとお話しました。何かが“できる”から人の命には価値があるのではなく、その行いと結果にかかわらず、神さまは、私たち一人ひとりの人間を、ご自分が造られた存在、命を与えた存在として愛している。大切にしておられる。そこに、私たちの本当の価値があるのだとお話しました。言うなればそれが、主イエスが語っている「真理」です。
 けれども、ユダヤ人は、律法の言葉から、この真理を受け止めず、かえって律法に定められている行いにこだわり、それができるから神に愛されると評価し、できない人は捨てられると、他人のことも自分のことも裁いて、不自由な生き方をしていました。そのように、彼らは「真理」を知らず、不自由な生き方をしているのです。しかも、そういう自分のことを、正しいと思い込んでいました。
 省みて、私たち自身はどうでしょうか?私たちも「罪の奴隷」のような、何かに縛られた生き方に陥っていることがあるのではないでしょうか。
 『たいせつなきみ』という絵本が、そのような私たちの姿を物語っています。マックス・ルケードというカトリックの司祭が描いた絵本です。
 ウイミックスという人形の村がありました。そこに住む人形たちは毎日、お互いに金色のお星様シールと灰色のシールを相手の体に貼り付け合っていました。つるりと滑(なめ)らかな木でできていて、絵具もきれいに塗られていたら金色のシールが貼ってもらえる。でも、木がデコボコ、絵具もはがれていたら灰色のダメ印シールが貼られる。力持ちだったり、難しいことを知っていたり、上手に歌を歌える人形には金色シール、でも何もできない不器用な人形には灰色シールばかりが貼られていました。ウイミックスたちは、金色のシールを貼ってもらいたいと他人の目を気にし、また灰色のシールを貼られた自分がどう見られるかとビクビクしながら過ごしていました。
 その村に、パンチネロという人形が住んでいました。灰色シールだらけでした。何とか認めてもらいたいとがんばるのですが、うまくいきません。あきらめていました。自分をダメな奴と思っていました。
けれども、ある日、彼はルシアという人形と出会います。彼女の体には1枚のシールも貼られていませんでした。金色も灰色もない。だれかが貼り付けても、すぐにはがれ落ちるのです。不思議に思ったパンチネロは、自分もそうなりたいと思い、その訳を聞きます。するとルシアは、丘の上に住んでいるエリという彫刻家と毎日会って、話しているからだと答えました。
 やがてパンチネロは、意を決して彫刻家のエリに会いに出かけます。エリは人形たちを造った人物でした。“周りの人形がきみをどう見るかなんて大したことじゃない。問題は、私がきみのことをどう思っているかだ。そして、私はきみをとても大切だと思っている”。エリはそう言いました。その言葉を聞いて、パンチネロは嬉しくなります。エリは、私の言っていることが本当に分かるには時間がかかるから、“これから毎日、わたしのところにおいで”と言ってパンチネロを帰します。家に帰る途中、パンチネロは、“あの話は本当だぞ”と心に思います。すると、その体から灰色シールが1枚、ポロリとはがれ落ちる‥‥‥そこで絵本は終わります。
 この絵本、まさに「真理はあなたたちを自由にする」話です。“できる”ことに価値があるという考えから、他人の評価を気にして生きている生き方から、私たちを自由にします。けれども、私たちは「真理」を知らず、「自由」を知らず、不自由に生きていることが少なからずあるでしょう。
 他でもない私自身がそうでした。私も、意識したことはありませんでしたが、何かが“できる”人間が偉いと思って生きて来ました。いつの間にか周りの人の評価を気にするようになっていました。大学受験の時に、周りの人から“あいつはできる”と評価を得たいと思いました。“ダメなやつ”と思われたくありませんでした。それで、進学する目的がはっきりしないまま、学歴欲しさに受験しました。失敗しました。2年間、浪人することになりました。2浪目の時、迷いの中で勉強に身の入らない自分を、ダメ人間だと感じました。周りの人が自分をどう見ているか、とても気になりました。こんな、“できない”自分を、神さまは愛してはくださらないと思いました。消えてしまいたくなりました。
 そんな不安な生活の中で、ある時、“自分は神に愛されている。自分はダメなままで生きていい”ということに気づきました。すると、それまでズシリと肩に乗っていた重荷がなくなったように感じたのです。別に現実が変わったわけでもなく、相変わらず“できない”浪人のままだったのですが、心が晴れて、軽やかに生きられるように変えられていました。現実が変わったのではない。現実を見る私の見方が変えられたのです。「真理」が私を「自由」にしてくれたのです。それは曲がりなりにも教会につながり続け、真剣に聞く気もないながら主イエスの言葉を聞き続けた結果だったのかも知れません。きっと聖霊なる神さまが、窮地(きゅうち)にある私の心に働いてくださったのでしょう。

 とは言え、その後も、不自由に陥ったことがしばしばありました。“できる”から価値があると考えている自分、その価値観で他人も自分も裁いている自分がいます。あなたの命が、あなたの存在そのものが、あなたのありのままが愛されている、という真理を忘れそうになることがあります。現実の苦しさや、反対にすばらしさが、神の愛を見つめる目をくらますのです。
私たちの信仰生活とは、そういう自分に気づいて、「真理」と「自由」に立ち帰ること、すなわち悔い改めることの繰り返しです。それでいい。立ち帰ることのできる場所を、希望を、安心を持っているということは、何と幸いなことでしょうか。私たちは、御言葉と祈りによって毎日、この真理と自由に向かって生きるのです。



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